〔存在の意味<存在の原点>〕
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あらゆる生活場面の価値観において、『自己世界の確立』と
いう概念を頂点として考えていくことが、自分を伸ばし自分を
高め世界平和を求めていく上で、最良の方法であります。…
あらゆる論理は人の心の奥にあるものに根をおろしていなければならない。
政治でも経済でも社会生活でも家庭生活においてでも、夏目漱石のいう凡欲すなわち金と名誉と女にかかわりなく、職業の貴賤や経済の貧富それに宗教の如何にもかかわりなく、むしろ他の生物すなわち花鳥や名もなき草や土中の生物、犬も猫も象も虎など生をもつものすべてに共通する、心の奥にあるものに根をおろしていなければならない。
この論理をすすめていくと存在それ自体が自己撞着に至る。存在を自己撞着に帰結すると自然そのものをを肯定できないことになる。生物の To be (存在)という意味は、生命維持という生物本来にプログラムされている『生きたい』という意思そのものである。それを否定しないところに自然そのものがある。すべての生物存在は調和とバランスによって成立している。だから自己撞着の概念は除外する。
心の奥にあるものとは何か。それは己自身の心の奥ということにとどまらず、誰にも共通するものであるとともに、他の植物や動物にすら共通するものを対象としなければならない。
それは己が花となり鳥となり動物になることを意味する。その真実とは一体なんであろうか。生物が本来、根源的にインプットされている『生きたい』という意思とはなんだろうか。
一つの答えは『快』である。
『快』そのものが生につながる。快は概念用語であるから、悦という言葉でもよいし、楽という言葉でもよい。
生の反対概念は『死』である。死の概念用語は『悲』であっても『苦』であってもよい。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように一つの生命に心を添えることが絶対矛盾の自己撞着に到達し、その段階から、次の生命そのものにプログラムされている自然から贈られた意思 to beを悟ったとき、第二段階を卒業して生死一如が生まれたのであろう。死生と苦楽は共に反対概念を表わす言葉であるが、生死一如となり苦楽一如となる。
反対概念は別として、生きたいという意思は『快』によってその目的の一つは報われる。『快』は死を拒否し苦を拒否する。
『快』は生の円満な充足を求め、統括的満足を追究する。生の統括的満足は、その人の情報到達度によって千差万別の様相を呈する。その人の情報到達度というのは、mind-brain(心脳体)が得る情報量と質によって規定される。in-putの質と量によって規定されるといってもよい。
このin-putの質と量は個体の環境によって大きく左右される。この環境というものは、大枠において現行動を制約するが、自らの意思によって環境を整備することもできる。環境もまた相依性をもっている。
生は快を求め、快は統括満足を求め、統括満足は環境に規定され、環境は個人の意思によって補完される。生即快、生即楽は可能なのである。
生の様相はどのようであろうか。start-beginning-acting-finishing(発生、初期、活動期、完成期)の各段階に大別できるし、更にいくつかのperiods(期)にわけることができ、periods 毎の存在達成の願いも生来大脳にインプットされている。
生の様相を時間的にみれば、それぞれの段階にはそれぞれの課題がある。
生の様相を現行動としてとらえてみると、活動的なものと非活動的なものに分けることができる。活動的であれば、快の様相も活動的であり、統括的満足度も充実し、悦楽度も充実する。非活動的であれば、快の様相も非活動的であり、統括的満足度も薄れ、悦楽度も低く、エネルギーも不活発となる。
生の様相がエネルギッシュであれば、生活をエンジョイできる。それは一環したよいリズムにのることとなる。生の様相にエネルギーが失われてくると、やがて生の終焉に近い様相となる。この生の様相は「気の様相」としてみても、様相の輪廻に相違はない。
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