ジャイアント馬場名勝負選 - 前編 -


 いやぁ〜、本当に本当に長いこと、お待たせしました。(誰も待ってねーよ、という突っ込みは無条件に却下。)やっと、ジャイアント馬場さんの追悼・名勝負選を書くことができます。思えば、馬場さんが亡くなったのは今年の1月末ですから、その直後に「雑談Room」で「近いうちに馬場さんを偲んで、追悼の名勝負選を書きます」と予告して以来、10か月も経ってるんですねぇ。(苦笑)もう、忘れかけてましたよ。(いやそれは嘘ですが。)

 考えてみると、今年(1999年)は、馬場さんが亡くなり、ジャンボ鶴田も正式に引退表明し、前田日明も正式に引退(注*1)し、という感じで、昨年アントニオ猪木と長州力が引退したことと併せて、一時代を築いた名レスラーが次々と引退(勿論死去も含む)した年でありました。やはり時代の流れと言えばそれまでですが、「壱千年紀」最後の年に超大物が次々と引退したというのは、来年から始まる「弐千年紀」までに次の世代にバトンを渡しておきたいという思いが、無意識のうちにシンクロナイズして働いたんでしょうか。

 それはともかく、馬場さんの名勝負選のランキング選定の基準は、以前の猪木名勝負選のときと同様、あくまで私の個人的な好みで決めている、ということです。(笑)これはまあ既に分かってもらっていると思うので良いのですが、もう一つ、私がプロレスリングを見始めたのは、昭和43年(1968年)頃からであって、それ以前の馬場さんの試合は、ランキングに入っていない、という事です。なので、馬場さんの名勝負と言えば欠かせない(と言われる)昭和40年の『生傷男』ディック・ザ・ブルーザーとの喧嘩マッチ、昭和41年の『栄光の鉄人』ルー・テーズから2フォールを奪って完勝防衛した試合、同じ昭和41年の『鉄の爪』フリッツ・フォン・エリックとの戦慄のド迫力マッチ、昭和42年の時のWWWF世界チャンピオン、『人間発電所』ブルーノ・サンマルチノとの死闘、同じ昭和42年の時のNWA世界チャンピオン、『荒法師』ジン・キニスキーとの延長を含めて65分の引き分け試合、などは、残念ながら見たことがないので、私の名勝負選からは外れています。

 では、余り前置きが長くなってもいけませんので、そろそろ本題に入ろうかと思います。ごゆっくり、どうぞ。

(注*1)前田日明は、自分の主宰するリングスに於いては、既に昨年(1998年)に引退してますが、後は「格闘家としての個人の戦い」としてのアレクサンダー・カレリン戦が残っていたので、この試合を以て正式に完全引退、という事になる訳です。それにしても、2月21日に行われたこの試合、結果は前田の判定負けだったけど、内容的には先にロープ・エスケープを取ってカレリンを震えさせたし、あくまで逃げずに戦ったから、凄く良い試合だった。カレリンも、相手が前田だったから、持ち味をそれなりに出せた。カレリンは今や「人類最強」とか「哺乳類最強」とまで言われるロシアのスーパースターですが、その男の持ち味を殺さず、しかも互角に近い勝負をした前田は大したもの。ところでカレリンは来年のシドニー・オリンピックでは、グレコローマン130kg級のオリンピック4連覇を達成するんじゃないかな。(今のところ、ライバルと呼べるほどの選手が居ない。)つくづく凄い男・・・
第8位:バーン・ガニア戦(1981年1月18日、東京・後楽園ホール/AWA認定世界・PWF認定両ヘビー級選手権試合・60分3本勝負)
  ◎ 1本目=ガニア(裸締め、14分55秒)
  ◎ 2本目=馬場(片エビ固め、3分58秒)
  ◎ 3本目=(両者リングアウト、5分25秒)
 唐突に何故か第8位から始まりましたこのランキング。第8位にランクされるのは、『AWAの帝王』バーン・ガニアとのダブル・タイトルマッチとなったこの一戦です。

 昭和56年が明けてまだ間もないこの時期に、一部のマニアの間では長く熱望されていた、このバーン・ガニアとの超大物対決が、やっと実現しました。ガニアは知る人ぞ知るAWAの帝王と呼ばれた人であり、当時米国マットでは大多数のマーケットを握っていたNWAに対して、生涯反NWAの姿勢を貫いた人ですので、NWA会員であった馬場のリングへ登場することは、難しかった訳です。しかし、1980年代に入る頃には、NWAとAWAの間に以前ほどの確執が薄れ、(というよりガニア個人の米国での戦略と馬場個人の日本での戦略に於いて、ビジネス上の利害が一致した、という事でしょうが)AWA系のレスラーが全日本プロレスのリングに上がることも増えてきていた(注*1)ので、そのうちこの日米両団体のトップ同士がリング上で相まみえるであろう、とは言われていました。それが実現したのがこの試合。この時点で、馬場は43歳になる直前、ガニアは54歳(1926年生まれと言われている)です。両者大ベテランであるにも拘わらず、これが初対決です。

 ガニアが保持するAWA世界ヘビー級と、馬場が保持するPWFヘビー級のお互いのベルトを賭けたこの一戦は、馬場の「3000試合連続出場」突破記念第1弾として行われた試合でもあります。こういう記念試合に、ガニアのような超大物との対戦を用意できるあたりが、全日本プロレスの外人ルートの太さと言えましょうか。

 さて、試合のほうは、ガニアの独特のゆったりしたリズムと馬場の独特のスピードが実に上手くかみあって、これが初対決とは思えない、何十回も対戦した者同士のような、円熟の攻防。1本目はガニアが得意のスクリュー気味のドロップキック(この歳でドロップキックを苦もなく打てるあたりガニアも大変な選手です)を連発して馬場をダウンさせ、最後はこれも宝刀のスリーパー・ホールド(裸締め)で先制。2本目は馬場も反撃に出て、脳天唐竹割りの連打から16文キック、ダウンしたガニアを引きずり起こして最後は河津落としでピンフォール。3本目は、ガニアが「これしかない」スリーパー・ホールドを執拗に仕掛け、馬場は水平チョップとキックで離れようとするが、とうとうスリーパーにつかまったまま場外に転落し、スリーパーを離さなかったガニアに道連れにされる形で、両者リングアウト。決着は着かなかったけれど、ガニアの実力が衰えきってしまう前(現役のAWAチャンピオンで居る間)に、馬場との対戦を見られただけで、満足できる試合だった。

 最近は、こういう「見られただけで充分満足」なんていう試合は、殆ど無くなりましたね。どの試合も殺伐としていて、あたかも殺し合いまでいかないと、真剣勝負とは見られない、みたいな風潮があって。あのね、私が何度も書いているように、「喧嘩」と「真剣勝負」は全然別物です。ファンのほうも、それを分かるべき時期に来ているんじゃなかろうか。喧嘩が見たけりゃ、お金払ってまで試合場に足を運ばなくても、夜の繁華街をうろついてれば、時々見られるって。(爆笑)プロの試合ってのは、そういうもんじゃないでしょ。

(注*1)実際、ガニアにタイトルを奪回される前のニック・ボックウィンクルは、現役のAWA世界ヘビー級チャンピオンの時も、しばしば全日本のリングに上がってましたから。
第7位:ジン・キニスキー戦(1968年12月6日、蔵前国技館/インターナショナル選手権試合・90分3本勝負)
  ◎ 1本目=キニスキー(体固め、26分24秒)
  ◎ 2本目=馬場(体固め、5分46秒)
  ◎ 3本目=馬場(反則勝ち、23分8秒)
 この章の前置きで書きましたように、私がプロレスリングなるものを見るようになったのは、昭和43頃からです。その当時、私は小学校3年生ですね。何故見るようになったかと言えば、いつぞや(今は亡き)私の父親が、たまたま金曜夜8時代にテレビをつけてまして、そこでやってたのがたまたまプロレスだった訳です。その頃の印象に残ってるのは、ボボ・ブラジルとかディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキーとかフリッツ・フォン・エリックとか、まあ早い話が「見るからにでかくて恐くて強そう」な選手ですね。(笑)私、プロレスを見始めた頃は、外人レスラーというのは、「顔の恐い人」を(今で言う)オーディションやって採用してるんだろうと信じて疑わなかったくらいです。(爆笑)

 さて、そこで、このプロレスを見始めた頃の私が、何となく試合を眺めるのでなく、初めて、誰が誰と試合しているのかを「意識して」試合を見たのが、多分この試合だったのではないか、と思うのです。ここに登場する『カナダの荒法師』ジン・キニスキーも、顔はかなり恐かったですねぇ。ただ、顔はともかく、体つきは先に挙げたブラジルやブルーザー、クラッシャーに比べればどうってこともなさそうだったし、日本のエース馬場なら軽くひねってくれるだろう、と考えてました。やっぱり、小学生ですね。(笑)キニスキーが世界最高峰、NWA世界ヘビー級チャンピオンだとか、そういう事を知りませんでした。(形の上では、キニスキーが馬場の保持するインターナショナル選手権に挑戦する形になっている。)この時点で、馬場30歳、キニスキー40歳(1928年生まれらしい)です。

 試合のほうは、(まあ30年以上も昔の事なので流れの詳細は憶えてないですが)1本目を、キニスキーがロープに振ってのキチン・シンクからシュミット流バックブリーカーで、先制。(このパターンは、キニスキーの十八番コースでしたね。)2本目は、馬場が猛然と反撃に出て、脳天唐竹割りのラッシュからココナッツ・クラッシュ。最後は16文キックで仕留めて、タイのフォール。(これも、馬場の十八番コースでした。)そして決勝の3本目。キニスキーは必殺の脳天杭打ちパイルドライバーを放ち、馬場も脳天唐竹割り、水平打ちで応戦するが、両者ともフォールがとれない。激しい攻防の末、馬場が「あっと驚く隠しワザ」コブラツイストで、キニスキーをリング中央で、ガッチリととらえる。完全に極められて、身動きのとれなくなったキニスキー。これで勝負あったかと思った時、キニスキーが目の前の沖識名レフェリーのシャツを引っ張って、投げ飛ばす。1度は耐えた沖識名レフェリーも、2度目には耐えられず、キニスキーの反則負けのゴングを要請。アナウンサーが、「世界チャンピオンのキニスキーが、名誉を守る為に敢えて反則負けを選びました...」とか何とか、言ってたような気がします。私、こういう「フォール負けするぐらいなら反則負けを選ぶ」という戦術があるという事を、この試合で初めて知りました。

 この「わざと反則負け」戦術、当時の私には凄く新鮮なショックだったんですが、その後、NWA世界チャンピオンなら、常套手段だという事も知りました。つまり、年がら年中、全米はおろか時にはメキシコやヨーロッパ、オーストラリアや日本といった地域にまで足を運んで防衛戦を行う、超ハードなスケジュールをこなすNWAチャンピオンにとっては、状況が悪くなれば「反則負けで防衛」という手段を取らざるを得ない、という事を。そして、NWAルールでは「ピンフォール以外ではタイトルは移動しない」という事になってたので、それを有効活用してたんですね。それもやむを得ないほど、当時のNWAチャンピオンはハードワークだった訳です。
第6位:ビル・ロビンソン戦(1976年7月24日、蔵前国技館/PWF認定ヘビー級選手権試合・60分3本勝負)
  ◎ 1本目=馬場(片エビ固め、9分24秒)
  ◎ 2本目=ロビンソン(逆片エビ固め、6分8秒)
  ◎ 3本目=馬場(体固め、5分45秒)
 馬場名勝負選の第6位に挙げますのは、この『人間風車』ビル・ロビンソンとの初対決です。この前年(1975年)の暮れに、ロビンソンは、場所も同じ蔵前国技館で、アントニオ猪木と初(結果的には最後でもあった)対決し、プロレス史に残る名勝負を繰り広げています。ちなみに私は、猪木−ロビンソン戦を、猪木名勝負選の第2位に挙げています。その、猪木と互角の勝負を展開したロビンソンが、わずか半年の時間をおいて、今度は馬場と対戦する事になりました。この当時、直接対決は夢の夢だった(そして最終的にも夢に終わった)馬場−猪木戦の代わりに、ロビンソンというフィルターを通すことで、馬場と猪木の実力関係を推し量れるのではないか、という事で、非常に注目された試合です。

 ちなみに、前年、新日本のリングに上がったロビンソンが、何故またすぐ後に、ライバルである全日本のリングに上がることになったのか、何か新日本(猪木側)とトラブルがあったのか、その辺は私は一切知りません。或いは、ロビンソン自身が、純粋に、「日本の団体を代表するレスラー(馬場、猪木)の両方と対戦したい」という思いだったのかも知れません。私は、この当時のロビンソンの積極的な戦う姿勢を考えると、猪木戦で力を出し尽くせた後、今度は同列に並び称される馬場とも戦ってみたい、と純粋に思ったのではないか、と考えますが・・・(この時点で、馬場38歳、ロビンソン36歳です。)

 さて、試合のほうはというと、この試合は、馬場がごくたまにやる、「シュート・マッチ」(注*1)であった、と私は思っています。馬場と言えば、全日本プロレスのキャッチフレーズが「明るく楽しく激しいプロレス」である事から、「明るく楽しい」部分ばかりがクローズアップされがちですが、ところがどっこい、馬場はこのロビンソン戦のように、相手の得意技を受けずに封じ込め、相手の持ち味を殺してでも「勝ちに行く」試合を、つまりは「激しいシビアな」試合をたまにですが、やっているんです。この後のランク上位の試合にも、この馬場の「シュート・マッチ」は、いくつか出てきます。

 この試合で馬場がシュート・マッチ(に近い試合)をやった理由は、恐らくは、「もし負けたら、しかも惨敗だったら、団体の存亡に関わる」状況だったからでしょう。つまり、前年にライバル、アントニオ猪木と互角の好勝負をやったロビンソンに、馬場がもし惨敗でもしようものなら、それこそ全日本プロレスの沽券にかかわる。ファンは「猪木とロビンソンは引き分けた。馬場はロビンソンに負けた。ならば猪木のほうが馬場より強いよな」と思うに決まってますからね。だから、万に一つも負けられない馬場は、「勝ちを取りに行く」試合をするしかなかった訳です。1本目は馬場が(普段あまり見せない)アトミック・ドロップから河津落とし、そして大試合でしか見せないバックドロップで先制。2本目は、馬場の巨体をスープレックスで投げ飛ばすのを諦めたロビンソンが、作戦を変えて、ネックブリーカー・ドロップからワンハンド・バックブリーカーへつないで、一気に逆片エビ固めでギブアップを奪う。そして3本目は、体力を温存していた馬場が、切り札のジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ。ピクリとも動けないロビンソンをがっちり押さえ込んで、完璧な2フォール勝ち。日本人として初めて、ロビンソンから完璧なフォール勝ちを奪って、面目を保った試合。

 この試合が馬場にとってシュート・マッチだった事は、色んなところで分かります。ロビンソンの十八番、必殺のダブルアーム・スープレックスを巨体と巧みなブロックで封じ込め、最後の最後までとうとう出させなかったこと。その割に馬場は自分の十八番、大試合用のジャンピング・ネックブリーカーを繰り出したこと。そして何より、スタミナに自信があり、長時間ファイトを好んだ馬場が、60分3本勝負の1本目を取るのに、10分もかけていないこと。このあたりに、馬場の「勝ちに行く!」という決意が、見て取れます。結局はロビンソンも、馬場のその気迫に押し切られてしまった、という形でしょう。そういう意味では、前年の猪木−ロビンソン戦みたいな、白熱の攻防を期待していたむきには、あっさり勝負が着いちゃったし、「名勝負」とは映らない試合かも知れません。でも、馬場が、「明るく楽しい」試合だけでなく、こういうシビアな試合もやることがあった、という証拠として、そして何よりその気になった時の馬場の防御技術やインサイドワークの卓越さの証拠として、(そして私の好みからも(笑))この試合は外せない、そんな気持ちです。

(注*1)「シュート」(とか「シュート・マッチ」、shoot match)とは、元々はプロレスラー同士の隠語で、「真剣勝負」場合によっては「喧嘩」という意味合いのものです。元は隠語なのに、一般人が知るようになったのは、例のUWF系のレスラー連中(佐山サトルとか高田伸彦なんかが特に好んで使ってました)が、堂々と使うようになってからですね。でも、UWF系の連中の多くは「シュート」の意味をはき違えていた事は、UWFがその後分裂・崩壊した事からもよく分かります。(笑)
第5位:ハーリー・レイス戦(1979年10月31日、愛知県体育館/NWA世界ヘビー級選手権試合・60分1本勝負)
  ◎ 馬場(体固め、18分29秒)レイス
 第5位にランクされるのは、当時世界最高の権威を誇っていた、NWA世界ヘビー級のタイトルを、5年ぶりに馬場が奪回した、この試合です。相手は、『美獣』ハーリー・レイス。ミスター・プロレスと呼ばれ、米国での試合を見ると、その派手でオーバーなアクション、ゆっくりした試合運びは、いかにもアメリカン・プロレスという感じで、ちと目障りな感じもありましたが、しかし、この選手は、日本ではちゃんとオーバーアクションを控えめにし、間合いも必要以上に取らず、日本人好みの試合もできる選手でした。遠征先の地域に応じて、ファイト・スタイルを変えれるあたりは、流石にNWA世界チャンピオン、と思わせるものがありました。

 さて、この当時、全日本プロレスは毎年のようにNWA世界チャンピオンを日本に招聘しており、馬場や鶴田といった主力選手はしばしばタイトルに挑戦していましたが、あと一歩のところでなかなかタイトル奪取までは至らない。まあ、NWAチャンピオンには、引き分け防衛は勿論のこと、いざという時の「奥の手」反則負け防衛という手段もあるから、挑戦者が簡単にタイトルを取れないのは当然だったんですが。それにしても、この頃はむしろ鶴田のほうが、次期NWAチャンピオンになるのではないか、と思えるほど成長してきていた時期で、馬場はもうそれほどNWAタイトルに執着してないのでは、既に5年前に一度ベルトを巻いたことでもあるし、と言われていた頃です。ちなみにこの時点で馬場41歳、レイス36歳。(レイスは猪木と同い年です)

 それ故に、この試合は、NWA世界タイトルマッチでもあるにも拘わらず、注目度は低く(注*1)、「NWA戦は全日本プロレスの年中行事みたいなもの。リズムの合う馬場とレイスのことだから、また時間切れ引き分けか、両者リングアウトだよ。さもなきゃ、どっちかの反則負け。タイトル移動はないでしょ。」と、まことしやかに言われてました。私も、まあそんなとこだろうな、と思ってました。それまでのレイスと馬場の戦績を見ると、馬場のほうが断然勝ち越してますが、それはレイスがまだ若手だった頃に、既に一流だった馬場と何度も対戦して負けてたからで、NWAチャンピオンになってからのレイスは、非常にしぶとく、「勝てずとも負けない」チャンピオンになってました。(それがNWA世界王者の暗黙の条件でもありましたね。)

 ただ、この試合に関しては、馬場は世間の「40を過ぎて流石に衰えは隠せなくなった」とかいう風評に対する反発があったか、いつもの対レイス戦に比べると、積極的に攻めていた。いつもだとどっちが挑戦者か分からないような、間延びした試合運びをする馬場が、珍しく早い時間からガンガン攻める。16文キックはお約束だが、珍しく馬場がサイド・スープレックスを出したので、「この試合には何か期するものがあるのかな?」と私が思い始めたら、今度は場外戦でレイスを鉄柱にぶつけ、流血させる。これはかなり、本気でタイトルを取るつもりになってるんじゃなかろうか、と私が思ってるうちに、馬場もレイスの反撃にあって、流血させられる。ああ、両者流血じゃ、スタミナ的にも時間切れはあり得ないし、これじゃ両者リングアウトで終わりかな、と思い始めたら、何と、両者ともリングに戻る。そこから、レイスはいつもの十八番、ダイビング・ヘッドバットを狙うが、馬場に読まれてデッドリー・ドライブで投げ捨てられ、ふらりと立ち上がったところへ、馬場の大試合用のとっておき技、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップがズバッと完璧なタイミングで入って、レイスはピクリとも動けず、ピンフォール負け。馬場は見事、NWA世界チャンピオン・ベルトを5年ぶりに奪取しました。

 「エースの座を鶴田に譲って、馬場はプロモーター業に専念するらしい」とか「もう現役に未練は無いらしい」とか、まことしやかに言われていた馬場が、世間の風評に反発するように、「俺は生涯現役!」(←結果的に、生涯現役だった)を意地でアピールした試合ではなかったかと思います。尚、この1年後にも、馬場はまたも、来日したレイスを破って、3度目のNWA王座に就いています。まあ、馬場−レイスの試合は、とても手の合う者同士の戦いでもあって、恐らく何十回と組まれたと思いますが、馬場−レイス戦の代表的名勝負としては、この試合を選んでおきます。

(注*1)注目度が低かったのは、全日本でのNWA戦がマンネリ気味になってたのもあるし、この試合と同じ時期に、新日本プロレスに前NWA世界チャンピオン、ダスティ・ローデスがやってきて、猪木との初対決が決まっていて、そちらに注目が集まっていたというのもある。