〔自己世界の確立<学ぶものの心得>〕
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単数と複数の立脚点を明確にしておくこと
★複数思考は社会生活を俗悪化し、人を不安と焦燥に追いやり、個人の自由とか尊厳をも見失うという、そういう弱点をかかえています。
社会を構成するものは個人であり、その個人の自由とか尊厳に焦点をあてて思考をすすめることが、急務であります。
★人の着ているもの、持っているもの、食べているもの、住んでいるところ、そういうものを真似たいとか欲しいという感情は、一概に悪いということではないのですが、誰でも生来的にもっています。
これと同じように上手にしゃべれるとか、いろいろ憶えているとか、いろいろできるとか、そういうことを羨やむ感情も誰にでもあるものです。顔立ちがよいとか、また背が高いとか、このようなことにも人は誰でもある種の感情をもつものです。
ことに成長の転換期にある中学生にとっては、こうした感情をどう処理していったらいいのかが大事な心構えになります。
ふつうだまっていても、ひとはこれらの感情なりそれに付随する価値観なりについて、自己内部においてそれぞれの位置づけをし対処してまいります。
でも自分のものと他人のもの、自分の特色と人の特色などについて、考えの整理もつかず、ある部分については青年になっても大人になっても、ずうっとそれらの感情にわだかまり引きずられている人もおります。
一般的にはこうした人がもっている情をどう位置づけていくか、非常にだいじな課題であります。
★[自己存在の意味]を最も本来的なものに近いものとして表現しているものに、仏道で説かれている「天上天下唯我独尊」という言葉があります。
もともと生物の生命にプログラムされている本質は、生命の繁栄であり、死の拒否であります。あらゆる意味において、一つの生命体にはそれ自体、生の営みのために、極限においてもその個体内では個体維持のために相互協力の能力を発揮するようインプットされています。潜在意識や顕在意識を問わずそういう能力がはたらいています。
この生命体の本質は、勉強する皆さんには基本的に理解しておいてほしいことの一つであります。すくなくとも学問の意味を正しく知っていないと、学習した事柄の価値とか位置づけが不明確になり、学問が生命の繁栄どころか無為の長物になったり、生命の繁栄を犯すものになるような危惧すら生ずることがあるからであります。
★自己存在というものは、お釈迦さまの説くように相依性にもとずくものであり、排他性とか協調性という概念とは別であり、その意味で「天上天下唯我独尊」というとらえ方は、自己以外のなんらの束縛もあり得ないことを強調した解説語であります。
この「天上天下」の一句は、存在そのものを表わす用語としてはよいのですが、生命エネルギーをもつ[自己存在の意味]としては、ピアスという人が説く『ホログラム』として理解することが正しい認識であると思います。ホログラムが内包する一つの中核が、生命の繁栄であり死の拒否であるといえます。
★菱田春草が描いた仏道画「拈華微笑」の美術上の解説は別として、お釈迦さまと迦葉の微笑の意味は、個体存在の尊厳があらゆる場合に優先するということを互いに了解した微笑であると私は考えています。
お釈迦さまの教えの中には複数思考を基本にする人間理解は、結果としてはあるのですが基本的には見当たりません。
★西田幾太郎の「一即多」という哲学概念も、単数と複数という側面から物質構成からはじまって、精神的構造にいたるすべての構成概念を看破する一つの哲学的命題の答えであると私は思っています。
おそらく間違った受け止め方ではないだろうと思っています。「一即多」の概念は、ピアスのいう母なるマトリックスと自己のマトリックスの関係とは、ほぼ完全に一致する概念であります。
★以上により、宗教においても哲学や科学においても、単数と複数の立脚点を明確にしておくことが、自己を伸ばし人様に貢献していく上で、極めて基本的なことがらであるといわざるを得ません。
自分を充実させ伸ばしていくためにこそ学問本来の願いがあり、習得した学問の機能は自己をコントロールし人様の和のために使われて始めて学問の効用を説明することができます。
だから、勉強していく者にとっては、「自己世界の構築」のためによそみをせず、あせらず、くらべず、くりかえす、ことを大事にし、勉強そのものにどっぷり漬り、すべての知的情報を大脳にインプットしていくことが要請されるのです。
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