現代の課題<いじめ>
<いじめの要因は根深い>

【月見草出版へ】



   現代の課題 その一<いじめ>   平成七年五月二二日

 麻原彰晃がやっと逮捕された。

 オーム真理教事件にかかわって考えさせられることが多かった。このことは、ただ単に宗教の問題にとどまらず、各種教育問題や政治問題また日米の経済問題にいたる現代の病める課題に共通の原因があるように思われたからである。そこで現代の課題というタイトルで、わたしの意見をまとめようと思う。

 自分が教職に籍をおいていたので、日本における教育の今日的課題については自分の意見をまとめようとしていた矢先でもあった。学校におけるいじめの問題は、関係筋のいう学校−両親−地域の連携を緊密にして対処するという表層的な手法では、一向に解決あるいは沈静化するとは思われない。そしてまた、文部省や学識経験者による試案によっても対処できるような類の課題ではないと私は考えていた。だから、独自の試案を個人的に書き残しておきたいと考えていた。

 一方においては、政治家の倫理観の未熟さから生じている政治不信の問題やら日米間のギクシャクした経済問題など目にあまることが多かった。また自分が関係する選挙制度については、法の改正と実際の選挙における選挙違反とか投票率の低下或いは制度上の不備が気にかかっていた。また文化に対する一般の意識動向など、課題は多岐にわたっておこっている。

 課題は多岐にわたっているといえるが、その根源には日本人の思考の在り方という思考の基本的部分に課題があると私は考えるようになった。だから個々のその時その時に出てきた問題に対処するのは、ちょうど歪んだ車輪をなおすのに一本一本のスポークをなおすようなもので、全体をなおすわけにはいかない。歪みをなおすのには車軸構造そのものの改善を計らなければならないように、私たちの人格形成そのものの成立過程に焦点をしぼって課題解決を計らなければ、成果はないと考えるようになった。そのような、自分でもわからないほどの深層部分に基本問題が横たわっていると思う。もちろん私一人で解決できるような課題ではない。

      ☆     ☆    ☆

教育問題について「いじめ」を頂点として考えてみようと思う

 この課題は、前に述べたように学校−家庭−地域の緊密な連携によって対処するとか、教育行政の制度的な手段とか学識経験者による試案などによって対処できるようなものではなく、もっと深層部分に課題の所在がある。いじめに対処した改革案は、教育がかかえている課題全体の表層部分にとどまるものである。

 それでは深層部分の課題にはなにがあるのだろうか。私はいままでの対人関係の経験や、政治−経済−教育−文化の変容を考察しながら、日本には人格形成分野に欠落したものが生じた、と考えるようになった。そしてその欠落こそ、現代日本の深層部分のあらゆる歪みとなって随所に発生していると考えるようになった。その結果、教育における今日的課題も、人格形成の欠陥こそ「いじめ」の致命的な原因となっているという確信をもつに至った。従って、いじめや不登校にかかわる教育改善は、人格形成の根本修正が急務だと考えている。

 それは何故か。

 それは多くの大人が、終始、現代日本の社会組織を無意識的に肯定し、自己存在をその組織の一員として位置づけていることから始まっているからである。現代日本の社会組織体の一員としての価値を、自分の価値基準とし、すべてを取りしきっているという間違いを犯しているからである。そこには、赤信号みんなで渡ればこわくない式の集団思考が読み取れる。だから、よりよいものへの進取の気性や若さがうすれ、自由平等を希求する土壌が軟弱になり、寄らば大樹とか長いものには巻かれよという自分たちの過去の社会生活に価値をおくような退行的な社会が生じてきた。このようにして、若者が生来備えている溌剌とした進取の気性や天分が、じゅうぶん発揮できないような状況が生まれてきた。このような社会の中では、若者は自由な自己主張が限定され易く、たえず大人社会の価値観の範囲内でしか通用しないことになり、小中学生や高校生にしてもこの範疇から逃れられない、と認識せざるを得なくなった。

 人は誰でも、賢人でも愚人でも洋の東西を問わず、生命体として母親の胎内でスタートした時点では、0スタートである。私のいままでの読書と考察の結果からいえば、生命体は『よりよき自己世界を構築する』というプログラムが根源的に付与されているという理解こそ、人の正しいとらえ方だと考える。この考え方はすべての思考活動の基盤になることだから、その意味を真剣に考え、今後の発想においては思考のバックボーンとして位置づけておかなければならない。生命体のエネルギーは、良いにつけ悪いにつけ、すべて外部情報を取り入れて取捨選択し自己世界を構築し続けるようになっている、と位置づけてよい。その区分は、宿業、養育、教育といわれ、初めて一人前となる。そうした外部環境によって人は成長する。

 だから人格形成の段階は、宿業(0才教育)・養育・学校教育・自己研修の四つにわけるのがよい。この人格形成の四段階を、教育という言葉を使うとすれば、教育は教育者と被教育者の関係からなりたっている。

 教育の根源は、真似てもらってもいい環境、見てもらってもいい・聞いてもらってもいい環境を、教育者が顕現することにある。

 ことに宿業の段階は戻ることのできない大切な段階であり、いったん形成された価値観は容易には変えることができないものである。価値観の変容ということはほとんど不可能に近いと考えてよい。だからこそ、0才教育に該当する段階を宿業という言い方をしてもよいと私は考えている。仏教でいう宿業とは、祖先累代の業を我が身が宿すというふうに、今まではとらえていたが、それは誤った考え方で、実は、親子の間の人間形成に横たわる不可思議な伝承機能をさしている。

 私たちの価値基準は、こうした本来の生命エネルギーの要求に対しては、根本的理解に欠けていたといわざるをえない。私自身がこうした考えを聞いたこともないし、本から読んだこともなかった。しかも学校教育にたずさわった者でさえ、といえるのである。やっとこの年になって0才教育の在り方を勉強いてしていくうちに、ピアスの「マジカル・チャイルド」に出あい、生命エネルギーの統括的解釈ができあがってきてから、ことの真相を実感した。親子の不可思議な伝承機能がはっきりしていなかったから、多くの人の価値基準のよりどころが、まだまだ不明確で曖昧であり、その場しのぎであり、時の社会情勢に順応するという、寄らば大樹式の閉鎖性を、かなりもっている状況であると思う。従って、望ましい生活環境を提供する価値基準を、社会通念としてまだまだ備えていないと今は考えている。

 こうした意味において、教育社会では子供たちに望ましい教育環境を提供していたとは、とてもいえない。それだからこそ、人の中核となる「人格形成」を根底から再検討すべきなのである。

 新聞紙上やテレビや何会、彼会の「いじめ」に対する議論は、いじめられた生徒と教育関係者の間に横たわるさまざまな在り方に集中し、その対応として、指導上の配慮だとか、関係機関の制度上の改善だとか、特別な指導教育者の配置だとか、いわば末梢的な課題が渦巻いている現状である。問題の深層はそんなことで解決できないところにある。

 深層とはなにか。実は宿業教育の人間形成に欠落があった。簡単にいえば「いじめるような子を育てなければ」今日のようないじめ問題はなかった筈である。

 何故いじめる側に目を向けないのか。いじめをなくそうとするならば、いじめ側に目を向けなければその糸口は見つからない。0歳教育を中核として、「いじめる人」の人格構造を宿業教育の時期、妊娠から満三才までの時期の親の在り方を多角的に分析し帰納して、問題点を明らかにしなければならない筈である。この作業を通してはじめて、いじめの潜伏的な原因、深層をつきとめることができる。

 衣食住すべてにわたって経済的なゆとりが出てきてから、親は子供の言うなりになって甘やかしがとにかく多くなった。言うなりとはいわないにしても、先ず食べるものの好き嫌いが、根性作り失敗のツマズキ第一歩となった。まずこのことは間違いはない。

 兄弟も隣近所の友達も少なくなって、我慢することも失われた。

 家族の中ではいい子になってすくすく育っていたように思っていても、一旦、利害が衝突したときには、我慢することもできず、わがままが爆発する。いわゆる、キレルのである。

 教育たてなおし議論の方向が愛情教育の高揚とか指導技術に向いている限り、いじめはなくならない。「鉄は熱いうちにうて」とか「キタキツネの子育て」など三歳までに躾を完成しない限り、いじめはなくならない。

 次に、学校社会に見られるいじめ現象を、一般的な立場から考察していくことにする。

 もともと伸びざかりの青少年は、本来明るく好奇心に満ち、柔軟性のあるしなやかな感受性と対応力を備えているものである。本人は意識的にはしゃべらないから大人にわからないのだが、それは大人の比ではない。

 それでもなお「いじめ」は生ずるのだろうか。

 親子間に基本的欠落があることのほかに、まず、青少年が八方塞がりの環境におかれていることに気づくべきである。学校では朝から晩まで、生徒はぎっしりつまったスケジュールに追いやられている。この物理的環境は心身両面にわたるものであり、大人でもよほど耐性の強い人でないと顎がでる筈である。試みに一週間でいいから、生徒になりかわって授業をうけてごらんなさい。この過密スケジュールの中にあって、勉強ができない劣等感とか、発言ができない寂しさとか、口にはだせない弱さを誰もがもちかかえ、授業をし、食事をし、掃除をし、行事に参加している。加えて、朝早くから部活動に参加し、放課後もまた遅くまで活動を続けなければならない。更に休みの日ですら部活動に参加しなければならないのである。

 運動能力の未発達の子供や、巧緻性がまだ身につかない子供など、十人十色の集団の中で自分の立場をみつめたとき、勝敗の世界に駆り立てられたり、優劣の世界に立たさせられて、一体子供は何を感じ自分をどうみるのだろうか。やがては、自己世界を構築しなければならないという自分の将来を思い浮かべるとき、子供は一体何を感ずるのだろうか。大人がこうした教育環境に身をおくとき、それでも学校の教育方針に「まじめになって頑張りなさい」と一方的にいっていられるだろうか。子供たちは、人間性を歪められながら、それでも耐えて頑張っている。学校へ行かなければならないという思いで頑張っている。この耐性ときたら、それは大人の比ではない。

 物理的環境をなんとかしなければならないことを理解しなくてはならない。このままでは、子供の自己存在の満足どころの話ではない。将来にはばたく若い青少年の姿も見えてこない。八方塞がりの状況はやがて、ゆっくりと怠惰の空気がたちこめてやる気が失墜しはじめ、この退行的な社会状況に無意識的に順応するようになったり、場合によっては、自己爆発へと進んでいくことになる。

 いじめの素地は、見えないところでぐんぐん進行していると考えざるを得ない。いじめは、醸造発酵のように、始めはプツンプツンと出始め、やがてはブクブク泡を吹きはじめる可能性があると予測しなければならない。小さい甕の水は濁りやすく澄みやすいが、大きい甕の水は濁りにくいが澄みにくいという。大きい甕の水は一旦濁りはじめると、加速度的にじわじわ濁っていくと予測しなければならない。

 自己存在の満足感に欠けるとき「いじめ」は生ずる。

 第一に学校がかかえている八方塞がりの物理的環境を取り上げたのだが、いじめの根っこは単純ではない。続いて前にも触れたように、いじめのバックにあるものとして、親の愛の欠落を取り上げなければならない。親に愛がないということではなく愛の在り方が正常ではないのである。細かくいえば、一般的には世の中の変化に対応して価値観が変容してきており、子供の養育の内面の質が一様にかわってきているために、総体的に子供の資質が脆くなってきている。親の愛の在り方といっても、ことはそう単純にはいかない。親の愛の欠落、私自身も、実は戸惑っている大きな課題である。

 「働かざる者は食うべからず」ということは、多くの人が聞いた言葉だろう。生きるということは、実は生命体を維持することであり、生命体を維持するということは実は食うことであり、食うことの重大性は、生体にとって基本的に欠くことのできない要件である。これとは少し異なるが「貧乏の教育」は人にとっては大事な要件だと私は考えている。貧乏の教育は、一体なにを昔の私たちに与えたのか。

 昔は勤労の尊さ、ものの尊さ、お金の尊さがあった。我慢とか忍耐とか、挫けてはならない根性とか、祭りの喜びとか本を買ってもらえない悲しさもあった。それでも竹馬の友もあったし努力して成功する人もあった。

 具体的には、一粒のご飯でも拾って食べないと目がつぶれるという収穫物への感謝とか、下駄スケートを欲しいとせがんで父がやっと買ってくれた時の感謝があった。リアカーに積んだ春蚕の繭を押していって龍東館にだした時の父の笑顔を見た安堵感があった。冬の夜更けに暗い電球の下でズボンを繕ってくれた母の手があった。それらから子供ながらいろいろ読み取っていた。お祭りに鯉の料理をしていた真剣な父の目、子供の頃ヘソ風呂で手足をいつも優しく洗ってくれていた母の手、こうした、ものや生活そのものに対する感謝の気持ちと質素や倹約の心構えなど、貧窮がもたらしてくれた尊い価値観であった。現代ではどのようにしてこうした価値観を体験できるのだろうか。囲炉裏端で家族そろって食べた粗末な食事もいまはない。今は食事の時間も父母や兄弟の勤務の関係からばらばらの時間になってしまった。一つの暗い裸電球の下で炬燵を囲んで話をし、遊んでいた頃の環境と、テレビを見てからは自分の部屋へひとり立ち去る子供の環境と、考えてみれば隔世の感がある。絆は人知れずだんだんと薄らいでいく。なんとかしたい、もがき悩んでもどうしたらいいか思案のしようもない。テレビにして然り、通信にして然り、自動車にして然り。物質文化は何を私たちにもたらしたのか、改めて問いなおさなければならない。

 将来「貧乏の教育」は不可能になっていくのだろうか。私自身戸惑うのである。それでもなお、生命体の教育にとって「働かなくては食べていけない」生活体験が必要であり、それが人が生きる基本的要件であると考えなければならない。清貧の思想によせる思いと清富の思想の創造とを、改めて考えなければならない。

 一方、生活の中に位置づいていた仏教や儒教の価値観が、生活の裕福さに反比例してどんどん薄れてきている。人としての倫理を、どのように各家庭では育てていけばよいのか。公教育での宗教教育は止められているが、人の心の中に倫理教育をしていかなくてよいのか。今の学校で行われている道徳教育では、古今東西の倫理に関する教育は全くといってよいほど行われていないが、それでよいのか。私は、改めて家庭教育や学校教育の中に、人倫の道をふんだんに与えられるよう配慮すべきだろうと考えている。

 私たちはいろいろの生活の中で行動を起こすとき、いろいろの価値大系を無意識のうちにもっていて、その価値基準にそって言葉を発し行動をとっている。こうした価値基準の底辺にしっかり根をはっているものは、よりよく生きたいという基本的価値である。すべてはそこから出発する。死にたくない、ということが、生物すべてがもっている最大価値観であり、よりよく生きたいという最大価値観である。この最大価値観を静かに見守り育てていくのが、温かい優しい愛であり、慈悲だと思う。こうした意味で、私たちは愛についてもう少し考えを深めたり、考えをまとめたりする必要がある。

  愛とは、人の幸せを願う心である。人の幸せを願うとは、人の「より
  よき自己世界を構築する」という本然のエネルギーの成就を願うこと
  である。

 価値基準は常に愛に根ざさなければならないし、人格形成は愛の土壌においてできあがっていくものであるから、愛について深い認識、理解をもたなければならない。

  親の愛情とは、子どもの幸福を願う心である。子どもの幸福を願う心
  とは、子どものために幸福を信じて、何かをしてやることである。そ
  れは、愛する言葉であり、教えであり、与えることである。

 勉強ができないという間違った劣等感を誰が育てたのか。勉強ができるという間違った優越感を誰が育てたのか。知能が低いという間違った屈辱感を誰が育てたのか。知能が高いという間違った自惚れを誰が育てたのか。運動ができないという間違った劣等感を誰が育てたのか。運動ができるという間違った優越感を誰が育てたのか。富を誇り貧を恥じる価値観を誰が育てたのか。平凡を卑下し非凡を迎合する価値観を誰が育てたのか。礼儀作法などの躾は誰がしつけたのか。それはほかならぬ私たちなのである。私たちはこうした心の持ち方について、大きな過ちを犯し、気づかずにいたのである。ほおっておけば、こうした誤った感情、情緒、価値観を助長し、その結果いろいろな社会問題に振り回されることとなる。

 こうした間違った価値観あるいは価値基準が、やがては個人の酸素欠乏をひきおこし、更に八方塞がりの環境に身をおかれて「いじめ」を引きおこしたり、人を死に追いやったり、極限では人を殺したりすることとなる。自分の存在感がさいなまれ、徐々にわからないところでいじめ要素が着々と増大していく。私たちは因果を知っているし、因果応報ということも十分知っている筈である。

 繰り返していうのだが、車輪の歪みを是正するにはスポーク一本一本の修正では車輪の歪みを是正することはでない。だから、車輪の歪みを是正したいと考えるならば、車軸そのものから始めなければならない。サリン事件も「いじめ」事件も、小中学生の自殺事件も登校拒否も、応急的解決策だけでは問題の解決には決して至らない。問題は人そのものの「人格形成」の在り方を根っこから変えなければならない。教育はそうした「人格形成」の在り方を変える大切な領域であり、責任を負うものである。 さて、こうした問題点を「いじめ」という代名詞で扱うのだが、考える条件として基本的に人格形成の全体像を考えていなければならない。即ち、縦糸として生命体の完了を目指すことであり、横糸として愛に終始することである。

 いじめ問題は、教育者の課題や制度上の課題や生活価値観と現実の対応の在り方など、多様な課題をかかえていることは私も承知している。個々の課題については、今後も考えをまとめるつもりである。

 さしあたって、課題の二点について提言したい。

 提 言 [教育は人格形成を頂点としてとらえる]

一 宿業教育(0才教育)を設計すること。

  子育ての原点を再確認すること。そのために、
 @ 子供にたいする親の在り方を勉強して、充分な知識と見識をもつこと。
   ひとりひとりが実践すること。
   子どもに真似てもらってもいい親(人の道を備えている親)とはどんな親
   であればいいか、広さや深さの面からさぐり、内容を表現できるまでに身
   につける。

 A 知育、徳育、体育は総合的活動の中でどのようにすすめたらよいか学ぶこ
   と。
   先覚者の著書を調べて各自の考えをまとめ、実践方法をつくりだすこと。
   価値観の大系、倫理の大系、知育の大系、健康の大系について、その概要
   をつかむこと。

 B 0才教育(宿業教育)、幼児教育の在り方については、最先端の研究成果
   を世界的規模で調査し続け、取捨採用を検討すること。
   その内容は、
    一生における0才教育の価値認識と、それに対応する親の在り方
    具体的な成長に即して、年間計画、月間計画、日々の計画
    具体的な生活内容に盛り込んでいく内容
    実践の記録、修正と今後への遺産

 C 保育園の教育の在り方を考えなおすこと。
   研修と独創的運営の在り方
   子どもを中心とした親と担任者の連携の在り方

 D 命の尊さ、自然との協調を体験する内容を強化する。
   自然との交わりを計画的に多くとることは極めて大切なことである。その
   交わりの中で、大小の動植物の観察や調査や記録などを通して、科学的思
   考の素地を養うと共に、命に寄せる思いと命の尊さを学ぶ。そういう活動
   を強化する。これは椋鳩十先生の生き様を学ぶことに直結する。

 E 「幼児突然死症候群」「幼児虐待」について学習し、その意味を知る。
   この課題の問題点は、大人の身勝手な「自由平等権」「無知」に由来する。
   だからこの二つの意味を「自他の生命の尊厳」という枠内で詳細に検討す
   る必要がある。たとえ何々群でなくとも、他山の石になる。

二 義務教育の在り方を根本的にかえること。

 @ 教育の権利義務は市町村がもつこと。
  ・世界各国の義務教育を調べ、その長短を検討して独自の義務教育の在り方
   を追求する。
  ・中央集権の教育システムの功罪を、世界各国の事例を参考にして教育シス
   テムの在り方を追求する。
  ・教育の権限を地方に移す。
   我々がすでに明治以降経験した通り、教育の国家統制は悪い場合にはとん
   でもない結果を来たすことになる。その災いは、長く尾をひくということ
   を重々知っていなければならない。
   ところが現在、国家統制の欠陥が人間形成を阻害し、教育の諸問題の根本
   的原因となっている。それを洗い出すこと。
   教育は、その地域住民が責任を持たなければならない。
  ・県の教育委員会およびその機能組織の功罪を検討する。(寄らば大樹の価
   値観が平然とまかり通っている現状を改善するため)
  ・市町村立の学校教育は、地域の願いを再上位の学校目標にして学校運営を
   計らなければならない。校長は教育者としての確かな見識と、地域の教育
   委員会の願いを検討し、自己責任において運営計画を立案し遂行しなけれ
   ばならない。
  ・過密スケジュールの解消のため、一般社会と同じく、始業から下校までの
   八時間制とする。休日の学校招集をしてはならない。

 A 学校運営の改善をすること。
  ・学校運営は、上級行政機関の干渉をうけることなく、創造的独自性を発揮
   し運営計画を立案しなければならない。
   市町村教育委員会の要望目標を取りいれ、校長は子供の代表機関としての
   教育委員会にたいしてのみ責任をもち、運営計画を作らなければならない。
  ・個人の独自性を尊重する立場から、教育者の独自性を尊重するとともに、
   子どもの独自性を尊重すること。真似てもらってもいい姿が教育者の基本
   的姿勢であるからである。
  ・子供を預かる立場から、保護者の指導権利と責任を持たなければならない。
   保護者は、指導事項に応じなければならない。
  ・自由平等の基本姿勢は子どもに保障しなければならない。
   偏った価値観に基く生活上の自由平等については、社会生活を堕落させ人
   間の品性をも蝕むような結果を招来するため、留意すべきことである。
  ・具体的には制服、髪形、履物の規制撤廃、部活動の撤廃、休日登校の廃止、
   など、服装や時間行使の自由を完全保障する。
   教育者のみ服装や勤務時間外の時間については法的にも保障されているの
   に、子どもはそれらを無視され規制を強いられている。子供たちにも当然
   保障しなければならない。理由の如何を問わず人権侵害であり、撤廃すべ
   きものである。教育者にはもっと大事にすべき職責がある。
  ・学校教育のなかに、倫理観を培う時間をとり、自己存在の価値観を築くこ
   とに重点をおく。
   今日の状況下では、心の基盤になる自己コントロールや「知と行」の行動
   基盤になる宗教もしくは倫理について、「自己世界の構築」の素材提供が
   適切ではないため、子どもが自ら価値基準を構築するのに困難な環境にあ
   る。素材を提供したり環境設定をすることは、私たち大人が全責任を負う
   べきである。
   「いじめ」や非行の全責任は私たち親が負うべきであって、まちがっても
   子どもたちの責任ではないということを十分知らなければならない。
   西欧においては、多くの国で神学を修得単位に課している。東洋において
   は多くの国では家庭がその責務を果たしている。もしそうだとすれば、日
   本では汗顔の至りといわざるを得ない。西欧の学校教育はどうあろうとも、
   キリスト教や仏教、儒教などの要点的価値観について学ぶことは、今後の
   倫理教育の上で極めて重要なことである。早急に資料を作成すべきであろ
   う。憲法で宗教教育を禁じているが、特定の宗教教育そのものであって、
   人の心の支えとなるという教義の中核を学ぶことは、一つの宗教に偏しな
   い限り宗教への心得を導くことであり、宗教教育には抵触しない筈である。
  ・精神生活の高揚をめざすこと。今日の世情をみるとき、経済価値観の偏重
   は人間性をもねじ曲げることを忘れてはならない。

 B 命の尊さ、自然との協調を体験する内容を強化すること。
  ・戦争、殺人の拒否を心の奥に堅持し、平和のために生きる生き様を育てる
   こと。

     戦争は、心の中から始まるものであるから、平和の砦は心の中に
     築かれなければならない。[ユネスコ憲章前文の冒頭の名句]

   動物の「生命の自然の姿」を知ることを基本とすること。
   日本の歴史的変遷を冷静に掌握すること。ことに戦争懺悔と新しい日本が
   進むべき道を一人ひとりが自分の心の中に築きあげること。
  ・世界のために「UNESCO」の内容理解と共に、その精神を身につける
   こと。[一生をかけてもよいだけの価値をもっている]
   無知と偏見は排除されなければならない。
   強者と弱者の価値観偏重は、やがては地球規模での環境破壊を進めること
   を予知しなければならない。
  ・いわゆる「青い地球の生大系」を維持するという、人類の義務と責任をも
   てる学習をすすめること。
   地球環境汚染の防止をどうすすめるか習得し実践する。
   利益追及の企業活動と公害阻止の活動の在り方を学び対処の仕方を習得し
   実践する。
  ・各国憲法と比較して、日本国憲法で大事にすべきものを身につける。

 以上、いじめ分野での提言を終りとする。個人の考えだけでは提案分野が偏っているから、弁証法の手法によったり、明治維新の「五ヶ条のご誓文」の如く、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の流儀で、今後の課題としていきたい。

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