最悪な日




 今日は人生最悪の日だった。

 マイクロトフはとある居酒屋でヤケ酒を飲んでいた。
 普段は酒はたしなむ程度しか飲まないのだが、今日は飲まずにはいられない事情がある。何もかも忘れるくらい飲みたくて、いつにない速いピッチで酒を呷っていた。周りががやがやと賑やかな中、会社帰りのスーツ姿で一人、黙々と飲み続ける姿は目立っているかもしれないが、そんなことは既にどうでもよかった。

 したたか酔っ払った状態でトイレに入ると先客がいた。その隣に立ち、用を足しながら大きく息を吐くと、普段は身が引き締まるような気がするきっちりと締めたネクタイが今夜はとても窮屈に感じ、指で少し緩める。
 と、隣の男がこちらを見る気配がした。つられてマイクロトフも顔を上げ、相手を見ると、その男は柔らかい亜麻色の髪に琥珀色の瞳を持った、自分と同い年くらいの青年だった。薄茶のスーツを着ているが、サラリーマンというよりモデルといったほうがぴったりくるような美形だった。その彼がじっと自分を見つめている。マイクロトフは酔って鈍くなった思考で、自分が向こうに見惚れるならまだわかるが、なぜ自分が見つめられているのだろう、とぼんやりと思いながら相手を見つめていた。あまり見られるので、顔に何かついているのだろうか、と思い、手で顔を撫でてみる。
 すると、ふっと彼が視線を緩めてわずかに笑みを浮かべた。
「やあ」
 顔に似合った柔らかい声だった。
「……どうも」
 いきなり声をかけられたマイクロトフは一応、律儀に返したが、場所が場所だけに、状況が状況だけに恥ずかしくなり、目を逸らす。くす、と笑う気配がしたかと思うと男はすたすたと手洗い場のほうに向かった。

 なんだったんだ? 今のは……。

 マイクロトフは首を捻りながらも、向こうもこちらも酔っ払いなのだし、そんなに気にすることはないか、と思うことにした。だいたい、今日はそんなことに気を取られている場合ではないのだ。
 日中の出来事を思い出して、マイクロトフの気持ちがまた重くなった。用を足すと「まだ飲み足りないな」と呟きながら、少しふらつく足で手洗い場に向かう。今夜は何もかも忘れるくらい飲まなければならないのだ。
 と、手洗い場の隣に先程の男が立っていた。
 こちらを見てるふうな男に、マイクロトフは、どうしたんだろう、と思いつつ知らないふりをして手を洗う。
「ねえ」
 声をかけられた。
 顔を上げると思いもかけないほど間近に男の顔が迫っている。
「なん……っ?!」
 驚いて声を上げかけた唇を何か柔らかいものが覆った。見開いた視界いっぱいに男の端整な顔。ああ、間近で見てもいい男だな……、などとあまりの出来事に思考が吹っ飛んでいたが……。
 ぬるり、としたものが口内に入ってくる感覚に一気に我に返り、男を、どんっと思い切り突き飛ばした。
「なっ、何をする?!」
 突き飛ばされた男はよろめきながら壁に寄りかかると、あははは、と楽しげに笑い出す。マイクロトフは真っ赤になって手の甲で唇を拭うと男に向かって怒鳴りつけた。
「何がおかしい?!」
「いや、トイレに入ってきたとき、世界の不幸を一身に背負ってます、みたいな顔してたからさ」
 からかってやろうと思って、と笑う男にマイクロトフはカッとなる。
「なっ……! ふ、ふざけるな!!」
 男は激昂するマイクロトフの肩を、まあまあ、と馴れ馴れしく叩いた。
「これから愚痴を全部聞いてやろうっていうんだからさ、安いもんでしょ?」
「は?」
 何を言っているんだ、この男は。
 突然の展開に呆気にとられているマイクロトフの肩を抱き寄せた男は顔を覗き込んでくる。
「どうせ一人で飲んでいても悶々とするだけで気が晴れないでしょ? こういうときは誰かにぱーっと愚痴らないとね」
「な、なぜ一人で飲んでいるって知っているんだ……?」
 トイレに入る前から見られていたのだろうか、とマイクロトフが動揺すると、
「あ。やっぱり当たってた?」
 と男は笑う。どうやらカマをかけられたようだ。一人赤面するマイクロトフに、男は、ぽんぽん、と抱いたままの肩を軽く叩いた。
「ま、そういうわけだからさ。飲もうよ。こういうときはなまじっか事情を知っている人間より、見ず知らずの他人のほうが話しやすいもんだろう?」
 肩を抱かれたまま促され、つられて歩き出そうとしたマイクロトフだったが、寸でで我に返り、足を踏ん張る。
「ふ、ふざけるな! なぜおまえのような得体の知れない人間と飲まねばならない?!」
「得体の知れないは酷いなぁ……」
 せめて、正体がわからない、とか、どこの馬の骨ともわからない、とかにしてよ、と笑う男にマイクロトフは「同じだ!」と毒づいた。
「初対面の相手にいきなり、あ、あんなことするヤツは、得体の知れないヤツで充分だ!!」
「あれ? ひょっとして初めてだった?」
 からかうように顔を覗き込んでくる男をマイクロトフは真っ赤になりつつも睨みつける。
「そ、そんなわけあるか! 人を幾つだと思っている?!」
 そうだよねぇと男はおかしそうに笑った。会話になっているようでなっていないやりとりにマイクロトフは酔いも忘れてどっと疲れる。とりあえずこの男から離れようと、さっきから馴れ馴れしく肩を抱いている手を邪険に振り払って出口に向かおうとした。しかし、その肩を再び掴まれる。
「待ってよ。一緒に飲もうってば」
「断る!」
「君みたいなタイプは一人で飲んでても帰りの心配とかするだろうから、どこかでセーブしちゃうよ?」
 男に言われて、マイクロトフは言葉に詰まった。確かに、先程からいつにないペースで飲み続けているというのに、さすがに酔ってはいるものの、気付けば終電の時間の心配をしたり、タクシー代はあるのかと考えたりと、何もかも忘れて酔い潰れたいという希望とは程遠い状態だった。自分でも嫌になるほどの真面目な性格は簡単には崩れそうになく、この分では最後まで理性を捨て切れないかもしれない。
 そう思っているところに、
「今夜はとことん飲みたいんでしょ?」
 と、心を見透かしたようなことを言われ、マイクロトフは言葉をなくした。
「どうして……」
 とまどったように眉を寄せるマイクロトフに、男は見惚れるほど優しい笑みを浮かべる。
「俺は、酔い潰れた君の身包みを剥いで路上に捨てていく、なんて真似はしないよ? どんな愚痴でもいつまでだって付き合うし、今までちょっと意地悪した分、すごく優しくしてあげる」

 あとから思えば自分は今日起こった最悪の出来事に弱り果てていたのだ。そして、相当酔っ払っていたのだ。そうでなければこんな得体の知れない人間の『優しくする』という言葉に惹き込まれるように頷くはずがなかった……。


 つづく





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