第四章 桃源郷
「うわぁー。凄く綺麗♪」 「……」 「なんて素晴らしいお風呂かしら。月も綺麗だし、最高の露天風呂ね」 広々とした浴場を見渡し、彼女らは感動していた。 バスタオルだけで艶やかな肢体を隠したその姿は、 空を彩る星々と相まってとても美しく映えていた。 「隙ありっ!」 「あっ、琴音っ! ちょ、ちょっと!」 後ろから音も無く忍び寄った琴音は、夜空に見とれていた裕子のバスタオルを掠め取った。
絵:翡翠 ユウさん
「ちょっと、返してよ! 琴音っ」 「えへへ〜 やーだよ〜」 「お風呂……」 「その前にあなたはその日本刀をどこかに置いてきなさい。錆びるわよ?」 こちらも久しぶりの温泉に大はしゃぎしていた。
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一方、その頃……。 (よし、もうすぐだ……!) 草木を掻き分け掻き分け、ようやく露天場の壁が見える所まで、2人は辿り着いていた。 今まで進んできた道なき道とはうってかわって、 明るく照らされた竹壁とそこから立ち込める湯気が見える。 「着いたぞ、レイ!」 レイにかろうじて届くような小声で、増田が嬉しそうにそう言った。 対して、何がなんだか分からず付いて来ていたレイは、 この時点でようやく自分がどこを目指していたのかを理解した。 増田の浴衣の裾を引っ張り、慌て気味にこう言う。 「ま、まずいって増田君。今ならまだ大丈夫だから、戻ろう。ね?」 「ええい、離せ。こうなったら意地なんだよ。お前もここまで来たんだったら男を見せろ!」 「ここは絶対見せるべき所じゃないって! ほら、早く戻ろうよ!」 最後の最後に仲間割れを始める2人。 レイは騙されて連れて来られた故、当然のことではあるのだが。 茂みの中で男2人が取っ組み合っている姿は、なかなかどうして見苦しいものであった。 「離せっ! 歩きにくいだろがっ」 「離さないよっ。こんなことしちゃ駄目だって!」 「うるさい! ここまで来たらもう引き返せは――」 取り付くレイを振りほどこうと、増田が腕を大きく振りかぶった時、 増田の驚異的な第六感が彼に警戒信号を与えた。 急いでレイを振りほどき、その場から退避する。 その瞬間、彼がついさっきまで居た所に大量の包帯が襲い掛かった。 「うわっ! な、何これ? ほ、包帯っ?」 逃げ切れなかったレイが包帯で四肢を固定される。 その後抵抗しても、彼の体は一ミリたりとも動かなかった。 (美影の奴、いつの間にこんな仕掛けを……!) 全く身動きが取れなくなった彼を見て、冷や汗を掻くのと同時に、増田は足を動かしていた。 その反応速度たるや、もはや獣の生存本能並みである。 「じゃ、じゃあなレイ! 生きて帰れよ!」 「えっ? ちょっと! 増田君!?」 レイがそう叫んだ時、もう彼の目には増田の姿は写っていなかった。
「……はぁ」 「? どうしたの?」 ゆったりと湯船に浸かったという所で、美影は突然溜め息をついた。 そんな彼女に怪訝な様子で裕子は問いかける。 美影は彼女のその問いかけに、どこかを見つめたまま短くこう返した。 「いえ、何でもないのだけれど」 ふと仕掛けを施された所を見てみると、そこには作動した痕跡が残っていた。 手ごたえも感じていたので、大きな溜め息をつく。 そして、今度ばかりは慈悲のかけらも与えずに、彼女は小さくこう呟いた。 「本当に殺してやろうかしら」 「こ、怖いよ美影ちゃん……」 その時の美影の表情は、全く笑っていなかった。
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「はい。はい。それじゃあ、また。……ふぅ」 全てを報告した倉崎は、先生が通話を切るのを待ってから携帯を閉じた。 マナーモードになっていないことを確認してから、鞄へと戻す。 (喉渇いたな……) ふと気が抜けたのか、甘いものが欲しくなった彼は、 旅館の中に備え付けられていた自動販売機へと行くことにした。 戸締りをきちんとして、最小限のお金を持って自販機へと向かう。 (何飲もうかなぁ) そんなことを考えている内に、彼は自販機の前まで来ていた。 ……増田やレイとは、当然すれ違わなかった。 (どこ行ったんだろうねぇ。廊下も一本道だったと思うんだけど) お金を入れて、ボタンを押す。 取り出し口から一本の缶を手に取り、彼はゆっくりと元居た部屋に帰っていった。 増田達が部屋を出てから、ゆうに10分は過ぎている。 一向に帰ってこない2人のことはあまり考えないことにして、 倉崎はたった今買ったカフェオレをちびちびと飲んでいた。 「あ、順斗」 「ん? あ、柊さん。こんばんは」 偶然すれ違った彼女に軽く挨拶をする。 お風呂上りで濡れているせいか、順斗には彼女がいつもより艶っぽく見えた。 ほんのりと赤くなった頬もとても可愛らしい。 「こんばんは。ねぇ、優作知らない? 今どこにいる?」 その問いに、倉崎は少しばかり返答を迷った。 どうやって返すべきか。 それでも、最終的に彼が出した答えは、非常に正直なものだった。 「10分くらい前に部屋を出て行ったよ。今、どこにいるかは……ごめん、僕には分からないや」 「そう、ありがとう」 一言お礼を言ってから、美影は足早にその場を離れようとした。 その時、一瞬ではあるが倉崎は彼女から殺意を感じた。 彼は慌ててそんな彼女をなだめるようにこう言った。 「柊さん。お願い、どうか穏便に」 すれ違いざまの所で美影は立ち止まる。 しかし彼女は、倉崎に一言だけ言い残すだけだった。 「ごめんなさい。無理よ」 倉崎の懇願だけでは、彼女の怒りは収まらなかった。
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「うぅ……。僕はいつまでこうしているんだろう……」 増田が見えなくなってからしばらく経った所で、いよいよレイは心細くなりつつあった。 浴場からの明かりがあるとはいえ、周りは人気の無い茂みだ。 当然誰かが助けてくれる保障などあろうはずもない。 包帯によって一切身動きが取れないことも、彼の恐怖心を掻き立てる要因の一つとなっていた。 「はっくしょん! うぅ……寒いよ」 浴衣だけという極度の薄着状態のため、徐々に寒気も感じつつあった。 単なる湯冷めかもしれないが、寒いものは寒い。 とうとう観念して、大声を出そうと思っていた時…… そう遠くない所から、人の足音らしき音が聞こえた。 (ほっ、良かった助かった) そう安心したのも束の間。 茂みから出てきたのは、確かに彼の希望通り人だったのだが……。 「不思議に思って来てみたら……。もう一人かかっていたのね」 その目的は彼を助けるためではなく、むしろその逆で……。 見えない所から殺気をひしひしと感じたレイは、怯えきった様子で弁明をした。 「あ、あの……これには、訳が――」 「問答無用」 そう言って彼の目の前に現れたのは、柊 美影。 そして彼女は、ゴミ以下を見るような目でレイに対してこう言った。 「死ぬ準備をしろ」 もう何も言葉が出てこなかった。
続
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