〔生命のとらえ<存在の原点>〕
月見草出版へ
☆一つの細胞が言語を絶する驚くべき超能力をもっている
☆「死にたくない」ことが存在の絶対条件
母こそは命の泉・・・
母なる大地・・・
文部省唱歌でも歌謡曲でもいいのですが、歌詞は一つのまとまった考え方で作られているために、そこには童謡に見られるような四季とか草花とか母とか楽しさとか、そういったものが素直に表われております。
文部省唱歌にしても歌謡曲にしても同じことがいえるわけで、愛情とか惜別とか慕情とか真実とか人生で出会うあらゆることが歌の対象になっております。歌詞は短詩形であるために濃縮された言葉が使われており、いろいろな意味をもった言葉を拾い出しやすいのです。
そこで、母という言葉を拾ってみますと以外に多くあるので驚きます。一度はそれらの歌詞を集めてみたいと思っておりますが、今回は、生命そのものを考えてみたいと考えていましたので、冒頭の二つの歌詞をとりあげたわけです。母という言葉を心の中で大きくふくらましながら、自分の存在と活動についての考え方をまとめておこうと思います。
母こそは命の泉・・・作詞者はどのような思いでこういったのだろうか。
富士見の役場近くにある公園に、伊藤左千夫の
寂しさのきわみに耐へて天地に 寄するいのちをつくづくと思ふ
という句があります。
この句は、左千夫がなにを意味していたかわからないけれど、弱い人間と自然を対比して観ておって、自然があって自分があるという自分の在り様をしみじみ感じ、そうした気もちで自然を讃美するとともに、そうしている自分をとらえたものであろうと思います。
人というものは思うように生きていけない極めて弱いものであります。だからそれを自分で悟り、その寂しさを乗り越えて、自然の雄大さに己を託して泰然として生きていくことがとても大切であると思います。
また自分を、自然がある故にいろいろできる自分の幸せを、幸せであると思わなければなりません。
自分が託する自然を、自分を養い育ててきた自然とみるとき、人間として自分を養い育ててきたもの・・・母、両親、家族、人様などを、母なるものと見做すこともできますから、左千夫は天地に寄するいのちの言葉の裏に、母なるものとの命の絆をしのばせていたかもしれません。
ともかく、自然あっての自分であり、母あっての自分であることに間違いはありません。
母こそは命の泉・・・生命のバトンタッチとして、自分をどのように理解して人生観やら世界観を築いていったらいいのだろうか。生命発生時における一つの細胞が、人間になるためにあらゆる可能性を秘めてスタートするというのは、何を意味しているのだろうか。人はどう生きていったらいいのだろうか。こうした問いかけはいつでもどこででも、自分に発っせられる問いかけであります。
即ち、深層自己の理解および生きざまの問であります。
お釈迦さまが自らの地位をすてて真実を求めたのも、達磨大師の面壁九年にしても、人の本来の在り方の探究や実践であったのではないかと思います。
それは良寛のように清貧を旨とした人々の生活に見ることができるものに違いありません。或いはまた、張道陵を開祖とする道教が中国の民間に流布され日本に渡り、今日まで水の神様や道具の神様として伝えているのも、人はどう生きていったらいいのだろうかの一つの答であろうと思います。
ともかく母こそは命の泉であります。命を養うものは命の泉でありますが、ここでは生みの母を考えます。
先に「一つの細胞が、人間になるためにあらゆる可能性を秘めてスタートする」と書きました。
命の発生は、母があらゆる可能性を秘めてスタートさせるのではなくて、一つの細胞があらゆる可能性を秘めてスタートするのであって、昔いうところの『授かり』の哲学を心にとらえておかなければなりません。
生命のスタートは、人為ではなくて不可思議な大自然のエネルギーから授かったものと認識しておかなければなりません。
しかし生態的には母はあくまでも母胎であります。母胎(matrics=マトリックス)は新しく伸びていく生命に、可能性の源泉、可能性を探索するエネルギーの源泉、探索を可能にする安全な場所という三つのものを提供しているといわれております。
生命体は(この母胎の中で)もともとプログラムされている通りに、超能力でもって急速に何十万年もの人間としての進化の過程を一年たたずに完了し、自分で生まれてくるといわれています。
ですから母胎能力はこれまた誰から与えられたものというわけではなく、生命体自らマトリックス構築をするものであるといわざるを得ないのです。一般的には、男性であれ女性であれ自己マトリックスの構築が生命体にはもともとインプットされていると理解しておかなければなりません。
だからマトリックス構築は人間だけのことではなく、すべての生物本来の活動過程といえますし、そうすることが生命体の一つの目的であるといえるのです。
生命のスタートと同じく、私たちが知性とよぶ大脳活動能力や神経系の活動能力、さらに身体細胞の一つ一つの活動能力がわずか一個の細胞の中に具備されていることになります。
これらの能力は、生命体の維持とか人生観の構築とか目的行動の遂行とか、想像を絶する複雑不可思議な活動能力であって、それらが絡みあって生命体を維持していくのです。私たちは、一つの細胞がこのような言語を絶する驚くべき超能力をもっているということを、基本的に認識しておかなければなりません。これが私たちのスタートの実相です。
母胎は、生命発生過程をプロクラムされている生命体にとって、自己マトリックス構築のすてきなパラダイスといえましょう。このマトリックス構築は、環境に適応しての生命維持が大前提で進められていることに注意しなければなりません。
この生命維持のための環境適応は、動物の生態をみても植物の生態をみても、そのことが明らかにわかります。私たちのあらゆる活動は意識の有無をとわず「生きる」ことが基本条件になっておるのです。
「死にたくない」ことが存在の絶対条件になっていることを忘れてはなりません。
日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」と表現し、
さらに前文最後に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」としています。
さらに第九条で戦争放棄を明確にして、銃弾による殺戮を否定しています。
人の生存権は、簡単にピストル可否を論ずるようなレベルのものではなく、自己存在そのものに根ざしたものであります。
さて次にアマラ・カマラの話のように幼少時の環境の在り方によっては、狼少女になりかねませんから、または、育てようによっては反社会的な青少年になりかねませんから、話を六才までの実情にふれようと思います。
大脳生理学によりますと、大脳の旧皮質と新皮質の役割はそれぞれ違っております。旧皮質は四十億年の進化の過程がプログラムされておって、旧皮質のプログラムにしたがって細胞は人間としての機能を組織化し、生後も大脳の新皮質が充分活動できるまでは、言語、音声、図形、空間などあらゆる分野での基本的部分の活動の準備をしていくといわれております。
たとえば聞きとった言語音声を構造的に組織し、日本語として判るようになるとか、聞きとった音声をその通りに再生する喉周辺の筋肉対応がきまってくるとか、音声言語の習練ができるようになるためのいろいろの準備期間は、いいかえれば幼児は未成熟で生まれてくるため、大脳の旧皮質と新皮質の完全変換が終わる時期は六才であるといわれています。
マトリックス形成の時間的バリア(障壁)は大脳の旧皮質が主に働く三才までとしています。
それからまた才能逓減の法則では、生命発生を100%とすれば六才で0%であるとし、多くの幼児教育研究者は幼児期のマジカル・パワーの有効活用をするよう警鐘を鳴らしています。
絶対音感の形成バリアも、やはり五才までとしています。この絶対音感バリアの研究では鈴木鎮一氏の説くように、小さければ小さいほど短期間に絶対音感を習得できるといっているから、やはり才能逓減の法則を当てはめることができます。六才になれば大脳旧皮質はその活動を終わり、大脳新皮質の資料収集指令や行動指令によって、諸能力の活動が全開するものと考えてよい。
大脳の旧皮質の活動はバリアからいえばこのようだが、この役割に注意しなければなりません。
井深大氏は、大脳旧皮質活動時代の諸能力インプットは、パターン教育によるといっています。見たもの聞いたことそのままが大脳にプリントされるということなのです。旧皮質時代の見聞はすべてホログラムの材料になり、将来の知的活動や情緒性向や人格形成を決定していくことになるといいます。
この意味では福沢輸吉のいう「背中をみて育つ」という表現は、間違いのない一つの格言であるといえましょう。
人間としての資質を大脳旧皮質時代に習得すれば、自己の独立独歩の基礎が完成され、大脳新皮質に移行してからは、まさに独立独歩の、自己世界の構築を始めることができるようになるのです。
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