第一章 度を越した世間知らず
2月17日。あの忌まわしきバレンタインデーから、土日を挟んだ月曜日。 「そんじゃ、行ってきまーす」 「はーい、行ってらっしゃい」 朝起きて支度をし、足取り重く俺は我が家を出た。 「うーっさぶっ」 暖房が効いた暖かな家を出ると、 これぞ冬と言わんばかりの寒気が、俺の体に纏わりついてきた。 学校指定の冬服を着てはいるが、あまり効果が無い。 もう一枚くらい羽織っておけば良かったな……。 「はい。これくらいしか無いけど」 「お、サンキュ」 不意に俺の左側から、黒い上着が手渡された。 俺はそれを受け取り、何を疑うでもなく、目の前の寒さを凌ぐためにそれを羽織った。 「あー、これでもまだ寒いな……。だいぶマシにはなったが」 「ぐだぐだうるさい。斬り捨てるぞ」 右側から相当数の殺気を受ける。朝っぱらから平常運転だよな、お前らって。 ……ん? 俺はふと向かって右側に視線を送った。 「……なに?」 続いて、左側にも目を向ける。 「ん。おはよう」 「…………」 とても見慣れた二人がそこには居た。 「お前ら、いつから居たんだよ!?」 早朝8時前だというのに、俺は思わず大きな声を出してしまった。 両隣に居た綾と美影は、俺が大声を上げると同時に、それぞれ自らの手で耳を塞いだ。 耳を塞いだまま、滅茶苦茶不機嫌そうな顔をして、綾が俺を睨みつける。 「うるさい、近所迷惑。やはりその口は斬り落とすか」 「その物騒な考えはそろそろやめようぜ!? いい加減体が――ンーッ! ンーッ」 「朝は声量を抑えて。本当に近所迷惑」 綾に非難の声を上げていたら、どこからか呪縛布が飛んできて、俺の口元を縛り上げた。 会話の途中だったので、声にもならなかった声が、呪縛布内で虚しく響く。 「声を抑えてくれるなら外す」 俺は大きく頭を縦に振り、肯定の意を示した。 そんな俺を確認した美影は、俺の口元を縛り上げている呪縛布を解いた。 俺は今度こそ細心の注意を払い、出来るだけ周囲に通らない声で、二人に本題を問いかけた。 「……それで、お前らはいつから俺の隣に陣取ってたんだよ」 「あなたが家を出た瞬間から」 マジかよっ! この声も一瞬大きく出しちまいそうだったが、俺は間一髪飲み込むことに成功した。 ていうか、こいつらと話してると、本当に会話の進行スピードおっせぇな。 どうしたもんかね……。 「そんなことより寒くない? さっきまだ寒いって言ってたから……」 「ん? いや、もう大丈夫だ。なかなか暖かいからな、この上着」 「そう、良かった」 何食わぬ顔で、俺の事を気遣ってくれているのは大変ありがたいのだが、 よく見ると美影は明らかに俺より着込んでいなかった。見る限り、指定の冬服のみ。 それに対して綾はちゃんと…… こちらもあまり着込んでいなかった件について……。 「おいおい、お前らこそ寒くないのかよ? 今日、結構冷え込んでると思うんだが……」 「大丈夫」 綾は冬の寒さをまるで感じていないといった風に、いつも通りの無表情でそう答えた。 相変わらずたくましい。 なんか綾なら、どんな状況であろうと平常運転を貫き通しそうで怖い。 ……まぁあくまで推測だけど。 「美影は……ってお前、だいぶ無理してねぇか?」 「冬は、これくらい寒いのが自然。……だからこの体の震えも、とても自然……」 対して美影の方は、両腕で体を包み込むようにして、寒さに堪えていた。 全身は携帯なんかとは比較にならない程、震え上がっている。 顔色もだいぶ青ざめていた。 「無理すんなよ……。ほれ、上着返すから」 「大丈夫、それはあなたが使って……。我には、アルテミスの加護が――」 「つべこべ言うな」 「――あっ」 俺は美影の言葉を遮り、強引に美影の肩に先程貸してもらった上着をかけた。 「寒さを我慢する方が不自然だ。 しかもそれは元々、お前のだろ? お前が羽織ってた方がよっぽど自然だ」 「そ、そうなの?」 「あぁそうだ」 全く、変な所で強情なんだよな美影って。 気を回してくれるのは嬉しいんだが、どこか数十メートル位先で空回りしている。 さっきも、そうなの? って…… 自分の物は自分で使うのが一番自然だろうに。 「あぁでも、貸してくれた事は素直に嬉しかったぞ。あんがとな」 「ん。どういたしまして」 微笑みながら美影はそう言った。 その笑顔は優しく、とても魅力的で……。 俺はすっかり、そんな美影に見とれてしまった。 思えば、学校に来るようになってからというもの、綾も美影もよく笑顔を見せるようになった。 最初出会った頃とは、もう比較にならない程に。 「じろじろ見るな。減ったらどうする」 美影の笑顔に見とれていると、綾が後ろから非難の声を浴びせてきた。 「どんな怪奇現象だ。どんなに見たって減りゃしねぇよ」 盛大に間違っている所を訂正しながら、軽く返答を返す。 綾も冷静さを保ってるかと思いきや、 時々洒落なのか何なのか、区別しづらいものをぶっこんでくるよな……。 まぁ大抵、世間知らずの賜物なんですけど。 「え、減らないの?」 「…………」 世間知らずはここにも居たようで……。 美影は首を傾げ、きょとんとした表情で俺に問いかけてきた。 俺は返す言葉が見つからず、眉間に皺を寄せると同時に、額に手を当てた。 数秒間、悩みに悩み抜いた後、二人に質問する。 「なぁ……本当に、人はずっと凝視されたらどんどん減ってくもんだと思ってたのか?」 「……」 綾が真顔で首を縦に振った。 マジかよ……。質量保存の法則ガン無視だな。 「結城がそう言っていた」 てんちょー! 何、嘘吹き込んでるんですかっ? 今回は少しタチが悪いですよ! 俺はこの場に居ない青年の姿を思い浮かべながら、二人に本当の事を教えてやった。 「大丈夫だ。人間、どんなに見られても絶対に減らないから。 それは比喩だ。都市伝説みたいなもんだ」 「それ、本当?」 「嘘じゃないだろうな?」 正しい事を教えてやったのに、何故か疑いの目を向けられている俺。 何故にこの場面で頑固モードに突入するのだろうか……? お前ら店長信じすぎだろ……。 「そんなに疑うんなら、帰ってからでも店長に聞いてみろって。 きっと訂正して俺の言った事が正しかったって――」 「分かった」 半ば面倒くさくなってきたので、 店長に丸投げしようと話を進めていると、綾が肯定の意を示した。 「? 分かったって一体何が――」 「今から聞いてくる」 「へ?」 「大丈夫、HRには間に合わせる」 「いや、そういう事じゃなくて……っておい! 行っちまったよ……」 綾と美影は俺の制止を全く聞き入れることなく、 驚異の身体能力を活かして、あっという間に走り去っていってしまった。 (俺、帰ってからって言わなかったっけ?) 自分の言動を頭の中で思い浮かべながら、俺は再び歩き始めた。
▲
あれから何分か歩いていたら、前方に親友の姿が見えた。 俺はすぐに、そいつの元へと走っていった。 「よう、倉崎」 「あ、増田。おはよう」 軽く挨拶を交わす。 「あれ? 今日は柊さんと西園寺さん、いないんだね。喧嘩でもした?」 倉崎が軽く辺りを見渡し、俺に問いかけてきた。 俺は否定しながら、倉崎の問いに言葉を返す。 「喧嘩はしてねぇけどよ。実は、かくかくしかじかで……」 「それで説明が済むのは小説や漫画の中だけだからね?」 「ちぇっ」 こんな何でもないようなやりとりを終えた後、 俺は渋々先程のことを倉崎に説明した。
続
|