自己紹介
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これから述べる記憶は関係者にのみ係わるものであり、一般の方には
全く興味のないものとになると思います。ただ時の流れとそこに現わ
れていた事実は推量はできることかと思います。人は弱くなると自分
を支えていた過去の事実に目を向けるようになります。ボケ防止の方
便として回想法という言葉を聞いたけれども、たしかに「ンダンダ」
とうなづけれるものがある。自分をこんにち在らしめたものへの郷愁
がわが身を慰めるのである。…………………………………………
01 編年履歴概要
02 子供の頃
01 概要
氏名 下平好上(1959まで桐生好上)
編年履歴
イ 昭和03年12月08日誕生
長野県下伊那郡喬木村16133番地
父 桐生 長一
母 桐生 静美(旧姓宮井)
姉 桐生ます子(現在松沢)
兄 桐生 文雄(家の後継)
弟 桐生 好上(現在下平)
ロ 学齢まで伊久間部落の法運寺寺子屋に通う
住職 田中豊春
ハ 昭和10年04月 喬木第一小学校小川分教場入学
1〜2年担任 丸山菊枝 3年担任近藤
ニ 昭和13年04月 喬木第一小学校四年忠組編入学
4年担任 田中豊春 5〜6年担任 横前秀一(卒業時男31女35計66名)
ホ 昭和16年04月 喬木第一小学校高等科入学
1〜2年担任 橋爪丘人
ヘ 昭和18年04月 下伊那農学校入学
1〜3年担任 大谷信次
ト 昭和20年04月 土浦海軍航空隊予科練習生入隊
第16期生 第41分隊第6班
チ 昭和20年09月 土浦海軍航空隊予科練習生除隊
リ 昭和20年09月 下伊那農学校復学
ヌ 昭和21年04月 長野青年師範学校入学(受験400名余入学80名)
ル 昭和24年04月 同校卒業
長野県教職適格者証受領
免許 社会科職業科二級普通免許証
ヲ 教職(年号より3引いた生まれ月が満年齢)
千代中学校 24〜27(年度)
神稲中学校―豊丘南中学校 28〜32(年度)
通信教育日大文学部史学科卒業
免許 社会科英語科一級普通免許証
※ 昭和32年03月17日 下平家婿養子下平秀と結婚
喬木村5975番地
父 真広 母 ソノ
次女 従子(現在平沢) 三女 愛子(現在竹花)
下久堅中学校―緑ヶ丘中学校 33〜35(年度)合併35年
川路中学校―龍峡中学校 36〜40(年度)合併39年
豊丘中学校 41〜44(年度)
浪合中学校 45〜49(年度)
泰阜南中学校(教頭) 50〜54(年度)
下條中学校(教頭) 55〜60(年度)
昭和61年03月 中学校教職退任(満57才)
ワ 昭和62年〜平成05年 喬木村選挙管理委員会(6年間)
カ 平成06年〜平成15年 喬木村人権擁護委員 (9年7ヶ月間)
ヨ 平成11年〜平成17年 韓郷社総代 (6年間)
02 子供の頃
一 家の様子
昭和3年生まれだから記憶に残っているのは、昭和8年前後からのことと思われる。家の南に吊橋の弁天橋があった。いつ橋をかけたのかも調べてない。どのくらいの長さだったのか判らないが、100米以上はあっただろう。何回くらい渡ったのか覚えがないが、20〜30糎位の幅木の板が敷きつめてあった。太いワイヤから橋を支える細いワイヤが下がっており、多少は左右に揺れた。それだが、橋の上で遊んだ記憶はあまりない。
橋の側に橋銭を受け取った小屋があった。そんなことから家名(えな)は松屋だったが、橋番ともよばれていた。祖父が死んで寝ていたのはこの部屋で天竜川の方へ枕をおいて寝ており、くぼんだ眼窩に綿がつめられていたのを鮮明に覚えている。普段は祖父母の寝所だったのだろう。
この枕元の障子をあけると、山羊小屋が下にあり、その左へ降りた所が便所であった。当時は内便所はなかった。現在の伊久間の桐生家の池の脇に小屋があるが、これは父長一の従兄弟になる新井の今村憲長(現今村豊修が長男)の弟にあたる人が今の常磐興産の手前の道を上がっていった辺りに小さい小屋を建てて住んでおり、それを解体して建てた小屋だが、その場所に橋銭を受け取っていた小屋を移築していた。
橋番小屋はそんな思い出があった。母屋は伊久間街道に面しており、略図に書くと次のようであった。
天 竜
川
杉
石 垣
弁 天 橋
● ● べんじょ やぎごや 一尺さがり へや
へや とこ 下屋への道 の部屋
おし いれ はしばんごや 道 入口 かいだん 入口 入口 かいだん 入口 いろり 入口
伊 久 間 街 道
家への正規の入り口は、橋番小屋の右側からだと思うが、はいって右の入り口をはいるとコンクリの土間があり、そこから上がると板敷きの廊下につづいて囲炉裏のある居間だった。居間から左の階段を上がると二階へ通じていた。北西の階段は下屋に通じており、普段は引き戸になっていてしまっていた。
板敷きの廊下、いまでいえばこのフローリングからコンクリの土間に落ちてどちらかの腕を折ったことがあった。たぶん4〜5才の頃だった。食事のあとの湯を飲むときに、この子はおかしいといわれ、いまの桜町の上あたりに外科医があって、そこへいって治療をうけた。独特の外科の匂いが後々まで脳裏にのこった。どうして落ちたのか覚えていない。
腕を折ったといえば、もう一度あった。これは小学校の2〜3年のころと思うが、母の在所の小林で、吉丸屋のうえの店をすこし過ぎて左へ登っていく道があり、道の左側の石垣のうえに桑畑があった。その桑畑から落ちたとき桑の棒をにぎっていて腕を折った。痛かったとは覚えていない。それほどやんかをしたわけではないが、骨折はこの2回だった。
土間の西には4畳ほどの小部屋があった。そこでは歌をうたったり遊んだりしたが、記憶ははっきりしていない。障子をあけると、下屋へおりていく道や柿の木が見えた。その隣の普段寝ていた部屋では、正月に父母がよく百人一首をしてくれた。それが思い出になっておるが、当時の父母はまだまだ若かった。父が膀胱を患って大阪へいっていたころ、母は新井の「ませぐち」へ凍豆腐づくりの仕事にいっていたが、母の横顔がきれいだなと思ったことがあった。家のものの顔の造作について一度もどうこう思ったことがなかった。
一度だけ兄と喧嘩をして、母にえらく怒られたことがあったが、叱られたのもこの部屋だった。特別記憶に残っているような原因はなかったのに、どうして母が叱ったのか不思議でならない。親はあまり子供を叱らなかった。兄弟喧嘩をした覚えもない。
板敷フローリングの道路側には障子が立ててあった。小さかった頃、ほかの兄弟はしたことがなかったのに、この障子の下から上まで引っ張って破いたものだ、と母から何回か聞いたが、とんと覚えていない。なにか気に入らなかったのだろう。
囲炉裏のある部屋は、お勝手といっていた。道路に面したところは土壁で戸棚が並んでいた。囲炉裏の左はかまどがあり、囲炉裏には真っ黒くなった鯉の自在がぶら下がっていた。囲炉裏端で火をかきだし半月形のごとくで餅を焼いて食べたり、囲炉裏のなかへ二十日正月のおまえ玉をいれ焼いて食べた。下屋へ降りていく引き床の上には戸棚があった。お菓子はそこに入っていた。だが、いつもお菓子などなかったせいか、戸棚さがしをした覚えもない。
台風があったとき、余りの激しさに入り口の戸を中側から押して支えていたことがある。子どもなりにこれは大変だと思ったのだろう。屋根は瓦葺きだったが一枚も飛ばされたことがなかった。「おてっつぁほう」といっていた店の、一部屋重ねの三階ビルの屋根が大風のためいざったこともあった。
当時は乞食がときおりきた。母の話だったが、何にもないというと、竈のそばに缶詰の缶があるのをみてその缶をくれというのでやったところ、裏の井戸へいって水を入れそれを飲んでいたという。気の毒な人だなあというコメントもあったのだと思う。乞食は褒めたことではないにしても善人である。馬鹿にしてはいけない。盗人は黙って人のものを持っていく。万引きも盗人である。盗人はいけない。今の人は大学を出て、官僚になったり大臣になったりする。嘘を言ったり、理由のない金を懐へ入れてしまう。誰が何といおうと、これらの人は乞食以下の人間である。乞食は善人だった。人の基本条件として大切な教えであった。
金銭のことでもう一つ書いておきたい。盆暮れ勘定は普通のことであったとおもうが、借金の期限は必ず守るというのが父の根本理念だった。ことに弁天橋の家では蚕を飼っていたが、蚕が腐ったりすることも原因の一つだったと思うが、水の心配やら木造三階建ての心配などから現在地の「うばふところ」へ家を移転した。このときの経費で200円の借金をし、その期限の支払いには大変苦労したようだった。どうしても他の人から借金してでも支払うということを耳にしたことがあった。それでも、子どもに聞かせるつもりの話ではなかった。私たちは父から直接教えられなかったけれども、見たり聞いたりしながら成長してきた。
父の死の間際になって意識がなくなってきたとき、「かしや」の「はっちゃ」から、「何とか好は話をかけれやれ」と言われたが、黙って父の顔をみていただけだった。父の気持ちはいろいろ知っていたつもりだし、父も私の気持ちをよく知っていたと思うからだった。父の気持ちは私の中に生きている自負もあったし、人のいる所で声をかけることも嫌だった。たとえ一銭でもこすいことはしたくない、それは親から子への宝の贈り物だった。兄弟はみなそうだったと思う。
食べ物では、ご幣餅づくりや、秋の花火のころ茗荷(みょうが)のはにくるんだ蒸しダンゴの味が今でも忘れられない。卵の黄身をかけたご飯の味も、幼心にかすかに残っている。そういえば、食事は箱膳だった。食事の後は茶碗にお湯をいれ漬物ですすいでからしまって戸棚にいれていた。囲炉裏をかこんだ食事だった。
当時は40Wくらいの電球で、それも始末のせいか囲炉裏端の夜なべでも一つつけてあっただけだ。毎日ではなかったが、父の縄ないの姿が残っている。どこでも貧しかったから、子供がみる絵本は殆どなかった。遊びおもちゃも殆どなかった。何時ころ寝ていたのか見当もつかないが、早くに寝たのだろう。
3〜4才ころには弁天橋のかけかえのために何人か家に泊まっていたそうで、長谷部という人に可愛がってもらったと母が話してくれたことがあるが、何をきき何と答えていたのか見当もつかない。祖父に数を教えられ祖父が満足げだったと母から聞いたが、祖父母の記憶は困ったことに何にもなかった。後年、宿業というのは3才までのインプットだという思いが強くなったのも、こうした小さいときのいろいろのことを聞いてきての結論も多分に関係している。
お勝手から階段をあがると二階だった。南側は雨戸と障子だったが、畳から50cmあがったところから、片屋根がのびていた。ある夏の夜、この屋根に登って母と腰を下ろし、どうして雲がきえていくのかなぁ、どうして雲は浮いているのかなぁ、と母に聞いた。その情景は鮮明に残っている。母は静かに聞いていてともに不思議がってくれた。
二階へいく階段はその後家の移転にともなって、移動して「とまぐち」を入った土間のある部屋の板の間から二階へいくのに使われていたし、そのごの新築に伴って長屋の階段に使われていた。この階段を記念にもらってきて柿干場へ上る階段にしている。虫食いになって見る影もないが木は丈夫なもので構造上ビクともしないでいる。
孫の友美が2才のころ、玄関脇の6畳で寝転がっていたとき、子どものα波を理解していたから私も子ども心にかえって周囲をジッとみていた。窓ごしに鞍馬の竹藪の梢が右に左にゆっくりと動いていた。いまもその情景が鮮明に残っている。
子どもがもつα波の偉大さには驚嘆すべきものがある。脳裏に写るすべてのことが、単独ではなく相互に関連してインプットされていく。父が膀胱を患って大阪にいっていたとき手紙を書いたのも二階だった。何をかいたのか覚えていないのだが、母にせがまれて書いたことは覚えている。8〜9才ころであったと思う。
下屋(したや)には6畳ほどの小さい部屋があった。この部屋は夏休み帳をあわててかいた記憶がある。これは小学校の高学年ころのことである。
いぜんとして家には本はなかった。原俊彦の家にはたくさんの本があって、学校の帰りにみせてもらったり、何冊か貸してもらったこともあった。小林へいくと武彦の本があった。いいなあ、子ども心には一つの羨望であった。忙しいときは別にしても父母はあまり子どもをあてにしなかった。読む本があればよかったのになあと、いまでも思う。
下屋の下は、天井の低いコンクリ床の部屋だった。喜代太郎じいさんの卵の置き場だったし、養蚕の桑置き場でもあった。木戸の扉をあけると、天竜川へおりていく石段になっており、大水になると流木を鳶でひっかける足場であった。父は体は小さかったが、この流木を手繰り寄せる姿は頼もしい姿だった。この開き戸の下手に大きな杉の木があった。
舟渡(ふなと…他の部落の人からこの一帯はそうも呼ばれていた)には、当時としてはハイカラにも水道があった。誰がいつごろつくったのかいまだに聞いていない。この外の流しの下には、いけすがあった。喜代太郎じいさんはメタンガスを利用するということで、この池にいろいろと小枝など入れてガスを取り出したそうで、銅管の覚えはあるが利用していた覚えはない。兄は弱い火がついたのを覚えているという。池には踏み板をかけて、へそ風呂があった。熱いときには、上の流しからばけつで投げいれて加減をしていた。
家業は養蚕を主としていた。下屋から二階へ桑を運んだ記憶もある。給桑の記憶はあまりないから、まだ当てにならなかったのだと思う。小さい頃、醤油樽があって売っていたように思う。また、父が竹切りをして大きいトラックを家の前へとめたことが一回あった。竹切りはその後大きくなってから北原の藪の囲い作りについていって、竹から竹へターザンまがいに移り渡ったことも楽しい思い出になっている。なんといっても、養蚕はえらかったと思う。
二 隣近所
お隣りの「たばこや」の人達は、みんないい人だった。吸い口のついた朝日だとか、きせる用のはぎやゴールデンバットが店棚にあった。とま口を入ると囲炉裏のある部屋があり、左奥に二部屋あった。風呂場は下屋にあって、たらいに竹すのこを敷いた足場から、母にいれてもらった。もらい風呂は、お茶をもらえるし、お菓子が貰えたりして楽しかった。榎屋へ行ったり、牧内先生の家へ行ったりした。「みどり」や「みずほ」もまだ小さかった。たばこやの下屋(したや)では、お爺さんが鋸の目立てをしていた。折々ぼんやりして眺めていたことを思い出す。
たばこやの上は、二人連れの「おおし」がいた。おおしさと呼んでいた。わるい人達ではなかった。ただ話がわからずとまどっていた。
当時は荷車をひいた運送屋さがいて、家の前から多少の坂道になったので、たのまれてよく後押しをした。一銭の「おだちん」だったが、「とめさ」はやすやすとはくれなかった。坂を登りきると「喜八っつぁ」の家だった。
橋の渡り口をはさんで、金坊の家があった。この家にはなんだかあまり入ったことがなかった。下屋(したや)の床下で遊んでいた時、金坊が上から落ちてきて大騒ぎになり、とま口に入った所で母親が泣き悲しむ姿が目に残っていた。金坊は死んでしまった。姉の照ちゃは、阿島の吉川へ嫁いでいった。
その南隣は「おてっつぁほう」だった。酒を売っていた店で、駄菓子屋でもあった。一銭を握って「へぇっ、売ってっ」といって、黄な粉だまやベッコウ、変わりだま、豆板など買った。福引きもあった。家続きに一間重ねの三階建の洋館があった。ハイカラだったが、使われていなかった。この家には子どもがいなかった。
その隣は牧内先生の家だった。たばこやと親戚で、女一人、男四人の五人兄弟で賑やかだった。蓄音機やラジオがあって、他の家とはちょっと違った感じだった。先生の家だからなと思っていた。
榎屋には雲雀沢出身の清という女衆がいた。蚕の手伝いにきていたのだと思う。石垣があり塀のかかった家だし蔵もある家だったので、金持ちの家なんだなと思っていた。みどりはちょっと澄ましたお嬢さん風だったが、みずほはおきゃんな明るい子だった。父が大阪で世話になったのは、「正二さ」の兄さんだった。
・弁天橋
新しい橋ができたのは、昭和九年という。当時、「おんたけさま」の北から榎屋の登り口までずっと石垣だったが、古い橋あたりまで裸電球をぶらさげて明るくし、橋の渡り初めをした。橋づくりの細かいことは、覚えていない。ピーヤを作っていたのは薄ら覚えに残っている。古い橋は取り除かれ、渡り口ですっぽり残されてそのままでいた。新しい橋は欄干があり、電球はバレーボールくらいの白濁のフードで包まれ、さらに金網で覆われていた。夏になると朝早く起きて、カブトムシを取りにいった。
いまは忘れたが「西郷隆盛の娘の歌」をまねたり、鬼ごっこをしたり、自転車の三角またぎをしていた頃だった。ひとだまを見たのも、夕暮れの遊びで帰る頃だった。道の舗装はなかったが、橋はコンクリでできていたので、後の始末など考えることもなく石を投げてどこまでとどくか遊んだものだった。ハーモニカを吹いたのも懐かしい思い出である。
最近になってパソコンで調べて見ると、「西郷隆盛の娘の歌」は次のようだったことが判った。
弁天橋の上で、女の子と一緒に男の子も歌ったあの歌は調べて見ると『手合わせ唄』で、鹿児島県各地で歌われたものに類似している。
一かけ 二かけて 三かけて
四かけ 五かけて 橋かけて
橋の欄干腰をかけ 遥か向うを眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香手に持って
姉さん 姉さん どこへ行く
わたしは九州 鹿児島の
西郷隆盛 娘です
明治十年戦役に 切腹なされた父上の
お墓参りに まいります
お墓の前で 手を合わせ
なむあみだぶつでジャンケンポン
まず間違いないだろう。
三 遊びなど
遊びは男同志が自然の成り行きだった。棒飛ばしや石蹴り、隠れんぼ、竹馬、缶詰製のパッコ、けん、せいたのブランコ、天竜川での砂遊び、それはいろいろなものだった。水浴びは夏のいろいろの思い出を作ってくれた。ことに天竜川を初めて泳いで渡ったときは、大きい人達のおかげだった。破れたパンツやズロースも思い出があり、潜って川を渡るのも懐かしい思い出だし、唇が紫色になって、大きい石に腹ばいになったのも懐かしい。お盆すぎの簾巻きをほのしたのもおかしなことだったし、天竜下りの銭なげ拾いも、「小塩や」の下からの飛び込みも懐かしい。
現在の桐生の昔の場所には豚小屋とよんだ小屋があり、せいたで作ったブランコをした。この小屋の前に小さい小屋があり、丸太柱の釘には「ぬかでの油薬」がぶらさがっていた。和三さについていって、松尾の畑から西瓜を取ってきたことがあったが、何となくいやな感じがしたこともある。よそのものを取った覚えはあまりなかった。
夏には大きい人達に指示されて、筵やござ、釘ん棒や鍋などはこんで、「てんか山」でキャンプをした。このことは一度か二度であとはしなかった。
正月行事の「おんび」はずっと続いた。家々から五銭か十銭もらい集めておんびの支度をした。「おんたけさま」でへいそくを作ってもらい、飯田まで行って買ってきた紙テープや風船を竹の枝に取り付けた。古い傘に紅白の四角い紙を張り付けて花傘も作った。雪が降ると倒して軒下へ入れ、晴れるとまた立てた。七日の朝の「ほんやり」は、子供の頃のたのしい行事であった。
大声で「ホーホ、ホーホ」とはしから呼んだ。古竹の引き出しから、ほんやり作りには大人はなんにも干渉しなかった。どこの家でもみんな出てきてくれた。おんたけの「正男さ」や山本屋の「由弥さ」が、先に立っていた頃だった。戦争が始まってからだんだん下火になってきた。
四 小学校
小学校へあがったのは昭和10年だった。大きい人達について、小川の分教場へ三年間通った。着物にもっくらだった。二人机のお隣はちょっと上品な感じのした吉沢寿賀子だった。吉川豊司が三十糎の物差しで叩かれたことがあった。女の先生は松尾の丸山菊江先生だった。
三年になったら、ずんぐりした男の近藤先生がきた。あまり叱られた記憶はないが、けんをまとめて薪ストーブにくべられたことがあった。よく脇の下に本を入れてきて読んでくれたのを覚えている。この読み聞かせは楽しみだった。
カバンは背嚢カバンだった。今のようにノートとエンピツではなく、石版と石墨だった。これは今使ってもしごく都合がいいのではないだろうか。
継続中
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