「ちあきのプロフィール」  

ちあきなおみ(チアキ・ナオミ)

 昭和22年9月17日、東京都板橋区に生まれる。
 
 4歳の時からタップダンスを習い始め、5歳で日劇のステージに立った後、米軍キャンプなどを廻りながら歌と踊りの練習に励む。13歳で本格的な歌手活動を開始し、専門のロックやロカビリーでジャズ喫茶のステージや人気歌手の前座を務めた。その後演歌のレッスンを2年ほど続け、その間には流しの経験なども積んだ。
 
 コロムビアのオーディションをきっかけに作曲家・鈴木淳に師事。昭和44年「雨に濡れた慕情」で念願のレコードデビューを果たす。
 デビュー時のキャッチコピーは『魅惑のハスキー・ボイン』。芸名である「ちあきなおみ」は、もう一つのキャッチコピーである『苗字がなくて名前がふたつ』に由来したもので、「ちあき」は芸名をつける際に相談したフジテレビの千秋与四夫(せんしゅうよしお)氏、「なおみ」は当時の所属事務所の社長が坂本竜馬を尊敬しており、その子孫である坂本直道(さかもとなおみち)氏からそれぞれ取ったものらしい。

 デビュー曲、そして2作目「朝がくるまえに」がヒットチャート誌で17万枚近い売り上げを記録。デビューから2年目の昭和45年に4作目の「四つのお願い」が大ヒットし、第1回日本歌謡大賞・放送音楽賞を受賞。同年発売の「X+Y=LOVE」も連続ヒットとなり、その年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たすなど、お色気を兼ね備えたアイドル歌手として人気を得る。また、テレビのバラエティー番組ではコメディーのセンスも持ち合わせていることを披露、活躍の場を広げた。

 昭和47年、「喝采」で第14回日本レコード大賞を受賞。実力派歌手としての認知が高まり、以後「夜間飛行」「円舞曲」のポップス系作品、昭和50年には作曲家・船村徹による演歌系作品「さだめ川」と、幅広いジャンルのヒット曲を発表。一方でテレビドラマにも出演し好評を得た。

 昭和53年、俳優の郷^治氏との結婚を機に「ヒット曲を追うのではなく、自分が歌いたい歌にじっくり取り組みたい」と休業、充電期間に入る。一方、郷氏は昭和50年頃から俳優業から徐々に距離を置いていたが、結婚後はちあきのマネジメント業に本格的に取り組むようになった。

 昭和55年、映画『象物語』の主題歌をサントラ盤に録音し、CBS・ソニーから発売された。また、同時期にはテレビドラマに出演し、まずは女優として芸能活動を本格的に再開させた。

 昭和56年にビクターに移籍し、シャンソン、ジャズ、ファドなど海外の作品をカバーしたアルバムをほぼ1年に1枚のペースで発表。歌手活動を再開させ、時々ライブ活動を行ってはいたものの、結婚前のようにテレビ番組で歌うことはほんどなかった。その代わりテレビドラマや映画に出演し、女優としての露出が増えたが、実は歌の表現力をさらに広げるための活動であったという。

 昭和60年には日本の流行歌をカバーしたアルバム『港が見える丘』を発表。斬新なアレンジで静かな話題を呼ぶ。

 昭和62年、金鳥のCM『ゴン(タンスにゴン)』のイメージキャラクターに起用され、その怪演ぶりがお茶の間の話題をさらう(平成3年まで続く)。
 
 昭和63年、テイチクに移籍し5年ぶりのシングル「役者」で再び歌謡曲・流行歌のジャンルでの歌手業を本格的に再開。同年発売の「紅とんぼ」で11年ぶりの紅白歌合戦出場を果たした。平成元年には演歌のジャンルで活躍した歌手に送られる「藤田まさと賞」を受賞した。
 歌以外での活躍も続き、コンスタントにテレビドラマに出演する一方、平成元年には舞台『LADY DAY』で伝説のジャズ・シンガー、ビリー・ホリデイ役を熱演。好評を得て翌年再演となった。

 邦楽・洋楽を問わず歌のジャンルの枠を超えて、順調且つマイペースな活動を続けていたが、平成4年、夫・郷氏の死去に伴い活動を休止。今日(こんにち)まで一切芸能活動を行っていない。
 


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