= 焚き火のまえで =
高校のときの仲のよかった友人に、筋金入りのバイク乗りがいた。
彼女は、高校1年、16歳のときに、学校をサボって合宿で中型二輪の免許をとった。そして、その年の夏には、一人で北海道へ長期ツーリングへと旅だった。
小さい頃からかなりめちゃくちゃなことをやっていたらしいが、さすがに女の子がひとりでいきなり北海道ツーリングだなんて親が許してくれるわけもない。
そこで、親には近所の奥多摩にでかけると偽って、旅立った。荷物が多いとアヤしまれる。テントも持たず、寝袋ひとつでの1ヶ月ツーリングとあいなった。
着替えの服もろくに持って行かず、途中で知り合った旅人にジーンズを恵んでもらったのだそうだ。「パチンコ屋の駐車場で寝てたら車にひかれそうになった」なんてことをこともなげに話してくれる。「居眠り運転して、畑に突っ込んでしまった。病院に担ぎ込まれたのはいいけど、お金がないから、そのままとんずらした」とか、まあ、そんなヤツなのである。
その彼女がつねづね言っていた。「卒業したら、オーストラリアをバイクで一周する」と。
その当時、ぼくは外国という世界について考えたことはなかった。旅行がすきでも、外国にいってみようなんて、いっぺんたりとも思ったことはなかったし、いけるとも思わなかった。
外国旅行というのは、英語がペラペラの人だけの特権だと信じきっていた。入国審査で、あれこれ英語で質問をされるわけだから、英語で答えられなければ入国が認められるはずもないと思っていた。
だから、彼女のその計画を絵空事のように聞いていたし、はっきり言ってしまえば、「ああ、またサトミの病気が始まったな」と思っていた。
「英語しゃべれんの? このまえも英語の追試受けてなかったっけ?」
よく言えば、彼女は志がたいへんに高い。奇抜なことを思いついてはこれまでみんなを驚かせてきた。「大物は考えることが違うのさ、ハハッ」と自分でいってしまうその性格は誰も憎めない。
彼女に関しては、一冊の本にしてもいいくらいにおもしろいエピソードがたくさんあるのだが、それはまたの機会にしたいと思う。
いま、ここで言いたいのは、それまでにぼくのもっていた『外国』への認識についてだ。
そんな冷ややかな目で海外を夢見る彼女のことを見ていたのはいつのことだったのだろう。
まさか、このぼくが海外へ、それも自由旅行で外国を訪れることになろうとは思いもしなかった。
それには1995年の出会いが大きかった。こまかい話は割愛するが、この年の夏に、旅先でひとりの旅人と会い、2週間ほど行動を共にする機会があった。そのときに聞いた海外の話が、ぼくに自信をつけさせた。
その旅が終わるころには、いつの間にか「海外旅行」という気張りがなくなっていた。国内旅行・海外旅行と明確に区別するのではなく、「旅行は旅行なんだな」と、自分のなかにあった海外という垣根がとっぱらわれたようだった。
そうして、いつの間にか、ぼくは国内旅行の延長で台湾へ渡っていた。
そう、それは事実上、国内旅行の延長であった。
台湾という国は、環太平洋山系でいう日本のすぐしたに位置する。九州、沖縄そして次が台湾島だ。
ここのところ毎年のように沖縄へ長期で出かけていた。沖縄といっても日本本土より限りなく台湾に近い八重山諸島。だから台湾に行くといっても、ちっとも外国というかんじはしない。沖縄旅行のついでにちょっと足を延ばしてみたというほうが正しいかも知れない。
そんな台湾旅行だから、もちろん成田からひとっ飛びというわけではない。
東京から船で沖縄本島の那覇へ、そして那覇から石垣島、そして石垣島から台湾へと、すべて船を乗り継いでいった。接続の関係で那覇で1泊したのを含めると、到着までに6泊7日かかったことになる。
飛行機に乗れば、いやでも海外にいくというイメージがわくのだろうが、船の場合はそれがない。石垣島までは何回も利用しているルートだ。それに出国審査は、出航まえの那覇港で、船に出入国管理官が乗り込んできて行なわれた。パスポートに出国スタンプを押してもらった後でも、途中寄港する宮古島と石垣島では、日本国内に上陸できてしまうのだ。
考えてもみてほしい。ふつう飛行機で外国へいく場合は、「これよりさき航空券を持っている人以外立ち入り禁止」という区域に入ったら、あとは出国スタンプをもらって、飛行機に乗る以外に道はない。都合で引き返すこともできないわけではないのだろうけど、通常は出国スタンプをもらうと、自分はもう日本にはいないんだという気持ちになる。だって、この段階で書類上はもう日本を出国したことになるわけだから。
それが、船の場合は、日本にいない身分のまま、ふつうに街なかをうろつくことができてしまう。なんとも不思議な気分だ。
もし、そのまま船に戻らないでトンズラしたら、いったいどうなるんだろう、そう考えたらなんともワクワクした気分になった。
さらに、船はいちおうの国際航路とはいえ、かなりマイナーな手段らしく、客が極端に少ない。ぼくが乗ったときには日本人はぼくを含めて8人しかいなかった。台湾人約20人を含めてもたかだか30人。
この船は沖縄の那覇始発で、宮古島・石垣島を経由して、石垣島から先が台湾に向けての国際航路に切り替わる。
しかし、石垣港を出港しても、船の雰囲気が急にかわるわけもなく、船内アナウンスは相変わらず日本語だけで、英語はおろか台湾の公用語である中国語(北京語)のアナウンスもない。「この船、本当に外国にいくのか?」という感じだった。
唯一、国際航路らしい点といえば、免税ビールの自販機の存在だけだった。石垣港出港後のみ電源が入れられる自動販売機がある。そこではキリンのラガーと一番搾りが120円で買うことができる。となりでは船内特別価格の缶ジュースが130円で売っていて、これだけが、唯一国際航路を証明するものだった。(ように思えた)
こうして、石垣島を出港して、翌日の早朝、台湾の北部の基隆(キールン)に到着した。
船に台湾のイミグレーションが乗り込んできた。入国審査である。初めての入国審査にドキドキしながら、パスポートと入国カードを差し出すと、係官は無言で受けとった。そして簡単に内容を確認すると、なにも言わずにポンとスタンプを押してくれた。あっけなく入国審査は終わった。なにも尋ねられることはなかった。
ちょっと拍子抜けしながら、荷物を担いで船をおり、ターミナルのなかで税関検査。台に荷物を乗せるように手真似で言われ、そのとおりにすると、ぼくの大きなザックをポンポンと叩くようにすると、そのままなにもいわずに通してくれた。
そしてぼくは初めて自分の足で辿り着いた異国の地、基隆(キールン)のまちに足をおろした。
いままでの心配はすべて杞憂におわり、英語はおろか口さえ開かずに、外国へ入ることができたのだ。
こうして、ぼくの台湾自由旅行がはじまった。
By あきば・けん e-mail address |