〔殉教・拈華微笑・天上天下唯我独尊〕
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これらに共通する立場をどうとらえたらよいか(論拠との関連)
人と話をしているとき、話の盛りあがりがうまくいかないことに、おりおりであいます。そうかというと、いつまで話していても時のたつのを忘れる場合もあります。一人一人の価値観とか人生観の相違によって、話が深まるとか、そうでないとか決まってくるように思えます。当然といえば当然のことといえます。
そこで、一つの方法として「殉教・拈華微笑・天上天下唯我独尊」の価値を共通化しておけば、話の盛りあがりが素晴らしいものになると思うがどうだろうか。
別の言い方をするなら、親子の愛情とか、可憐な花や小さい虫の生命をいとおしむ心とか、最愛のものを失うことは自分の生とかえることのできないやるせないものである、など生まれながらに大脳にプログラムされているこうした美しい心を基本の立場とし、それを追究していけば、話が盛りあがるものと思います。
根っこの価値観や人間観がばらばらである場合には、話の盛りあがりはみられないようになります。だから、たえず自分が人の美しい心と手をとりあい、話を美しい心とつなげてゆけば話は盛りあがると思います。
話の盛り上がりは、個人の存在価値のとらえかた如何によって左右されるのです。価値認識をおなじくする立場にある場合には、年齢とか役職をとわず、楽しい心が湧きあがるものであります。
言語表現、文字表現によって思考内容を伝達することは、多少適確さをかくにしても、それは当然のことであり、なにもこだわることではありません。話によって思考内容を適確にしていくこともできます。
個人の世界観を知る方法には、五感をとおして生きざまを観とることが最良の場合があります。
たとえば今NHKで連続ドラマ「かりん」を放映していますが、主人公の千晶の母、晶子が速醸味噌の完成間近に過労で急死する場面がでました。
父の友行は枕辺で一人黙して終日座し続けており、友行の養父母は味噌倉で愛しき娘の死を「ぎゃくだ!」といって悲嘆にくれる。祖父は孫娘が女学校当時歌ったうたを老妻にたずね「埴生の宿」を涙ながらに口ずさんだ。
わが子への願いは、明らかに「埴生の宿」の歌詞の内容に重なっていたのであり、気丈の老母は夫のこころねをいたわりきれずよよとして泣き崩れた。
言葉がもつ伝達方法だけでは絆を理解したり、絆を伝えることはできないのです。現行動を五感によって観じとるしかありません。
生死は今生の別れであり、言語に絶する悲しみであります。何人もそれを癒すことはできません。それは絆というほかないし誰しも認める真実であります。それはまた、老若を問わずその人の個人の世界観、生きざまを肌身に知っているからに他なりません。ドラマはそれを展開して見せてくれました。
話というものは、能弁であるからよいというものでなく、多くのことを知っているからよいというものでもありません。人を笑わせるからよいというものでもありません。
お互いの、形而上の世界観構築のために有益なものであってこそ、素晴らしいものであるといえましょう。だから「殉教・拈華微笑・天上天下唯我独尊」の基盤の上にたって、はじめて話がもつ豊かさが成立すると考えるのであります。
利己のための発想からは、その範疇を越えた話の進展にはなりにくく、顕勢の発想からは、無一物者に応じた話の進展にはなりにくいのです。
だから生きざまを大事にしない発想からは、個人世界の構築に役立つ話にはなり得ないのは当然のことといえましょう。もちろん、どんな情報も話であるし、楽しい話もよいのです。いかなる話でも個人生活の向上に資するものでありたいし、他を揶揄すものであってはならないと思います。
埴生の宿 [中等唱歌集・明治二二年]
作詞・里見 義
作曲・ビショップ
この原曲はビショップ(Sir Henry Rowley Bishop)
の< Home,Sweet Home>である
埴生の宿も わが宿
玉の装い 羨まじ
等閑なりや 春の空
花は主 鳥は友
おおわが宿よ
楽しとも 楽もしや
文読む窓も わが窓
瑠璃の床も 羨まじ
清らなりや 秋の夜半
月は主 虫は友
おおわが窓よ
楽しとも 楽もしや
矛盾をはらみつつ思考の林に彷徨い、表現の湖畔に佇む、将に遊子である。
平成六年一月二十日
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