第三章 彼女が出来ました
「うーっす!」 昨日とは打って変わって、とても軽い足取りで俺は美術室へと足を踏み入れた。 いつもと同じように返ってくるかと思ったが、この日は嬉しい返答が返ってきた。 「おっそーい。ずっと待ってたのに〜。えい、おしおき」 「お、おい! やめろよ、鈴本っ! やめっくすぐったいって!」 扉を開けた途端、鈴本が俺目がけて抱きついてきて、おしおきという名のくすぐりをしてきた。 しかしこれだけで鈴本が満足したわけでもなく、 というか俺が口を滑らせたせいで、鈴本は更にくすぐりを強化した。 「また鈴本って言った〜。この、分からず屋さんめ!」 「やっやめっ……! 分かった! 分かったから! 琴音っ、やめてくれっ」 「よろしい」 鈴本の名前を呼ぶことによって、俺はようやくくすぐり地獄から開放されることが出来た。 ほっとすることが出来た俺は、何となく鈴本の方へ目を向けてみた。 「んー?」 「……っ!?」 鈴本は俺と目が合った後、優しく微笑み返してくれた。 (なにこれ……。めっちゃ可愛いんですけど……!) 顔の温度がどんどん上がっていくのが分かった。 出会った当初からスペックが高い事は百も承知だったが、まさかこれほどとは……! こんな女の子に毎日抱きつかれていたのか、倉崎は! 俺は軽く殺意を覚えた。 「増田、鈴本さん。いつまで廊下前でイチャイチャしてんのさ。ほら、部活やるんでしょ?」 「はーい」 「お、おう。悪い」 倉崎が呆れ顔で、 イチャイチャ(傍から見てもやっぱりそう見えるのか……)している俺らを咎めた。 鈴本は不満げに元居た所と思われる机にと戻っていき、 俺も適当な椅子を見つけて、そこに腰を落ち着かせた。 「じゃあ増田も来たことだし、部活再開だね」 声が通らない鈴本の代わりに、倉崎が部活再開の旨をみんなへと伝えた。
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「増田君。一緒に絵描かない?」 「え? あ、あぁ別に良いよ」 「それじゃあ隣失礼するね」 部活が始まって、今日は何をしようかなんて考えてきたら、 珍しく篠原が一緒に絵を描こうって俺の近くに来た。手近にあった椅子を軽く引いて隣に座る。 「何描こうか? 増田君の好きな物で良いよ」 「うーん、じゃあ……蜜柑とかどうだ?」 「良いわね。私、画材持ってくるわ」 「お、サンキュー」 篠原が画材を取りに行くために、美術室の奥の方にある準備室へと入っていった。 俺は篠原が帰ってくるのを待ちながら、今日何度目かの状況整理を始めた。 (普段、倉崎やレイと一緒に作業してるのに、今日は俺とか……。 これも試薬品Xのおかげなのかね? ……でもそういうことで考えるとするならば、篠原も俺のことを? いや、まさかそんなことは無いよな……。だって篠原はレイと付き合ってるんだし…… いくら試薬品Xといえど、元々誰かと付き合っている女子は効果対象外だよな) ひとしきり可能性を考え、 状況整理が終わった所で、画材を取ってきた篠原が準備室から帰ってきた。 「お待たせ〜。それじゃあ描き始めようか」 「お、あんがと〜。よし、描くか」 画材セットから何本か下書き用の鉛筆を取り出し、目の前に置かれた紙に向ける。 さぁ描くぞ! ……と意気込んだは良いのだが―― (どこから描いていけば良いんだ……?) 蜜柑を描くと言っても、この前みたいにモデルが目の前にあるわけではない。 要するに自分の記憶だけで描かなくてはいけないのだ。 いや、別に蜜柑の形が分からないとか、そういうわけではない。 そらで絵を描く方法が分からなかった。俺は隣に居る篠原に、助けを求めることにした。 「なぁ篠原。モデルが無い時の絵って、どうやって描けば良いんだ?」 「あ、うん。それはね……。え? 今、増田君、篠原って――」 「何してるの〜?」 「うわっ! 琴音かよ……。 いきなり気配も無く、後ろから抱きついてこないでくれ。心臓に悪い……」 「えへへ、ごめん」 「悪い、篠原。もう一回言ってくれないか?」 琴音の妨害により、篠原の言葉が途中で遮られてしまった。 俺は琴音の分まで篠原に謝りながら、もう一回言ってくれるように頼んだ。 しかし答えが返ってきたのは、 篠原本人からではなく、先程奇襲をしかけてきた琴音の方からだった。 「篠原? 何で優作君。裕子のことを苗字で呼んでるの?」 しかも俺の要請に対する答えじゃなかったし……もっと言うなら何故か疑問だし。 でもその疑問は俺にとって覚えが無いことで、俺は疑問を疑問で返してしまった。 「何言ってるんだ? 俺はいつも篠原って呼んでたはずだが……?」 「え〜だいぶ前から『裕子』って呼んでたじゃない」 「?」 なんだ? 琴音と会話が噛み合わない。 俺は一度も篠原のことを名前で呼んだことは無いはずだが……。 これ以上、琴音と話しても埒が明かなそうだったので、 俺は本人である篠原に尋ねてみることにした。 「なぁ篠原。俺ってお前のこと、裕子って呼んだことあったっけ?」 俺が篠原の方に向き直って、琴音と同じように疑問を投げつけてみると、 篠原は一瞬驚いた表情を見せた後、少し顔を俯かせて、声も抑え目でこう答えた。 「呼んだこと、あるよ? 私達が『付き合い始めた』時に、 名前で呼んであげる、って言ってくれたじゃない……。それから、ずっとよ……?」 「そうか……そうだったよなっ。俺とお前が付き合い始めた時に――――」
(ってえええええええええええええええええええええええええええええええええええええ)
篠原の答えに対して、つい反射的に反復してしまったが、 よくよく考えてみると、とても無視出来ないレベルの単語が篠原の返答の中に入っていた。 (付き合ってる? 俺と篠原が!? 待て待て待てっ! 俺の記憶が確かならば、篠原はレイと付き合っているはず…………っ! もしかして) これも試薬品Xの仕業なのか……? そもそも付き合ってもいなかった俺と篠原を恋人関係に? そんな強引なことまでしてしまうのか、試薬品Xは……! (いや、ちょっと待て。確か、あの時……) 俺は田中の言った言葉を思い出していた。
「願ってない所は、試薬品Xが勝手に補填するか、設定するようですね」
「っ!」 「どうしたの……? 増田君」 さっきから頭を抱えて記憶を掘り返していたので、篠原が俺を心配し始めた。 この時の俺は、 篠原の声も拾うことも出来ない程余裕が無く、ひたすら試薬品Xの忠実さに驚愕し……。 そして、少し恐怖していた。 (俺のせいか? 俺が細かく指定しなかったから、レイと篠原は別れ……いや話を聞く限り、 篠原の中で俺とレイが置き換わってるのかもしれねぇ……) 試薬品X……。願いに忠実なのは大いに結構だが、まさかこれ程とは……! 「――さく君! 優作君!」 「っ! こ、琴音か?」 耳元から微かに、しかし必死さが伝わってくる清らかな声によって、 俺は思考の海から這い出ることが出来た。 我に返って、呼ばれた方へ目を向けてみると、琴音がとても心配そうに俺を見ていた。 俺と目が合って安心したのか、表情が綻ぶ。 「良かった……。呼んでも全然返事してくれないから心配しちゃって」 「ごめん。ちょっと考え事をな……」 「考え事? 本当に大丈夫、増田君。顔色も心なしか悪いような」 俺の顔を覗き込んで、篠原も俺のことを心配していた。 俺は精一杯元気そうに振る舞い、力無く微笑みながら返事した。 「あははは、大丈夫大丈夫。と、言いたい所だが、ちょいと気分が悪くなってきちまった。 ……今日は帰らせてもらうわ」 持っていた鉛筆を机の上に置き、近くに置いてあったバッグを取るために立ち上がる。 篠原と琴音は俺を気遣った後、俺を見送った。 「気をつけてね? お大事に」 「増田君、今日は早く体を休めないと駄目よ。お大事にね……?」 「おう、ありがとな」 そう言って、俺は美術室を出ようと二人に背を向けた。 実際、俺は別にどこも体に異常は無い。 気分が悪いというのは嘘だ。 でもここに居れば居る程、俺の頭はどんどん混乱していってしまう。 まだ俺は、この状況の変化に適応出来ていなかった。 だからこそ、頭がパンクする前に帰ることにした。 (俺と、篠原が付き合ってるか……。 レイはそのことをどう思ってるんだろ? ……それと倉崎も) 美術室を出る直前、 俺ら3人が居た所より少し離れて絵を描いていた2人の方に目を向けてみた。 倉崎もレイも一定間隔を空けて一人で作業している。 数秒間、見ていただけだったが、 どうやら俺の視線に気づいたらしく、2人は机から顔を上げてから、 俺に向かって、じゃあね、といった風に手をひらひらと振った。 俺は2人に手を振り返した後、美術室を後にした。
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何事もなく自宅に着いた後、俺は制服から着替えることなく、自らのベッドに倒れ伏した。 今日だけで凄く疲れた……。 普段の生活より何倍も頭を酷使し、 ラブレターを貰ったことによる興奮が、俺を心身諸共疲弊させていた。 (あとついでに言うなら喜びの舞も) ベッドに倒れ込んでから、数分経たない内に俺は夢の世界に旅立ってしまった。
続
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