〔単数思考〕


月見草出版へ

  単数思考は『自己世界の確立』の基礎となる  

単数思考のすすめ

単数思考ということばは、いままでに使われていない言葉であります。

あえて単数思考ということばを使うのは、集団思考という概念にたいして使いたいからという理由からであります。単数思考といいますと、なにか短絡的な思考という誤解を生じやすいし、また、個人思考というとらえかたに理解される心配もあります。けれども、あえてわたしが単数思考ということばにこだわるのは、つぎの理由からであります。

たとえば、学校教育のなかで問題になった「日の丸」「君が代」にたいするひとびとの意見なり、議論をきいていますと、賛成するひとびとは日本国民としての立場とか国家としての立場からの主張がおおくみられました。これにたいして反対するひとびとは個人の自由権としての立場や個人と国のつながりの立場からの主張がおおくみられました。

わたしは前者の立場を、集団社会の在りかたを重視した考えかたと受けとめるのにたいして、後者の立場を個人の在りかたを重視した考えかたと受けとめてみるわけであります。

さらにまた、湾岸戦争の場合に、戦争を肯定する場合と否定する場合に区分してみますと、あらゆる条件と歴史を調べ、正しいのはどちらかを判断し戦争を肯定したり反対したりする立場の集団思考と、いずれの国をとわず個人の生存権から判断して戦争を肯定したり反対したりする立場の単数思考とに分けることもできます。

日本には社会組織を大事にする気風が強いと思われる。集団帰属とともに集団奉仕が歴史的宿業として意識下に組み込まれています。組織に奉仕する価値観は、個人生活に基づく行動価値観の上位におかれており、こうした価値基準はあちこちに見ることができます。

   生命のとらえと単数思考のすすめ     平成六年十月二十五日

   母こそは命の泉・・・
   母なる大地・・・

   歌になっている詩には、短詩形のためか真実の言葉を拾い出しやすい。母を表わす言葉は以外に多い。

母こそは命の泉・・・不可思議な能力をもっている生命体をどのように理解し自己の人生観なり世界観を構築していったらいいのだろうか。二つの細胞の合体による僅か一個の生命体がすべての可能性を秘めており、生物なるが故に生命発生のプログラムを付与されているというのは、どういう意味をもっているのだろうか。

釈迦が自らの立場を捨てて真実を求めたのも、達磨大師の面壁も、張道陵を開祖とする道教が中国の民間に流布されたのも、人の本然の探究や実践であったと思われる。

ともかく「母こそは命の泉」である。母とは、個体発生過程をプログラムされている生命体にとって、自己マトリックス構築のパラダイスといえよう。母自体が生命のマトリックスなのである。

mama,mater,matter,matrics などの単語は同じ語源から派生した単語であり、このマトリックス(母胎)という言葉はラテン語では子宮を意味している。マトリックスは新しく形成される生命に、可能性の源泉、可能性を探索するエネルギーの源泉、探索を可能にする安全な場所という三つのものを提供している。

一般的には性の如何を問わず自己マトリックスの構築が生命体にインプットされているという。だからマトリックス構築は個体本来の活動過程といえるし、そうすることが生命体の一つの目的であるといえるのである。

したがって生命発生のスタートである一個の細胞の中に、私たちが知性とよぶ大脳活動能力や、神経系の活動能力、さらに身体細胞の一つ一つの活動能力が具備されていることになる。これらは生命体の維持とか人生観の構築とか目的行動遂行とかという、想像を絶する複雑不可思議な活動能力であって、生命体を維持していくのである。

私たちは、一つ一つの細胞がこのような言語を絶する超能力をもっているということを基本的に認識しておかなければなりません。

このマトリックス構築は、環境に適応しての生命維持が大前提で進められています。動物にしても植物にしても、現在の生態からそのことが推測できます。私たちのあらゆる活動は意識的にも無意識的にも「生きる」ことが基本条件になっていて「死にたくない」ことが存在の絶対条件になっていることを忘れてはなりません。

★マトリックス構築
 大脳生理学によれば、人間本然のマトリックス形成の時間的バリア(障壁)は大脳旧皮質が働く三才までとしています。それからまた才能逓減の法則では、生命発生を100%とすれば六才で0%とし、幼児期のマジカル・パワーの活用をすすめています。だから大脳の旧皮質と新皮質の完全変換の時期は六才であるといっているのです。

絶対音感の形成バリアも、やはり五才までとしています。この絶対音感バリアの研究では鈴木鎮一氏の説くように小さければ小さいほど短期間に絶対音感を習得できるといっているから、やはり才能逓減の法則を当てはめることができよう。六才になれば大脳新皮質の資料収集指令や行動指令によって、諸能力の活動が全開するものと考えてよいだろう。

大脳の旧皮質の活動はバリアからいえばこのようだが、この役割に注意しなければなりません。井深大氏は、大脳旧皮質活動時代の諸能力インプットは、パターン認識によるといっています。見たもの聞いたことそのままが大脳にプリントされるということなのです。旧皮質時代の見聞はすべてホログラムの材料になり、将来の知的活動や情緒性向や人格形成を決定していくことになります。

この意味では福沢輸吉のいう「背中をみて育つ」という表現は一つの格言であるといえましょう。人間としての資質を大脳旧皮質時代に習得し、初めて自己の独立独歩の基礎が完成され、大脳新皮質に移行してからは、まさに独立独歩の、自己世界の構築を始めることになるいうのです。

幼児期の親の在り方は、幼児の自我を決定する上で重要な意味をもつ課題であります。課題に応ずる第一の心得は、親の形而上の願いの心底に、「愛」とか「慈悲」というものが豊かにあることです。第二の心得として、マトリックス構築材料として何をどうしたらいいかを理解していることです。いいかえれば、どんな成育環境をセットしたらいいかということです。

ごくおおざっぱに親の在り方を表現するならば、それは、愛(或いは慈悲)に支えられた言葉がけと愛に支えられた行動および知的環境づくりや情操環境づくりや健康環境づくりに尽きる、といってもよいと思います。その環境如何によって、望ましいマトリックス構築が進むか、思わぬ大変な結果になるか決定されてまいります。

よい環境のもとですくすく伸びる子供達であれば、望ましい日本を築くことも平和な国際社会を築くことも、そう心配しなくても可能であります。彼等がそうすることに重要な意味を見出して活動していくことは、ごく自然な成り行きであるからです。

青少年の非社会的行動が云々されるが、いつの時代でもどこの場所でも間違った親の在り方が彼等をそうさせたのであって、決して青少年の責任ではない。

彼等をそうさせたものは、親の子に対する無知或は偏見以外のなにものでもない。

非社会的行動をとる青少年を対象とする、何々活動とか彼々活動、或いは何々教育とか彼々委員会というのは、親子の在り方に気がつかない本末転倒の思考結果によって生ずるものであり、生命体が本来インプットされているマトリックス構築が疎外されてきた結果にほかならない。

問題は、生命体の能力と能力展開の手法への無知偏見であった、といわなくてはなりません。

自己確認が一応できたとすれば、次に自己存在の終焉を目指してどう対処したらよいかが課題となります。この課題もありふれた歌の歌詞に見出すことがでる。

君には君の道がある・・・

裏返していえば「僕には僕の道がある」という独立独歩の立場であります。個体存在は個体生命を全うするのが哲理です。

この哲理の答えは『単数思考を重視せよ』ということで、政治、経済、文化といったあらゆる活動分野の中にありながら、なお複数存在は単数存在なくしはあり得ないからであります。この観点から羅列的に論拠を提示したい。

・ 形而上或いは抽象論理の高揚は、単数存在の内容を高めるための一つの条件である。(少なくとも、環境に順応するのが生物の条件だから)

・ 自己存在の意味と自己存在の終焉を概観するとき、単数思考の立場を失っては、その明確化を期することが不可能になる。

・ 「働かざるものは食らうべからず」の格言どおり、存在条件の基盤を明確にしておくことは必要である。財産から生じる利益によって生きるという考え方は、法的には一見合理的にみえるが、実は不当な利益によることを許諾して成り立つ論理であり、この価値観は自己存在そのものの崩壊への道程と心得なければならない。

・ 単数思考を重視するためには、一切の価値観の基盤の軽重を明らかにしておくことが重要である。簡単にいえば、ピストルは認めるが原爆は認めないというような戦争理論は、稚拙な論理矛盾で噴飯ものであり、単数と複数によって価値基準を変えるという価値矛盾の過ちであるから、こうした価値基盤を明らかにしておくことである。

・ 学問の目的は、真理を求め、自己世界を構築することにある。

・ 人権も単数思考の実現にとっては、法的な保障の一つである。(学校の児童生徒にまつわる校内諸規定は、単数思考を阻む内容が多い)

・ 信義こそ、単数を複数化するときの唯一の条件である。単数思考を重視する立場で、複数関係の在り方をとらえる場合の条件は、虚偽のない信頼関係しかない。(選挙制度における、被選挙当選者の選挙民に対する無責任さは単数思考の観点からみれば法律上の規定不備を多く指摘できる。政治の不信感はわれわれ自身の単数思考の不徹底さに始まっている)

・ 単数思考を重視するために、時間的にも空間的にも一即多の概念を基底にすることも重要である。政治経済文化にしてもそれを推進する立場の人にとっては、平等原則に合致することが基本である。日本がよければいい、喬木村がよければいい、家族だけよければいい、今がよければいい、それでは崇高な単数思考は未熟なままに終焉するしかないし、生命体はそんな狭量思考でなくもっと壮大な統一思考をするようプログラムされている。

・ 複数社会においては、たとえ家庭内の夫婦親子兄弟においても、単数思考と単数活動は最も尊重されなければならない。生命体は温かい絆で結ばれることを本来的にプログラムされているからこそ、いま重要だと思われることは単数思考活動の尊重だと明確に表明しなければならない。

・ 単数思考の重要性を表記する意味は、実は生命体のスタートとフィニッシュ、別の言葉でいえば「人の一生」を直視したとき、生きる意味を終焉する立場でとらえ、生きていてよかったという『喜悦』の状態を懐に抱くことが、生命体の永遠の正体だと思うからである。

・ 釈迦に心を寄せる人々の中で、絵の心得のある人が描いた釈迦涅槃の図をみるとき、動物たちが「ああ、あのおじさんも死んじゃったの?」という、人間だけでなく大自然に抱かれて往生したという、その感動をひしひしと味わうものと思われる。生死の実相はそこにある。

・ キリストの十字架クルスは「一粒の麦」で代表されているように思われる。人の生死の実相は、自然の中の一生命体としてとらえることが床しいものと私には感じられるのである。

〔単数思考〕へ