前日談C 妥当な心配
プルルルル。プルルルル。 家に鳴り響く電子ベルの音。 その音に少し急かされながら、小走りでやってきた女性が電話に対応する。 「はい、もしもし。鈴本ですけど」 電話の先から聞こえてきた声は、対応したその人もよく知っている人だった。 電話のスピーカーからは、落ち着いた声が聞こえてくる。 「もしもし。篠原ですけれども。琴音さん、いらっしゃいますか?」 「あ、裕子ちゃん? はい、居ますよ。今代わりますね」 「ありがとうございます」 そう返された後、女性は受話器を彼女に渡しにいった。 マイク部分を手で押さえながら、廊下をやや早めに歩く。 そして彼女はとある部屋の扉を開けて、その中に居る人物に出るようにと促した。 「琴音。裕子ちゃんからよ」 中に居た琴音は、一度頷いてから受話器を受け取った。 一旦作業する手を止めて裕子からの電話に出る。 「もしもし。裕子?」 「あ、もしもし。うん、そうよ」 確認し終わった所で、琴音は彼女に問いかけた。 「どうしたの? こんな時間に」 時計に目をやりながらそう言う。 時刻はもう9時を回っていた。 電話の向こうから返事が返ってくる。 「ううん、ちゃんと準備した? って思って」 「したよー。失礼ねー」 そう返しながらも、隣にあるバッグに視線を移す。 するとそこにはまだ、収まりきっていない着替えや、 まとまりきっていない荷物が散乱していた。 「なら良いんだけど」 電話の向こうから、微笑交じりの声が聞こえてくる。 信じているのかいないのか、いまいち読み取れない返事だった。裕子が続けて言う。 「忘れ物ない? 歯ブラシとかちゃんと入れた? 着替えは2日分だよ?」 「もぉー分かってるってばっ」 心配性な彼女に頬を膨らましながら、 そこら辺に散らばっていた中から歯ブラシを手に取り、目の前にあるバッグにしまい込む。 着替えはまだ入れていない。 というか何を持っていこうか、未だに決まっていなかった。 少し自分の中に焦りが見え隠れし始める。 「裕子。他に持っていけばいい物ってある?」 もはや体裁は全く気にせずに、彼女はそう問いかけた。 そう問いかけると同時にとりあえず片っ端から入れていく彼女の耳には、 裕子のしょうがないなぁといった感じのニュアンスが含まれた声が聞こえてきた。 「そうね。後は――」
(これで、最後……!) 最後の1つを入れ終えて、ようやく琴音は準備を終えることが出来た。 手伝ってくれた裕子に感謝の言葉を告げる。 「終わった〜。ありがとー裕子」 「どういたしまして」 現在、通話時間は30分超。裕子の心配は妥当なものだった。 達成感を感じながら、琴音はふかふかなベッドに倒れこむ。 そうして布団に顔をうずめさせていると、再び耳元から声が聞こえてきた。 「琴音。今のうちに目覚ましセットしておいた方が良いんじゃない? 明日はいつもより早いし」 「あ、そうだね」 言われてまた、初めて気づく。 再び体を起こして、ベッドの上部付近にある時計に手を伸ばす。 そしてその丸っこい目覚まし時計を手にとって、琴音は時間をセットし直した。 いつもより1時間ほど早い時間に。 「これでよし、と。後は寝るだけっ」 「…………」 そう言った琴音に、裕子は何も言葉を返さなかった。 確かに、琴音の言う通りだから、ということもあるが、 それ以上に、やっぱり彼女は琴音のことを心配していた。 「琴音」 「んー? どうしたの?」 平生通りに聞き返してくる彼女に、裕子は一瞬言うことをためらった。 しかし、やがて恐る恐る彼女はこう問いかけた。 「本当に大丈夫? 今ならまだ断ること出来るよ?」 「大丈夫だよ〜。順斗君達なら何も心配することは――」 「そっちじゃなくて」 「え……?」 突然の遮りに、琴音は言葉を失った。 裕子の言っていることが分からずに、ただただ黙り込む。 そんな彼女に、裕子はそれ以上何も言うことはなかった。 「……やっぱりいいわ。変なこと聞いちゃってごめんね」 「う、うん……」 結局、琴音の理解が及ばないまま、この話は終わった。 しばらく無言が流れた所で、裕子は電話を切り上げるためにこう言った。 「もう寝ましょ。明日早いし」 「あ、うん。そうだね。おやすみ、裕子」 「おやすみ」 そうして、2人の通話は終わった。
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(琴音……) 通話が切れた受話器を見つめ、そう心の中で小さく呟く。 頭の中は、不安と心配でいっぱいだった。 (やっぱり、明日は多少強引にでも、私達だけ……) そう思った裕子ではあったが、もう一度琴音に電話を掛け直すことはなかった。
続
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