最悪な日・2




 目を覚ましたとき、最初に感じたのは自分の酒臭さだった。口の中だけでなく、身体全体からアルコール臭がするような気がする。飲み過ぎたか、と苦く思いながら、ぼんやりと目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。霞がかった頭でここはどこなんだろうと考える。
 もぞ、と、だるい身体でわずかに身じろぎすると、頭上から声がかかった。
「あ、目、覚めた?」
 その声にマイクロトフは驚いて、がばり、と身を起こした。とたん、襲いくるすさまじい頭痛。
「ああ、大丈夫? さすがに飲み過ぎたかな?」
 頭を抱えるマイクロトフに、声の主は笑いながら言うと、水を持ってくる、と言い残して姿を消した。マイクロトフは頭痛と吐き気と闘いながら、我が身に何が起こっているのか必死に考える。しかし、まだ酒で麻痺しているのか、思考はさっぱりまとまらなかった。

 ここはどこなのか。そして、さっきの男は……。

 思い出そうとしてもまったく記憶が定まらない。頭の中が靄に包まれているようだ。
 完全にパニックを起こしている頭に、落ち着け、落ち着け、と言い聞かせていると、すっと目の前にコップに入った水が差し出された。つられたように顔を上げると端整な顔立ちの男が立っている。
「はい、水」
「お、おまっ……げほげほ!」
 おまえは、と叫ぼうとしたマイクロトフの咽喉は昨日の酒で完全に焼かれていたらしく、舌根が咽喉に張り付いて激しく咽た。
「ああ、マイクロトフ、大丈夫かい?」
 男はコップを傍らに置くと、背中をさすってくる。それに助けられるようにマイクロトフは声を絞り出した。
「な、ぜ、俺の名前を知っている?」
 マイクロトフの質問に、男は、おや、というふうに片眉を上げる。
「マイクロトフ、二十六歳。大学卒業後、某大手企業に就職し、営業に配属されたものの、四年目にして向いてないことを理由にリストラされる。で、住んでいたマンションも会社の借り上げだったから追い出されることになって、行くところがない、と」
「な、なぜそれを……?!」
 咽て涙が滲んだ目を見開くマイクロトフに男は軽く肩をすくめた。
「なぜって、おまえが全部話したからに決まっているだろう。中学から大学までやってた剣道の話でもしようか?」
「っ!」
 マイクロトフは息を飲んだとたん、再び咽てしまった。またも、男が背中をさすってくれる。さわさわと優しく背中を撫でる手がやけに温かい。いや、温かい、というより生々しい、と思ったとたん、マイクロトフは重大なことに気付いた。
「なっ、なんで俺は裸なのだ?!」
「えー?」
 心底慌てているマイクロトフがおかしかったのか男はくすくす笑う。
「ひょっとして、夕べのこと、覚えてないの?」
 からかう口調にマイクロトフはざあっと音がするほど青ざめた。見知らぬ部屋で服を脱いで寝ていたなど尋常ではない。しかも、何があったのかさっぱり思い出せないのだ。
「ゆ、夕べって、い、いったい何が……」
 心底慌てているというのに、事情がわからず騒ぐこともできない。そんな葛藤と苦悩がありありと顔に出ているマイクロトフを男はおもしろそうに見ていたが、ベッドに腰かけるとおもむろにマイクロトフの顎を、くい、と持ち上げた。目を細めると、どきっとするほど色気のある表情になる。
「覚えていないなんて酷いな。夕べはあんなに激しく愛し合ったのに」
「なっ、ふ、ふざけるな! 『カミュー』!!」
 自然と口から出た名前にマイクロトフ自身が驚いて目を瞠った。
「あ、さすがに名前は覚えていてくれたんだ?」
 良かった、と嬉しそうに笑う男・カミューを見ながら、マイクロトフはようやく記憶の糸を少しずつ辿ることができる。

 昨日、会社側から突然解雇を言い渡され、一人で居酒屋に行って、ヤケ酒を飲んでいて……トイレに行ったらこの男と会ったのだ。そして……。

 そして……?

「き、貴様!!」
「わ。な、なに? どうしたの?」
 いきなり胸倉を掴まれたカミューが慌てたように両手を上げると、マイクロトフは噛みつくように怒鳴った。
「あんな真似をしておいて、どうしたもくそもあるか!!」
「え? あんな真似って?」
 目を瞬かせるカミューにマイクロトフはちょっと顔を赤らめる。
「キ、キスをしたろうがっ」

 酔ったはずみとはいえ、男である自分にあんなことをするなど冗談ではない。
 あのあとはなぜか一緒に飲むはめになって、カミューに進められるがままに酒を飲み、こちらもヤケになって、洗いざらい愚痴をぶちまけたような気がする。
 そのうち呂律もあやしくなり、意識は朦朧としはじめ、そろそろ帰らなくては、という思いがちらりと脳裏をよぎったが、あんなことをされたのだからコイツに迷惑をかけてやるのは当然だ、と思い直し、意識が沈むままに身をまかせたのを覚えている。

 憤然と睨みつけたマイクロトフだったが、カミューはきょとん、としたかと思うと、次の瞬間には盛大に吹き出した。
「な、何がおかしい?!」
「い、いや、だって……」
 カミューは腹を抱えてベッドの上で笑い転げる。そして、ひとしきり笑って気が済んだのか、業を煮やしたマイクロトフに気付いたのか、ようやく身体を起こした。
 くくく、とまだ咽喉を震わせてマイクロトフの顔を覗き込む。
「あれだけのことをしといて、怒るのはキスのことだけ?」
 と、笑い混じりの声で言いながら、つつ、と裸の胸板を人差し指で撫で下ろした。マイクロトフはその感覚に背中がぞくり、と粟立つのを感じつつ、「あれだけのことって……?」と、嫌な予感に囚われながらつられるように視線を下げる。その目に写ったものは……。
「なっ、なんだ? これは!!」
 思わず叫んだ。
 身体のところどころに散っている、鬱血したような痕。それは昨日の朝、着替えたときには間違いなくなかったもので。その数からいって、昨夜のうちにぶつけたとか、虫に刺されたと考えるには、あまりにも無理がありすぎた。
 マイクロトフは顔から音を立てて血の気が引いていくのを感じながらカミューを見上げる。これは、きっと自分が寝ている間にこの男がしかけた悪ふざけだろう、と己に必死に言い聞かせながら、とにかく気持ちを落ち着けようと深呼吸を繰り返した。大きく息を吐き出して幾分、覚悟が決まると、カミューに尋ねてみる。
「これは……なんだ?」
「何ってキスマークでしょ」
 こともなげに答えられ、マイクロトフは頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「な、なぜこんなものが……」
 自分の身体に散っているのか。こんな状況で考えられることといえば少ないはずなのに、頭がそれを認めるのが嫌がって、そういう思考が浮かぶのを激しく拒否しはじめる。
 わなわなと震えだすマイクロトフにカミューは首を傾げた。
「ひょっとして、全然覚えてないの?」
 マイクロトフは頷くことができず、目線を合わせないまま恐る恐る聞いてみる。
「し、したのか……?」
「したってセックス?」
 あからさまに言われ、マイクロトフはいたたまれなくなってうつむいた。男同士でできるのかはわからないが、もし、肯定されたらどうしたらいいのか。まったく覚えていないのだから、という言い訳は通用するだろうか。
 二日酔いだけでなくガンガンと痛み続ける頭を抱えたい思いで返事を待つ。
「それはノーだよ」
 あっさりと返ってきた返答にマイクロトフは弾かれたように顔を上げた。どんよりと曇っていた空に一筋の明光が差し込んだかのように心に安堵が広がっていく。
 が、
「まあ、咥えさせてはもらったけど?」
 という答えに愕然とする。笑みの形に吊り上げた唇を指でなぞりつつ応えるその表情は、ぞくりとするほど艶めいていたが、マイクロトフはそれどころではなかった。そのしぐさに頭の中でとある光景がフラッシュバックされたのだ。そのシチュエーションはあまりにも信じられないもので……。

 薄暗闇の中、耳に届くのはどちらのものかわからない、荒い息遣い。ぼやけた視界には自分の足の間に蠢く亜麻色の髪が映し出されていた。下半身から絶え間なく襲ってくる感覚はマイクロトフにとってあまりにも未知のもので、何か考えようとしても与えられる強烈な刺激に思考があえなく霧散してしまう。助けを乞うように切れ切れに彼の名前を呼ぶと、ゆっくりと頭が上がり、その前髪から覗く表情が……。

「っ?!」
 それは昨夜の記憶なのか。その事実に谷底に突き落とされたような衝撃を食らう。
「なっ、お、おまえ、なんてことを!」
「なんてことを、って言われてもさ。俺だってまさか自分があんなことできるなんて思いもしなかったよ」
 カミューは意に介したふうもなく、軽く肩をすくめる。その、あまりの罪の意識のなさにマイクロトフの怒りはさらに募り、カミューに再び掴みかかろうとしたが、身体を動かした拍子に毛布がずり落ち下半身が覗きそうになると、慌てて毛布を押さえた。その様子にカミューはピンとくる。
「え? 何? ひょっとして勃っちゃった?」
「う、うるさい!! こんなのは朝の生理現象だろうが!!」
 さっきのカミューの艶めいた表情が原因だとは断じて認めたくない。マイクロトフは尻尾を逆立てた犬のように必死にがなった。その様子にカミューはおもしろがって手を伸ばそうとする。
「抜いてあげようか?」
「うわっ! 触るな!!」
 毛布を押さえているため自由になる手は一本しかない。それでも必死に抵抗するとカミューは笑って手を引いた。マイクロトフは、ぜえぜえ、と荒い息を吐きながらカミューを睨みつける。
「お、おまえ、ほ、ホモなのか?!」
「いや、昨日までは違ったはずなんだけど……」
 昨日、一目見て、欲しいと思ってしまった。
 苦い笑みからどこか挑発的な笑みに変わる様は見惚れるくらい魅力的だった。しかし、今のマイクロトフにとっては何の魅力もないどころか慰めにもならない。
「欲しいでしてたら犯罪だろうが!!」
「だから最後までしてないじゃん。それに……」
 嫌がってなかったよ? と目を細めて笑うカミューにマイクロトフはあんぐりと口を開けた。
「う、嘘だ……」
「嘘じゃないよ。何度も甘えた声で名前呼んでくれて、背中に腕を回してきたりしたから、てっきりその気なんだと思ったのに……」
 自分だけすっきりして、さっさと寝ちゃうんだもんなーというセリフをマイクロトフはどこか遠いところから聴いていた。朝、起きたときは名前すら思い出せなかったのに、勝手に口を突いて出たのはそのせいか、などと、何の脈絡もないことを考えてしまうのは魂がどこかに飛んでいっているのかもしれない。
「俺にもしてくれるって言うから期待してたんだけどね。まさか、この歳になって自分で抜くはめになるとは思わなかったよ」
 あんまりなセリフにマイクロトフは真っ赤になって怒鳴る。
「だ、黙れ! この下半身男!!」
「マイクロトフには言われたくないな。昨夜、あんなにあっさりイッたくせに」
「なななっ……!」
「まあ溜まっていたんだよねー。彼女いない暦、三年だっけ?」
 そんなこともしゃべったのか……とマイクロトフはがっくりと項垂れた。もう、どう足掻いても知らんふりできるレベルではない。

 その日に会ったばかりの男に自分のことを洗いざらい話し、部屋に連れ込まれ(もしくは自ら転がり込んだのか)、裸になった挙句、信じられないところを咥えられ、あまつさえ甘えるように名前を呼んだり、背中に腕を回したりして、あっさり果てたと……。

 頭の中で整理してみると改めて自分の身に起こったことが信じられなかった。自分はこんなに酒癖が悪かったのだろうか、と、ただただ後悔の嵐である。
 一晩の過ち、というにはあんまりな展開にマイクロトフは心底打ちのめされ、カミューによしよしと頭を撫でられても振り払う気力もなかった。
「ば、馬鹿な……」
 悪夢であってほしい。こんなのありえない。
 どん底にまで落ち込んでいるマイクロトフにカミューは首を傾げて問う。
「マイクロトフって酔ったらいつもこうなの? 目覚めたら知らない女が隣に寝ていたってことない?」
「あるか!!」
 真っ赤になって否定したマイクロトフだったが、カミューはなぜか嬉しそうに笑った。
「よかった。じゃあ、これからもよろしくね」
「は?」
 目を丸くするマイクロトフにカミューは意味ありげな視線を返す。
「もう他人じゃないでしょ?」
「ま、待て! どうしてそうなる?!」
「俺もね、こんなことをしたの、マイクロトフが初めてなんだ」
 女も含めて、だよ、とカミューは笑うが、マイクロトフは何がなんだかさっぱりわからない。
「だから……?」
「こんなことになったのが二人とも初めてってことは、この出会いが互いにとって特別だったって思わない?」
「特別……?」
 おうむ返しに言って首を傾げるマイクロトフにカミューはそっと顔を寄せた。
「運命、ってことだよ」
 耳元で低音で囁かれ、マイクロトフの身体が震える。その、身体の奥が疼くような感覚にはおぼろげに覚えがある気がして、マイクロトフは誤魔化すように大声を出した。
「冗談ではない! 誰がおまえなんかと!!
 帰る! 俺の服はどこだ?!」
「あー、あれ、着られないよ」
 軽く肩をすくめるカミューにマイクロトフは色めき立つ。一分一秒でも早くここを出ていかないととんでもないことになりそうだった。
「なぜだ?!」
「なぜって、夕べので皺くちゃになっちゃって。クリーニングに出さないと」
「なっ……」
「あー、でもワイシャツは引き裂いちゃったから買わなくちゃなぁ」
 まるで、コップが割れたから買わなくちゃ、というように軽く言われたセリフにマイクロトフは目を剥いた。
「なっ、ひ、引き裂いた?!」
 それはどう考えても無理矢理だったのではないか、そうなれば話は違う、とばかりに詰め寄ろうとしたマイクロトフだったが、
「言っておくけど、やったのはマイクロトフだからね。脱いでって言ったらボタンに手間取って苛立ったようにビリッと」
 と言われ、硬直する。
「な、なに……?」
「ちなみにそれに笑ってた俺のも引き裂いてくれた」
 カミューは笑いながらベッドの下に手を伸ばすと皺くちゃになったワイシャツを二枚拾い、マイクロトフに見せた。前身ごろのあたりから無残に破けた一枚は確かにマイクロトフのもので……。どちらも原型をとどめていない有様だった。
「あれはちょっとキたよ。理性が軽く吹っ飛んじゃったもん」
 カミューが色を含んだ視線で見つめてきたが、マイクロトフはそれどころではなく、再び頭を抱えたい思いである。
 脱げ、と言われて素直に脱ごうとした挙句、なかなか脱げなくてシャツごと引き裂いた……アルコールが入っていたとはいえ、この乱れようはあまりにも理解できない。本当に自分はどうしてしまっていたのか。これではまるでケダモノのようではないか。
 自分が本当にわからない。

 ……だが、ひとつだけわかることがあった。

「マイクロトフ?」
 破れたシャツを見つめたまま動かないマイクロトフにカミューが訝しげに名を呼んだが、マイクロトフはシャツから視線を上げるとそれに応えずカミューに向かって一言告げた。
「帰る」
「え?」
「服を貸してくれ。後で洗って送るから」
「ちょっ、マ、マイクロトフ……?」
 カミューは慌てたように肩に手をかけた。マイクロトフは不思議なほど静かな表情でカミューを見つめる。

 それはこの男と関わってはいけないということ。


 つづく





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