ジャイアント馬場名勝負選 - 後編 -


 いやぁ〜、本当に本当に長いこと、お待たせしました。(←前回と全く同じ枕詞ですな。(爆笑))やっと、ジャイアント馬場さんの追悼・名勝負選の後編を書くことができます。長い間更新をサボってる間に、プロレス界も色々な動きがありまして、やれ長州力が大仁田厚とのワンマッチの為にだけ復帰するんじゃないかとか、やれ4/2の東京ドームで小川直也に負けた橋本真也が本当に引退してしまうのか(橋本は34歳です。レスラーとしてはまさに脂の乗り盛りの年齢ですが。。)とか、何かと喧しいですね。あ、あと今年初めだったかな、米国ではあのゲーリー・オブライトが試合中に心臓発作で急死してしまうという衝撃的な出来事もありましたね。(享年36歳だそうです。)私、オブライトのアマレス仕込みの妥協無き試合は好きだったし、特にスティーブ・ウィリアムスとの「アマレス過激コンビ」は好きでしたので、訃報に接して、とてもショックでした。ご冥福をお祈りする以外に何もありません。それにしても、近年、プロレスラーの早死にが目に付きますね。特に米国で。先のオブライトしかり、何年か前のバズ・ソイヤーしかり、ジノ・ヘルナンデスしかり。このあたり、皆30歳台でしょ。若すぎるよね。まあ、オブライトはどうだったか知りませんが、バズ・ソイヤーやジノ・ヘルナンデスなどは、ステロイドをやってたそうなので、それが1つの大きな死亡原因なのは間違いないんでしょう。やっぱ、クスリはいかんよね、クスリは。(苦笑)尤も、寿命縮めてでも(短期間で)身体を大きくしたい、強くなりたいと思ってるのなら、それは本人の問題だから、他人はもう何とも出来ないんだけどね。。

 さて、話が大きく逸れてしまいました。ステロイドとかの薬物とは全く無縁であった、我らがジャイアント馬場さんの名勝負選、後編の上位4番です。いずれも忘れ難き名勝負ですが、皆さんはどの試合が好きなんでしょうか。「ああ、そういう試合、あったなぁ」と懐かしさに浸って頂ければ幸いです。(^^;では本題に入ります。ごゆっくり、どうぞ。
第4位:ボボ・ブラジル戦(1968年6月25日、愛知県体育館/インターナショナル選手権試合・60分3本勝負)
  ◎ 1本目=(両者リングアウト、14分39秒)
  ◎ 2本目=ブラジル(体固め、2分28秒)
 ジャイアント馬場名勝負選、第4位にランクされますのは、この『黒い魔人』ボボ・ブラジルとの一騎打ち。(多分、馬場−ブラジルの初の一騎打ちだと思います。)馬場の負け試合、負けてタイトルを失った試合ですが、私には子供心にとても強烈に印象に残っています。故に第4位に挙げました。

 この当時のボボ・ブラジルは、ロサンゼルス地区のWWA(世界レスリング協会)の代表的な強豪レスラーであり、ロス地区ではザ・デストロイヤーとかフレッド・ブラッシー、スイート・ダディ・シキなんかと激闘を繰り広げていました。この時の来日時には、確か現役チャンピオンだったように記憶していますが、その私の記憶が正しいかどうか、定かではありません。(^^;(何せ30年以上も前の事です。)ただ、来日時のブラジルが現役のWWAチャンプであろうとなかろうと、形としてはブラジルが馬場のインターナショナル選手権に挑戦する形の契約であり、この当時のインターナショナル選手権が如何に権威の高いベルトであったか、ひいては日本プロレスという会社が如何に隆盛を誇っていたかが、分かろうというものです。

 さて、この時点の馬場は、インターナショナル選手権を21回連続、約2年半に渡って防衛中であり、まさに「馬場の為のインター選手権」とも言われていた頃です。期間的には前チャンピオンの力道山の約5年にはまだ及びませんが、防衛回数では力道山の19回連続を既に抜いており、あとはこの防衛回数をどこまで伸ばせるか、と言われていました。しかも、主だった挑戦者はことごとく退けており、当分馬場の王座は安泰では、と見られていました。

 そこへ送り込まれてきたのが、WWA地区で売り出し中(注*1)の黒人レスラー、ボボ・ブラジル。力道山時代の1957年に一度来日経験があるそうで、11年ぶりの来日だそうですが、11年前はまだ一介の若手レスラーに過ぎず、力道山の空手チョップにあえなくやられていたそうです。ところが、実際に来日したブラジルをテレビで見た私は、凄い迫力にチビりそうになりました。(笑)黒人レスラーといっても、実際には褐色の肌色の人が多いんですが、このブラジルは本当に真っ黒な肌で、それだけでも恐いのに(←いや別に差別表現をするつもりはないですよ)、筋骨隆々、背も高くて(2メートル近い)バランスのとれた身体は、一見して「強い」ってのが、分かる感じでしたね。しかも、黒人レスラーには定番ですが、頭突きが得意技だとか。馬場は(猪木も)頭突きが得意とは聞いたことがなかったので、「ひょっとするとヤバいかも?」という感じは確かにありましたね。この時点で、馬場30歳、ブラジル39歳。(注*2)

 試合のほうは、1本目、前半はオーソドックスな腕・足の取り合いでしたが、いつしかスタンドで馬場が脳天チョップ、ブラジルが馬場の腹を狙ったヘッドバット、というような乱打戦に移行し、最後はブラジルが場外で「あっと驚く」コブラツイストに馬場をとらえて、恐らく狙い通りの場外心中。両者リングアウトで1−1のタイ。(ブラジルのコブラツイストには驚きましたね。頭突きだけのレスラーだと思ってたらこんなワザもあるとは、という感じで。)決勝の2本目は、馬場が必死で脳天唐竹割りを繰り出すが超石頭のブラジルには通じず、逆にブラジルがジャンプしての脳天へのヘッドバット、いわゆる必殺のココ・バットで沈められて、ピンフォール。馬場は22回目の防衛戦にして、初の敗北を喫し、王座を転落したのでした。ちなみに、2日後の蔵前国技館でのリターンマッチで、馬場はブラジルをエプロン・カウントアウトで破って、辛うじて王座奪回に成功しています。

 それにしても、この頃のブラジルは凄かった。馬場がタイトルを奪回した2日後の試合にしても、決勝の3本目、ブラジルが不運にもロープの間に首を挟んでしまっての、カウントアウト負けですからね。馬場はブラジルから2フォール取る事はできなかった訳です。ブラジルは更に翌1969年には春のワールド・リーグ戦に参加してきて、日本側の馬場と猪木、外人側のブラジルとクリス・マルコフが4者同点で決勝となり、くじ引きの結果、馬場−ブラジル戦と猪木−マルコフ戦という組み合わせになり、まず馬場がブラジルと引き分け。猪木がマルコフを卍固めで破って、猪木が初優勝したという出来事もありました。優勝した猪木ですら、リーグ戦の公式戦ではブラジルのココ・バットに破れています。ブラジルは、馬場にも猪木にもフォール勝ちを許さなかった訳で、この頃がブラジルの全盛期でしたね。

(注*1) WWAは、当時としては異色のチャンピオンを生み出す団体で、初の東洋人の世界チャンピオンとして力道山、初の覆面世界チャンピオンとしてザ・デストロイヤー、初の黒人世界チャンピオンとしてベアキャット・ライトなどを生み出しました。また、初云々ではないですが『銀髪鬼』フレッド・ブラッシーのような噛みつき専門のレスラーがチャンピオンになったりと、まあ話題性では常に業界をリードしていたのは確かです。
(注*2) ブラジルが1929年生まれである事を前提に書いてますが、数年前(確か1995年)にブラジルが亡くなった時、スポーツ紙に「享年76歳らしい」と書いてあった事からすると、本当は1920年よりも前の生まれなのかも知れません。まあ、プロレスラー、特に外国人レスラーの年齢は本当に分かりませんからね。(苦笑)
第3位:ジャック・ブリスコ戦(1974年12月2日、鹿児島県体育館/NWA世界ヘビー級選手権試合・60分3本勝負)
  ◎ 1本目=馬場(体固め、11分47秒)
  ◎ 2本目=ブリスコ(足4の字固め、5分39秒)
  ◎ 3本目=馬場(体固め、3分20秒)
 この試合はもう、馬場の名勝負史を語る上では絶対に外す事のできない、歴史的試合です。内容云々よりも、結果。当時世界最高峰の権威を誇り、まだ米国人とカナダ人以外の手に渡ったことの無かった、NWA世界ヘビー級選手権を、馬場が東洋人として初めて奪取したという事実に、何よりの価値のある試合。それが、この第3位に挙げる『南部の麒麟児』ジャック・ブリスコとの一戦です。

 この年1974(昭和49)年、ライバル団体、アントニオ猪木率いる新日本プロレスは、大物日本人対決シリーズが大盛況で、絶好調。猪木は、この年2月に国際プロレスのエースの座を捨ててフリーになった『怒濤の怪力』ストロング小林と、3月と12月に戦い、いずれも大熱戦の末に撃破。更に10月には『韓国の猛虎』大木金太郎も戦慄の喧嘩殺法で葬り去る。5月には同門の『元・柔道日本一』坂口征二と時間切れ引き分け。また、日本人対決ではないが、6月には『インドの狂虎』タイガー・ジェット・シンの右腕を「故意に」へし折るという前代未聞の「一線を越えた」試合をやってのけ、更に8月には『アラビアの怪人』ザ・シークを試合放棄させるほどの殺気に満ちた試合をやってのけ、という感じで、この年の猪木はまさに絶頂期。『日本人最強』の称号にリーチをかけた、と言われている時でした。リーチをかけたという表現に留まっているのは、無論、馬場をまだ撃破していなかったからです。「馬場を破らずして『日本人最強』は名乗れない」事を百も承知の猪木は、小林、大木を連破した勢いで、「馬場さん、日本選手権をやろう」と呼びかけ(=挑発し)ていた頃です。

 この猪木の挑発に対して、如何にも馬場らしい形で年末に回答を送ったのが、このNWA世界戦であった、と言えるかも知れません。何しろ、NWA世界チャンピオンと言えば、ルー・テーズ、ジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニアら歴代のチャンピオンの顔ぶれを見ても凄いの一語。この中に名を連ねるのは、当時は並大抵の事では無かったし、全レスラーの憧れであったと言えるでしょう。馬場は、猪木と違って、このNWA世界タイトルに自由に挑戦できる立場にあった(=NWA会員だった)から、日本人いや東洋人でまだ誰も獲った事のないNWAタイトルを獲って見せる事で、猪木の「日本選手権をやりましょう」に対して、「俺は世界を相手にしてるんだよ。日本だけで争っててどうすんの」と無言の抗議をしたかったとしても、何ら不思議ではないです。この当時の馬場と猪木の確執はそれほど凄まじかったという事です。

 さて、この時のNWA世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ブリスコですが、元はAAU(全米アマチュア体育連盟)のアマレス部門で3連覇した強者で、アマレス仕込みのねちっこいレスリングは、典型的な「勝てずとも負けない」スタイルであり、そういう意味では当時のNWA王者の伝統を正しく引き継いでいるチャンピオンでした。けれども、馬場ほどの実績の人からすればある意味「格下」であり、馬場が「その気」になりさえすれば、勝機は充分有り、という感じでした。ただ、1年数ヶ月に渡ってタイトルを防衛し続けてきたブリスコも、王者として自信を深めているし、ブリスコに上手くかわされてしまっての両者リングアウトとか時間切れとかのペースにはまるのが恐いかな、というぐらいでしたね。この時点で馬場36歳、ブリスコ32歳です。

 試合のほうは、クラシカルな60分3本勝負。1本目は、タイトル奪取に並々ならぬ決意で臨む馬場が、久しぶりの32文ドロップキックから、駄目押し気味に河津落としを決めて先制。2本目は目の色の変わったブリスコが、意表を突いたバックドロップから、十八番の足4の字固めをガッチリ決めて、タイ。3本目は、スタミナを温存していた馬場が、大試合用のとっておき技、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップを、ロープワークの中で突然繰り出して、意表を突かれたブリスコは完全KO。ピクリとも動けずに3カウントを聞かされ、この瞬間にとうとうNWA世界ヘビー級のタイトルが、日本人の手に渡ったのでした。あの巨体の馬場が、デストロイヤーをはじめ日本側の全選手によって肩車されて、顔をクシャクシャにして喜んでいたのが印象的です。

 尚、蛇足ながら付け加えておくと、その後のNWAは、1980年代から、だんだん一部の人間によって私物化されるようになり、1990年代には事実上消滅してしまった、と言って良いでしょう。少なくとも私はそう認識しています。確かに、1990年代に於いても、NWA世界ヘビー級のタイトルは存在したし、日本人である蝶野正洋や武藤敬司がその座に就いたこともありますが、あの頃にはもう、「世界中を駆けめぐって防衛戦を行うNWAチャンプ」なんて影も形も無くなっていたし、権威から言っても、大企業に成長した(?)WWFやWCWの後塵を拝する単なるローカル団体のベルトだと、私は思っています。
第2位:大木金太郎戦(1975年10月30日、蔵前国技館/時間無制限1本勝負)
  ◎ 馬場(体固め、6分49秒)大木
  
 さてジャイアント馬場名勝負選もオーラスが近づいて参りました。第2位に挙げますのは、『韓国の猛虎』金一(キム・イル)こと、大木金太郎とのこの一戦です。ちなみに、アントニオ猪木の名勝負選でも、大木金太郎戦は第6位に挙げています。やはり、猪木−大木戦や馬場−大木戦が名勝負選の上位にランクされるような緊張感に満ちた試合になるのは、その背後に彼らの確執、因縁があるからなのは間違い無い事実です。

 猪木−大木戦のところで詳しく書いたので、ここではもう余り詳しく書きませんが、要するに大木金太郎という人は自分をスカウトしてくれた力道山を神の如く崇めている人であり、その力道山の興した日本プロレス興業株式会社を捨てて、自分らの団体を作った猪木や馬場は、大木金太郎から見ればそれだけで許し難き背信の輩と映る訳です。しかも、彼らが日本プロレスを飛び出したお陰で、あれだけ隆盛を誇った日本プロレスがあっという間に没落し、崩壊してしまったとなれば、最後まで残って何とか日本プロレスを存続させようと頑張った大木にとっては、尚更許し難い訳です。そういう経緯があるから、大木は猪木に対戦を迫る時も馬場に対戦を迫る時も、かなり強引なやり方で挑戦を承諾させています。大木が馬場に対戦を迫った時も、馬場が韓国プロレス協会の招きで訪韓した時(1975年9月)に、ホテルまで押し掛けて行っての事だそうですから、かなり強引です。馬場は、こういう筋を通さない挑戦を嫌う人でしたから、てっきりこの大木の挑戦も無視するもんだと思ってたんですが、さにあらず、この時に限っては受けましたね。この辺の馬場の心境は、今もって謎です。

 それはともかく、大木金太郎は、この前年1974年の10月に、アントニオ猪木に挑戦し、ド迫力の喧嘩マッチの挙げ句、破れています。そのあたりを踏まえると、第6位に挙げたビル・ロビンソン戦の時と同様、馬場としては絶対に負ける訳にいきません。大木金太郎がいくら知る人ぞ知るシュート・レスラー(=真剣勝負に強いレスラー)であっても、猪木に負けた大木に馬場が負けたんでは、馬場の面目丸つぶれ、馬場の団体(全日本プロレス)は、存亡さえ危うくなる事請け合いです。故に、馬場は何が何でも大木に勝たねばならないし、できれば猪木以上の勝ち方をしたいぐらいです。恐らく馬場はそのことを胸に秘めてリングに上がったと思います。この時馬場37歳、大木42歳です。

 試合のほうは、馬場には珍しく時間無制限の1本勝負。しかも、当時保持していたPWFのタイトルを賭けずに、ノンタイトル戦です。当時の馬場の言を借りれば「荒れ試合になる可能性があり、タイトルマッチとしての品位を損なう恐れもあるので、ノンタイトルにした」という事になりますが、これは多分方便でしょう。馬場は、大木が本気で自分を潰しにくる事を感じており、それ故万一負けたら、虎の子のPWFタイトルが流出してしまう事になり、かつチャンピオンである大木がリターンマッチを受けてくれなければ(←当時の確執を考えれば、その可能性は大だった)、ベルトを取り返すチャンスが無い。だから、ノンタイトルにして、その代わり思い切った勝負をするつもりだったんだと思います。

 試合は、緊迫感に満ちたスリリングな展開。大木はいつもの如くヘッドバットを狙うが、上背のある馬場には簡単に届かないので、作戦を変えてボディにヘッドバット。これで思わず前かがみになった馬場の頭めがけて、ついに大木の原爆頭突きが炸裂。この1週間前にアブドーラ・ザ・ブッチャーに額を割られて5針縫っていた馬場の額から、たちまち血が流れ出す。大木はかさにかかって、馬場を場外に落として場外でもヘッドバットの乱打。先にリングに戻った大木は上がってくる馬場をめがけてさらにヘッドバットを打ち込むが、馬場はいさい構わず必死でリングに戻り、自分からロープに飛んで、必殺のジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ。意表を突かれた大木はモロに食らってしまい、カウント3が入った。

 結局、ビル・ロビンソン戦の時もそうでしたが、「見せる」事を捨てて、「勝ちをもぎ取る」気になった時の馬場は強い。この大木戦も、頭突きを何発か食らったものの、巨体を生かした巧みなディフェンスで致命傷になるようなのは1発ももらわず、逆に切り札のジャンピング・ネックブリーカー・ドロップを早い段階で出してきたのだから、これでは大木に勝ち目は無いと言わざるを得ない。尚、この試合の試合時間が6分49秒という短さだったのも、馬場の本気度を伺わせると同時に、前年に大木を破った猪木の試合時間の、13分13秒の半分程度であったのも、馬場の猪木に対する意地の現れではないか、と私は見てるんですが。。
第1位:スタン・ハンセン戦(1982年2月4日、東京体育館/PWF認定ヘビー級選手権試合・時間無制限1本勝負)
  ◎ (両者反則、12分39秒)
 さあ、ジャイアント馬場名勝負選もいよいよベスト1を残すのみとなりました。栄光の第1位はじゃじゃじゃじゃ〜ん、そう、この試合、『不沈艦』スタン・ハンセンとの初対決となったこの試合です。

 この前年1981年暮れ、全日本プロレス年末の一大イベント、「世界最強タッグ・リーグ戦」の最終戦の蔵前国技館大会に、何とそれまで新日本プロレスの看板外人レスラーであったスタン・ハンセンが乗り込んできて、大観衆の度肝を抜いたのでした。そう、この年1981年春から始まった、いわゆる紳士協定無視の「外人レスラー引き抜き合戦」の最終兵器として全日本プロレス側が放ったウルトラCが、スタン・ハンセンの引き抜きだった訳です。それまでは、その年春に、最初に新日がアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜き、報復として全日がタイガー・ジェット・シンを引き抜けば、更に新日はディック・マードックとタイガー戸口を引き抜く、それに対して全日はハルク・ホーガンを引き抜こうとする(これは失敗に終わる)、という感じで、仁義無き引き抜き合戦が繰り広げられたのが、1981年でした。そしてこの戦争を一時休戦にしてしまうインパクトがあったのが、このスタン・ハンセンという新日の超ドル箱外人の引き抜きという荒技でした。これによって、戦争を仕掛けた側の新日のほうが、一時休戦にせざるを得ないほどのダメージを負ったのですから、全日本プロレスというかジャイアント馬場という人の人脈の広さ、懐の深さ、そして怖さを、まざまざとファンは知らされる事になった訳です。

 さて、そうまでして新日本プロレスに、興行的にはダメージを与える事に成功したのは良いとして、問題はハンセンの処遇です。当時のハンセンはまさに脂の乗った絶頂期、当然興業の看板として使いたいが、如何せん、あの猪木をはじめ、坂口征二や上田馬之助をもなぎ倒すほどのブル・パワー、『ブレーキの壊れたダンプカー』の呼び名は伊達じゃない。並大抵のレスラーを当てても、壊されるのがオチです。実際、ハンセンの全日移籍第1戦となった、1月の後楽園ホール大会では、全日屈指のブル・ファイター、阿修羅・原が、わずか3分足らずで眠らされてます。(決め技は勿論ウェスタン・ラリアット。)天龍もシングルでやられました。【2000.07/10訂正追加:読者のかたからご指摘を頂きました。この時(1982年1月〜2月)のシリーズでは、天龍とハンセンのシングル対決は行われてないはずである、との事。私の記憶違いだったようです。訂正します。それにしても、私のこんな駄文をちゃんと読んでる人が居るんですねぇ。(苦笑)】さあ、後はジャンボ鶴田とジャイアント馬場しか残ってないけど、どうするのかな、鶴田は全日にとっては大事なメイン・エベンターだし、こっぴどくハンセンにやられてしまったら、それこそその後の鶴田のレスラー人生に暗雲を漂わせる事になるだろう。とすると、今鶴田をハンセンに当てるのは凄く勇気が要るなぁ。馬場さん、どうするのかな、と思ってたら、何と、馬場御大自らが、ハンセンと一騎打ちを行うと発表。場所は最終戦の東京体育館で、馬場のPWF認定ヘビー級のタイトルを賭けるという。正直、驚きましたね。引き抜いてきて最初のシリーズで、いきなり馬場−ハンセン戦を組むという、馬場の決断に驚きました。

 この時、「ああ、馬場さん、レスラー生命賭ける覚悟だな」と思いました。この頃のハンセンは、単なるブル・ファイターでなく、老練な猪木からタイトルを奪った経歴からも分かるように、インサイドワークというか、頭脳プレーもかなりのもの。40歳を過ぎて衰えがやや目立ってきた馬場にとっては、唯一頼みとするインサイドワークでハンセンの上をいき、攪乱できなきゃ、とても太刀打ちできない訳だが、そのインサイドワークもハンセンは上手いときては、馬場の勝ち目は薄い。虎の子のPWFタイトルを賭けるというのも、もしハンセンにタイトルを獲られたら、後は「鶴田、お前に頼んだぞ」と言ってタイトル奪回は愛弟子に託し、自分は第一線を退く、そういうつもりだったんだろうと、私は感じました。ただ、それほどの追い詰められた立場にあった割には、意外にも馬場には悲壮感が感じられなかったように思います。馬場のそれまでのキャリア、大型レスラーとさんざん戦ってきた実績が、密かに馬場に、「勝機有り!」と自信を持たせてたんじゃないでしょうかね。(この時点で馬場44歳、ハンセン32歳です。)

 さて注目の大一番のほうは、開始直後、両者のロープワークからタックルの相打ち。もう一度ロープに走ってタックルを狙ってきたハンセンに、鮮やかな16文キック。出鼻をくじかれた形のハンセン、それでも例の如く強引な攻めで自分のペースに引き込もうとするが、馬場はあくまでハンセンの黄金の左腕に狙いを絞って、ショルダー式アームブリーカー、アームロック、更には腕ひしぎ逆十字までも繰り出して、これでもかの左腕殺し。常々、「一流レスラーは他人の得意技のマネはしないもんだ」と公言していた馬場が、あろうことか猪木の得意技、ショルダー式アームブリーカーや逆十字腕ひしぎを使ってるんだから、馬場の必死さが伝わってくる。それだけ恥も外聞も捨てて、ハンセンの左腕を殺しておかねば、ラリアットでやられてしまう、と思ってたってことでしょう。しかしハンセンも流石にやられっぱなしではおらず、左腕殺し地獄から何とか脱出すると、すかさず右腕のエルボーで反撃。しかしそれも束の間、気合いの入った馬場は久しぶりの32文ロケット砲から河津落としでハンセンの動きを止め、またも執拗な左腕殺し。ここまでハンセンはほぼ押されっぱなし。こんな試合展開は予想もしてなかった観客は、いつしか「ババ・コール」の大合唱。焦ったハンセンは、10分過ぎに漸く宝刀のウェスタン・ラリアットを炸裂させる事が出来たが、如何せんそれまでの左腕殺しが効いていて、一撃必殺の切れが無い。馬場が場外にエスケープすると、それを追ってハンセンも場外へ。後は場外で、レフェリーを巻き込んでの大乱闘で、いつの間にか両者反則の裁定が。

 まあ、結果的には両者反則で決着着かずの試合でしたが、内容的には8−2で馬場が押しまくった試合。こんな内容を誰が予想しただろうか。馬場の底力をまざまざと見せつけられた試合であり、「馬場、奇跡の復活」と絶賛された試合でした。

 またも余談になりますが、やっぱり、格闘技に於いては「身体が大きい」ってのは、得難い最大の財産だなぁ、とつくづく感じましたね。(ちなみに2番目の財産は「身体の柔らかさ」だと私は思っています。)試合開始直後のタックル合戦でも、馬場とハンセンは相打ちでしたが、猪木とハンセンならいつも猪木が吹っ飛ばされてましたからね。これはまあ猪木の体重(概ね105kg)を考えれば当然の事なんですが。馬場は衰えたと言っても体重135kg、ハンセンも大体135kg程度だったはずですから、体力的(←相撲で言う『重さ』という意味の体力)には互角ですからね。ショルダー式アームブリーカーにしても、上背のある馬場がやると、猪木がやるよりも威力倍増で、あのナチュラルな破壊力は、猪木では出せない世界です。それを良く知っていた猪木は、馬場にない世界、即ち『燃える闘魂』とか『魔性の殺気』などと表現される世界で、自分のカラーを打ち出すしかなかったんじゃないか、などとも思う訳です。