トルコ旅行2006雑感
(9) スルタン・メフメトⅡ世:
オスマン帝国を確立し、イスタンブールを首都に定めたのはオスマン朝第7代スルタンとなったメフメ
トⅡ世である。現在でもトルコ人はファーティフ・スルタン・メフメトすなわち征服王メフメトと呼
んで、ボスポラス海峡を渡る第2大橋をその様に名付けている。
旅行仲間のT氏がイスタンブールでの夕食後、メフメトⅡ世と織田信長との不思議な類似性について、
語り始めた。彼がそのことに気が付いたのは、高校3年の時だという。以来そのことに言及した学者
も作家もいないから、私に自説として発表したらどうかという。
彼によれば、2人は100年の間を経て、まるで生まれ変わりのように全く同じ一生を送ったという。
メフメトⅡ世の誕生は1432年旧都エディルネで第6代スルタン・ムラトⅡ世の三男として生まれた。一
方織田信長は1534年尾張の戦国大名織田信秀の次男として生まれている。この誕生には百年後の類似性
はない。しかし、二人とも18歳で父の所領と家臣を父の死亡により受け継いでいる。メフメトⅡ世は
1451年の即位(19才)、信長は1551年(17歳)のことである。メフメトⅡ世1451年の即位は、実際には
彼があと二ヶ月で19才になる時であったという。17才の信長は、昔の年齢の数え方によれば18才であ
ろう。
次に、二人とも即位後直ちに弟を謀り事で惨殺している。オスマン朝では政権を不安定にしかねない
弟たちを即位と同時に密殺するというルールがこのとき以来確立された。
第三に、メフメトⅡ世は敵の宗教上のシンボルであったコンスタンティノープルを1453年5月に陥落さ
せた後、居城トプカプ宮殿の造営を始め、信長は石山本願寺攻略を1570年から始め、延暦寺全山の焼き
討ちを1971年に行い、壮大な安土城を1576年から築造始めた。上の写真は1453年5月メフメトⅡ世のコ
ンスタンティノープル入城をJ.J.P.コンスタンが1876年に描いたもの(トゥルーズのオーガスタン美術館
)であり、創元社「オスマン帝国の栄光」(1995)より借用転写したものである。メフメトⅡ世は普段
は黒い馬に乗っていたが、コンスタンティノープル入城の時はあえて白い馬に乗ったといわれている。
この絵では黒い馬に乗っているが、原画が描かれた時には「あえて白い馬に乗った」ことが考証されて
いなかったと思われる。
第四に、メフメトⅡ世はコンスタンティノープル陥落直後、父のムラトⅡ世の代からの功労者カリム・
パシャ第一首相を殺し、信長も本願寺を攻略した直後、父信秀の代からの老臣、佐久間信盛、林通勝を
追放、餓死させている。
第五に、30才代後半に信長は浅井長政に裏切られ、メフメトⅡ世はワラキアの串刺公に謀られて、二人
とも九死に一生を得ている。信長のそれは1570年袋の鼠となった金ヶ崎城脱出のことであり、一方メフメトⅡ世の
それは相手が吸血鬼ドラキュラ伯爵のモデルとなったワラキア公国のブラド・ツェペシュ(串刺公)
であって、1462年ブカレスト近郊で夜明け前ブラド・ツェペシュが奇襲の切り込み戦を仕掛けて、メフ
メトⅡ世の首を取り損なったことを指している。オスマンの公式資料中に「恐怖の夜襲」と明記されて
いるという。下の写真は2005年ルーマニア旅行時、古都トゥルゴヴィシュテの民族文化博物館の売店で
買ったヴラド・ツェペシュ・ドラクラ公のバッジである。私は帽子にピン止めして愛用している。
第六に、メフメトⅡ世はトルサン、信長は森蘭丸という有名な小姓をかわいがったが、二人とも主
君とホモの関係にあったといわれている。
その他数点の類似性をT氏はあげているが、最後に二人とも49才で死んだとまとめている。メフメト二世
の死は1481年、信長の本能寺の変は1582年、数えで49才であった。
さて、このT氏百年周期説をどう取り扱うかを考えねばならない。そこで両者の年表を見ながら、次のよ
うに大筋を組み立ててみた。
「メフメトⅡ世の霊魂は彼の死後40年イスタンブールの天空を漂っていたが、曾孫のスレイマンⅠ世が
1521年ベオグラード奪取を決意した時にスレイマンⅠ世に乗り移った。スレイマンⅠ世はハンガリーの
領有などヨーロッパへの蚕食を実行し、オスマン帝国の黄金時代を確立した。しかし、1536年大宰相
イブラヒム・パシャを処刑するに及んで、メフメトⅡ世の霊魂はスレイマンⅠ世を見限って、再び天空
に浮遊した。それから15年はるか東方の織田信長の18才での即位を知り、1551年彼の霊魂は飛んでいっ
て信長に取り付いた。かくして信長は百年後メフメトⅡ世の生涯を倣う様な人生を送るが、本能寺の火
炎の中で二人の霊魂は合体したまま焼失し、いずれもよみがえる事は無かった。」
この筋書きをT氏は同意してくれるであろうか。
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