アントニオ猪木名勝負選 - その3 -


 あらら、今回は間髪入れずに連日の更新になりますねぇ。ほんと、更新間隔の気まぐれだこと(苦笑)。でもまあ、更新間隔の短いぶんには、何も問題ないですよね。何せ、久しぶりにパソコンにじっくり向かえる時間が取れてるもんですから、こういう機会に更新しておかないと、他にチャンスはないでしょうから(苦笑)。

 などと、まあ、私の個人的事情はそれとして、では早速、前回に続いて「思い出の猪木名勝負選/プロレスリング編・第三回」をお届けします。それでは、どうぞ!
第6位:大木金太郎戦(1974年10月10日、蔵前国技館/NWF認定世界ヘビー級選手権試合・時間無制限1本勝負)
  ◎ 猪木(体固め、13分13秒)大木
 さて、第15位から書き連ねてきましたこの名勝負シリーズも、残り上位6番となりました。ここらあたりからは、仮に、猪木自身に訊いても(恐らく(^_^;;)、掛け値なしに「私のレスラー人生の中でのベストバウト」としてピックアップするんじゃないかと思われる、珠玉の名勝負集のはずです(多分ね...)。私も、ここから上にランクされる試合については、順位をつけるのに、かなり迷いましたが、仕方ないので、「えいやっ」で、順位をつけてみました。第6位は、一本足頭突きの『韓国の猛虎』大木金太郎との、この一戦です。

 この前年(1973年)の暮れに、猪木は、新日本プロレス旗揚げ後、初の、念願のシングル・タイトル(NWF世界ヘビー級タイトル)を、ジョニー・パワーズを破って獲得していました。さらに言えばその少し前には、坂口征二(及びその配下、木村健吾など)が、日本プロレスを離脱して、猪木の新日本プロレスに合流してきており、テレビ放映もつかないまま見切り発車だった新日本プロレスにも、やっとNET(当時。現・テレビ朝日)の定期放映がついて、経営が軌道に乗ってきたところでした。そして、勢いに乗りつつある新日本プロレスとは逆に、猪木を追い出し、馬場に去られ、坂口にまで離脱された老舗の日本プロレスは、残った大木金太郎らが、必死でささえようとしましたが、スター選手を多数失った会社は、どうあがいても持ち直せず、結局1973年の夏に、崩壊したのでした。この時の、日本プロレス崩壊の経緯がある為に、最後まで残った大木金太郎は、ことあるごとに、「馬場や猪木のような、身勝手な連中が、力道山先生の作った会社を潰した。オレは、奴らを必ず倒して、無念を晴らす」というようなことを、色んなところで言っていたものでした。

 そして、この前年(1973年)の暮れに、(大木とは全く接点のなかった)ストロング小林が、突如、馬場と猪木に内容証明付き郵便を送りつけ、「オレと戦え」と迫ったのに対し、馬場は黙殺したけれど、猪木は例の「私はいつ、誰の挑戦でも受ける」という名台詞を吐いて、受けて立ち、3月に蔵前国技館で実現した試合で、死闘の末、ストロング小林を粉砕して、「実力日本一」の座を、ぐいっと引き寄せたのでした。さあ、こうなると、元々もっと前から馬場、猪木に対戦を迫っていた大木にしてみれば、焦らずにはおれません。小林を破った後の猪木を、執拗に追いかけ回し(注*1)て対戦を迫り、とうとう猪木に対戦を承諾させた訳です。それで実現したのが、この試合ということです。対戦実現までの経緯(日本プロレス崩壊までの流れ、大木の執拗な対戦要求など)があったもんだから、両者とも感情的になっていて、猪木は猪木で「試合でどんな惨事が起きても知らん」と言う(注*2)し、大木は大木で「試合としての勝ち負けはどうでも良い。どうせ相手のホーム・リングだしな。とにかく猪木を破壊することに徹する」と言うしで、試合 前から何か、殺伐とした危険な雰囲気が漂いまくりでしたね。(この時、猪木31歳、大木41歳。)

 そんな中で実現したこの試合、殺伐としたムードの中で、ゴング前に、背を向けた瞬間の大木に、猪木がいきなりナックル・パンチを見舞って、大木がもんどりうってダウンしたところで、開始のゴング。こういったゴング前(または直後)の奇襲って、猪木は、大試合では本当、よくやるんですよね。(それを念頭に置いてなかった大木の、これはミスですね。)開始直後からは、意外にも数分間は静かな展開。ただ、静かな中にも「何かの拍子に喧嘩になる?」怖さは、あった。事実、ロープ際で猪木が大木のほおのあたりに肘をゴリゴリ押しつけるシーンは、かなり危険な雰囲気が漂っていた。試合が一気にヒートアップしたのは、やはり予想通り、大木の一発目の頭突きが炸裂してから。この頭突き攻撃を、猪木がブロックするなり、かわすなりするかと思ったら、意外にも、逆に額をぐいっと突き出して、「もっと打ってこい」と挑発したんですね。これでさらに頭に血が上った大木は、頭突きの連打、連打。何発目かで、猪木の頭が割れ、額から鼻筋にかけて、血がひとすじタラーっと流れていく光景は、(流血戦自体は見慣れていた私でも)ゾッとするものがありましたね。その後も、大木は猪 木の髪をわし掴みにして、一本足頭突きも含めて、さらに連打。しかし、14〜15発目の頭突きを、強烈なカウンターのナックル・パンチ(←本来反則)で返し、ダウンした大木を引きずり起こして、バックドロップから一気にピンフォール。本来ワザ師(と私は思っている)の猪木が、喧嘩の凄さをも見せつけた一戦でした。あれほどの遺恨・因縁渦巻く対決だったにも拘わらず、試合後は、どちらからともなく歩み寄り、抱き合って両者号泣していたのには、多分色々な思いが交錯したからじゃないですかね。

 それと、その大木金太郎(韓国名:金一(キム・イル))さん、今、韓国で闘病生活中なんですってね。何でも、脊髄なんかをかなり痛めているらしく、かなりの重症だとか。確か、去年あたりの、とあるプロレス雑誌に久しぶりにインタビューで登場してたんですが、本人曰く、「現役時代、頭突きを打ちすぎたのも、今の症状に影響を与えてるんじゃないか、と医者は言ってるんだよ」とか言ってました。確かに、大木の一本足原爆頭突きは、凄かったからなぁ。ボボ・ブラジルとの頭突き世界一決定戦なんてのは、凄かった。ああいう激しい打撃戦が、引退後の身体に悪い影響を与えた(ボクシングでいうパンチ・ドランカーみたいなね)としても、不思議ではないですね。いずれにせよ、大木さんの回復を、お祈りします。

(注*1)今で言うと、ストーカーまがいってやつですね(^_^;;それこそ、猪木がプライベートで宿泊してるホテルに押し掛けたこともあったらしい。
(注*2)実際、この年、猪木はタイガー・ジェット・シンの右腕を、試合中に、へし折った実績があっただけに、単なる脅しとも思えなかった。
第5位:ストロング小林戦(1974年3月19日、蔵前国技館/NWF認定世界ヘビー級選手権試合・90分1本勝負)
  ◎ 猪木(原爆固め、29分30秒)小林
 1段落前の大木金太郎戦のところでも書きましたが、この前年(1973年)には、アントニオ猪木の新日本プロレス、ジャイアント馬場の全日本プロレス、そして老舗の国際プロレスの3団体時代に突入していました。(日本プロレスは夏に崩壊。)そして、この3団体のなかでは最も古い(けれども、スター不足で人気は低かった)国際プロレスの、日本人エースを張っていた『怒濤の怪力』ストロング小林が、突如として「フリー宣言」を行い、猪木、馬場の両名に、内容証明付き郵便を送付して、「オレと戦え」と迫ったのが、1973年の暮れ。馬場は「街のチンピラじゃないんだから、挑戦されたからと言って、『はい、そうですか』と受けられんよ。ちゃんと手続きってもんがあるんだから...」とか言って、これを黙殺したのですが、猪木は、(ああいう性格の人ですから)すかさず受けて立ったのでした。そんな経緯で(注*1)実現したのが、この試合です。この時、猪木31歳、小林33歳です。共に、絶頂期にある頃と言って良いでしょう。

 この試合は、力道山−木村政彦戦以来、20年ぶりの大物日本人対決ということで、凄い反響を呼び、試合当日の蔵前国技館には、雨だったにも拘わらず、超満員は無論のこと、当日券が買えずに入れなかった人が三千人くらい、外にあふれてたって言うんですから、いやはや凄いもんでした。

 で、試合のほうはと言うと、20年前の力道山−木村政彦戦が、後味の悪い終わり方だったのに比べ(つっても、私は勿論、力道山ー木村政彦戦を見たことはありませんが。まだ生まれてなかったので(^_^;;)、この猪木−小林戦は、実にプロレスリングらしい、噛み合った試合になりました。フリーの一匹狼として、敵地に乗り込んできた小林の覚悟と気迫は大変なものだったし、その心意気に感じて、この試合では小林を応援したファンも、多かったと思う。(日本人好みの、判官贔屓ってやつですね。)開始から15分くらいまでは、緊張からか、いまひとつ動きが堅く、闘志が空回りしてる感じの小林だったが、20分あたりで身体が暖まってから(?)は、やっとエンジン全開。猪木を場外に叩き出すと、すかさず鉄柱にぶつけ、猪木を大流血させる。フラフラとエプロンに上がってきた猪木を、怪力ブレーン・バスターで叩きつけ、さらに得意のカナディアン・バックブリーカーで揺さぶる。猪木ピンチ...と思えるも、身体の柔らかい猪木は、揺さぶられながらも冷静に位置を確認して、足でコーナー・ポストを蹴って、反動でリバース・スープレックスで返す。頭を打った小林がフラっと立ち上がる ところを、すかさずバックドロップ。そしてとどめのジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)。小林は、失神状態で、ピクリとも動けずに3カウント。この直後、蔵前にもの凄い数の座布団が舞ったのを、今でもよく覚えてます。

 試合前の下馬評では、「地力からいって、6−4で猪木有利。但し、フリーとなって失うもののなくなった小林が、開き直ってガンガン攻め込めば、どうなるか分からない」と言われていた試合で、ホーム・リングで戦う猪木は、逆にやりにくかったのではないか。しかし、そんなやりにくい状況の中でも、剛の小林の持ち味を引き出して試合を運んだ、柔の猪木のセンスは、凄いと思いました。

(注*1)簡単に書きましたが、実は、この試合も、すんなり実現した訳ではなく、フリー宣言した小林に対し、国際プロレス側が「まだ契約中だから無効」と反論し、裁判にもなりかねない(=そうなったら、この対決は流れてしまう)勢いだったんだけれど、東京スポーツ新聞社が間に入って、和解金を支払うことで、やっと実現にこぎつけたんですよね。
第4位:タイガー・ジェット・シン戦(1975年6月26日、蔵前国技館/NWF認定世界ヘビー級選手権試合・60分3本勝負)
  ◎ 1本目=猪木(回転足折り固め、10分41秒)
  ◎ 2本目=シン(アルゼンチン式背骨折り、2分47秒)
  ◎ 3本目=猪木(体固め、4分23秒)
 まあ、この『インドの狂虎』タイガー・ジェット・シンというレスラーも、猪木の名勝負史を語る上では、決して避けて通れない人ではあります。人によっては、「タイガー・ジェット・シンみたいな、反則専門屋との試合など、名勝負じゃないでしょ。もっと、クリーンな相手との試合なら名勝負と呼べるだろうが...」てなことを宣う人もいるんでしょうね、きっと。確かに、シンはよく反則をやる奴ではあったけど、決して「反則オンリー」の選手ではなかったからね。もとをただせば、正統的なインド・レスリングの強豪であり、猪木とグランド・レスリングも(試合序盤は特によく)やってたけれど、猪木に引けを取ってなかったからね。「クレージー・ファイター」のイメージは、多分、シンが、異国の地であるカナダや米国で売り出す為に、敢えて作り出したイメージだと、私は思います。その後、日本でもそのイメージで通した、ということだと思います。

 で、それはそうと、猪木とシンの因縁は、1973年から始まる訳ですが、猪木とシンの遺恨抗争が最もヒートアップしていたのは、私が思うに、1974年〜1976年頃だと思います。特に、1974年の、両者の抗争は凄かった。蔵前国技館で、シンが「あっと驚く」火炎攻撃で、猪木の目(まぶたの極めて近く)を焼く事件があったかと思えば、その一週間後には、大阪府立体育会館で、報復措置として(?)猪木がシンの右腕をへし折る事件があったという、まさに「このまま行くと、どっちかが死ぬ?」というような、極限抗争でした。とは言うものの、流石のシンも、腕をへし折られた時点では、意気消沈してた感じがあったし、これでもう決着は着いた、シンも二度と日本には来まい、と私は思った...んですが、甘かった(苦笑)。年が明けて1975年になると、またぞろ来日して、猪木に色々食ってかかる。「シンをタイトルに挑戦させるのは、本当にこれが最後」と猪木自身が言っていた、そのタイトル戦で、猪木はまさかの敗北(1975年3月、於広島県体育館)。この時は、コブラ・クローでさんざんスタミナを奪われた挙げ句、最後はブレーン・バスターで叩きつけられてフォールされるという、猪木に とってはまさに完敗。こうなると、いくら嫌いな相手でも、タイトル奪回の為に、戦わない訳にはいきません。そういう経緯があっての、この試合になるのです。

 従って、この試合は、NWF世界ヘビー級選手権者・シンに、猪木が挑戦した試合ですが、実は、猪木がシンに挑戦するのは、これが3度目だったんですね。3月に広島県体育館でタイトルを奪われてから、蔵前国技館、モントリオールで連続挑戦したけれど、(シンに反則でうまく逃げられて)いずれも失敗。その後シンは、来日前に、このNWFタイトルをかけてザ・シークの挑戦を受け(於デトロイト)、血の海に沈めて完勝防衛してくるなど、まさに絶好調。猪木は、この試合でタイトルを奪回できなかったら、当分挑戦のチャンスはないんじゃないか、とも言われており、背水の陣。(この時点で、猪木32歳、シン31歳です。)

 選手権試合なので3本勝負で行われた(この頃は、タイトル・マッチは3本勝負が普通だった)この試合、意外にも、シンが全く凶器のサーベルを持ち出さず、クリーンに展開。1本目は、レスリングの強豪同士らしい激しいグランド・レスリングから、シンの身体をうまく畳み込んだ猪木が、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ・ホールドで先制。しかし、2本目は、シンが得意のコブラ・クローで、猪木の喉笛を破り血を吹かせ(この、喉から血が流れるシーンも、ゾッとさせましたね)、グロッギーの猪木をアルゼンチン・バックブリーカーでギブアップさせて、タイ。決勝の3本目も、シンはコブラ・クローで仕留めにかかるが、一瞬の隙をついた猪木が、バックドロップ。グロッギーのシンを引きずり起こして、もう一発バックドロップ。シンはピクリとも動かず、3カウント。猪木の大苦戦でしたが、とにかくタイトル奪回に成功した一戦でした。

 振り返れば、猪木−シン戦も、それこそ猪木−スタン・ハンセン戦以上の回数、行われたと思いますが、この試合は、シンが「レスリングの名手」たる部分を、最もよく見せてくれた試合であり、またそれに猪木もレスリングでキッチリ対抗し得た試合ということで、あまたあるシンとの試合の中で、この試合をベスト・バウトとして選んでおきます。尚、余談ですが、この試合は、国際空手道連盟・極真会館の総裁(当時。今は故人)大山倍達氏が見に来ていて、「(力道山−木村政彦戦以来)21年ぶりにプロレスを見たが、猪木という男によって、プロレスは生まれ変わったようだね」とコメントしていたのが、妙に印象に残りました。