奥 の 間

     
8月1日  
ここは葦の家の「奥 の 間」でおます。

長いこと仕事一筋に頑張って、それなりに実績も上げてきたような
お人で、「葦の声」でも聞こか、てな、ま、気持ちにもユトリのある御仁
ちゅうと、こらぁ、滅多にいてはらしまへん。

まして、「奥の間」まであがろか、ちゅうのはかなりの大モノでっせ。
奥の間は、そないな心のゆっくりした御仁とはなしこむ所でおまんのや。

エッ、あんさん、間違うてはいったて? ま、よろしやおまへんか。
固いこと言わんと。なんぞの縁でっせ、ゆっくりしていきなはれ。

ハナシとしては、「葦の声」の続きになっとりまんので、よろしゅうに。

 

1c (12/00)  [葦の声 001]から分岐

      走る葦

長年、走り続けていると、やがてそれが快感を産むようにな

る。ランナーズハイというやつである。

いつでもどこでも走ることが主役となり、他の活動の価値はそ

の主役のためにどれだけ役に立つかできまる。そこには主役

と脇役の関係というより目的と手段の関係がある。それ自体

が崇高と思われる活動でさえ、「走る」という目的のための実

利的な手段に甘んじさせられる。自分の内側にそういう構造

が徐々に出来てくるのである。

やがて、走るのをやめて立ち止まることに、不安を感じるよう

になり、いいようのない恐怖感まで顔を出してくる。そして外圧

によって強制的に止められるまで走り続ける。

「そんなことはない、俺は違う」 そりゃ、勿論そういう方もおら

れないと困るのです。これは太郎丸のような凡夫の場合なの

ですから。

 
 はなしは飛ぶようだが、相変わらず政財官を問わず各界で

とんでもない事件が起こり過ぎだ。やりきれなくなりつい、水

戸黄門や桃太郎侍は何をしているのか、などとラチもないこと

を思ってしまう。

登場人物達の悪業と弁明の向こう側に、その薄っぺらな価値

観や倫理観が透けて見えるとき、心底こみ上げてくる怒りをど

こにぶちまけたらいいのか。

 だが、えらそうに他人のことを批判できるのかと、我が身を

振り返って自問しないわけにはいかない。この自分が悪名を

馳せていないのは、ひょっとしたら、単に巨大権力の座にいな

いから、というだけのことかも知れない。

お前の確たる価値観は、と問われて虚勢を張れぬでもない。

そこのけそこのけと経済原理だけが我がもの顔に往来する世

間のそれよりは、少しはましだという秘かな自負もなくはな

い。とはいえ、どれほどの違いがあろうか。

悲しいことに、あまり中身がないことは自分が一番よく知って

いる。やはり、走ることにかまけてそういうことはついつい怠っ

てきたのである。

生きていく上での大もとの判断基準みたいなものが価値観だ

とすれば、それと生き方との関係は紙の表と裏みたいなもの

だろう。価値観と言ってもよいし、人にとって真に大切なもの

は何かと言ってもよいが、とにかくこの手のことを問いつめる

気が萎えているのだ。そんなことを真顔で話題にできる場も

時もごく限られている。そんなものは全然ないといったほうが

正確かも知れない。

仲間といえば、仕事上か仕事を通じてのものが殆どすべてで

ある。そういう仲間とではお互いに憚られるのである。

経済原理から外れたこと、実利実益とは無縁のこととて、安物

の哲学じみたことに精力を使ってみたところで、何の役に立つ

のものかと袖にしつづけてきた。それでとうとう脳味噌がいび

つになって来たのではあるまいか。

もしそうだとすれば、人間はもはや「考える葦」などとカッコえ

えものではない。単なる「葦」か、せいぜい「走る葦」といったと

ころではないのか。

いや、あなたに限ってはそんなことはありますまい。

ひとり太郎丸の自省自戒にございます。
                                                                    (本文に戻る)

 ∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝

2c (03/01)  [葦の声 002]から分岐

  新たな疑問が芋づる式に

自然界の謎が一つ解明されると、すかさずその何倍も大きい

謎が現われる。こと宇宙についてはそれが際立っている。

宇宙の始まり、ビッグバン(BIGBANG)説を冷静に受け止め

てみると、誰でも心底から新たな疑問が湧いてくる筈だ。

  その一。

百二十億年前に宇宙が誕生したとしよう。では、その一秒前、

いや一瞬前はどんな状態だったのか。始まりがあるということ

は端があるということになるわけで、端のその前や先はどうな

っていたのか。気にするなと言われてもどうしても気になる。

  その二。

宇宙は爆発直後から今も膨張し続けているという。その膨張

の進んで行く先に余分のスペースみたいなものが用意されて

いるのだろうか。なければなぜ膨張していけるのか。あるとす

ればそれ自体はどうやって出来たのか。今ある宇宙とはどう

いう関係なのか。

  その三。

何かが爆発したというが、その何かとは何なのか。どこでどう

やっていつ出来たのであろうか。

それぞれ、「時」、「空間」、「物質」にまつわる素朴な疑問なの

だが、物理学者は悩んでいないのだろうか。聞きかじったとこ

ろ、普通の者には納得しがたい考え方があるようだ。

例えば、「時空の誕生」という厄介な考え方がそれである。


つまり百二十億年前の大爆発によって産み出されたのは

「時」と「空間」だというのだ。ビッグバンの前にはいわゆる

「時」は存在しない。「存在しない」というのではなく、経験から

くる感覚では捉えられない領域に入り込むということらしい。

もっと言えば、「時空」のスタートの一瞬前の「時」は数学的に

は虚数によって表わされるそうな。

虚数は高校数学で出てくる。二乗してマイナスになるアレ。受

験の物理や数学なら少しは自信があった太郎丸ではあるが、

虚数の高邁な真意となると今も昔も全く分かりはしない。

さらに、時と空間だけではなく物質も合わせて一セットになっ

ているというからますますもって厄介だ。

物質のないところに時空は存在せず。時空のないところに物

質は存在しない。時、空間、物質はセットになってビッグバン

によって誕生した。それが宇宙であるという。
 

これは哲学でもなければもちろん宗教でもない。最新鋭の物

理学が導き出した結論だという。

こんなことはにわかには納得も理解もできない。「それでも、

その前はどうなっていたの」と同じ質問を繰り返すことになっ

てしまう。

われわれの感覚とかものの見方とかは、産声をあげて何十

年、毎日の生活経験によって作り上げられてきている。

経験は、何度も何度も二者択一を繰り返して、ある特殊なケ

ースに小さく小さく絞リ込まれたものだ。その経験の産物たる

「感覚」や「見方」がある特殊な場合にしか適応できないのは

致し方あるまい。


世知辛い世渡り感覚しか持ち合わせがないから、こういう深

遠な世界に対しては、ひたすらその大きい門の下あたりでオ

ロオロするしかない。

その昔、小学生のボクは「今見えているのはすべて過去であ

る」と大天文学者から教わった。その新事実はボクに大きい

知的ショックを与えはしたが、わりとすんなり納得できた。

あのときとは違って「時、空間、物質」は較べものにならない

強敵だ。あたまが切り替わってなじむのに随分と時間がかか

りそうである。いや、おそらく生涯無理だろう。


宇宙の誕生や構造の解明には、例のアインシュタインの一般

相対性理論と量子論が素晴らしい貢献をしてきた。しかしそ

の理論といえどもビッグバンの一瞬後(例えば百億分の一秒

後)以降にしか通用しないそうだ。それ以前(?)のこととなる

と、かなう数学理論はあるのかないのか。よく分からない。そ

こでさらに新たな疑問が湧きあがってくる。


  その四。

そもそも「時」とは何ものなのか。

「時間がない」「時が流れる」「時間が経つのが早い」などと毎

日のように気安く使っているが、ほんとうに「時」とは何なの

か。ちなみに、時の流れる速度は「時速一時間」という笑えな

い笑い話がある。

古今、哲学者を悩ませ続けてきたこの謎は、最新の自然科学

にとっても飛びっきり手強い相手であることに変わりはないだ

ろう。

われわれは「時」は未来から過去へ流れるものと思い込んで

疑いはしない。こればかりは太郎丸だけでなくおたくも絶対に

そうだろう。
 

そのことは子供の頃から体験して知っていることなのだ。

逆に、これは経験というものが発想をきわめて狭いところに押

し込めてしまうという証しなのだそうである。

ほんとうのところ、「時」はどこからどこへ流れていくのか分か

りはしない。「もうすぐ春がやってくる」と言うが、春はどこから

やって来るのだろうか。その前の冬はどこへ行ったのか、消え

てなくなったのだろうか。

ここまで来ると「ついに悪い病気が出たか」そう思う人もいる

に違いない。
           
ケンブリッジ大学のホーキング教授は、条件によっては「時」

は逆向きに(つまり過去から未来へ)進むと明言している。

この宇宙が収縮に転ずることがあればそれは起こるという。

そこまで行かなくとも、宇宙のあちこちにあるブラックホールに

接近すれば、「時」の進み方は遅くなり、その中に入れば逆転

するという。
 

エエッ、ほんまかいな。気が狂いそうや。しかし学界では高く

評価されていて信憑性は十分あるといわれているそうだ。

少なくともわれわれが生きている間、普通の生活の場では、

そんなことは起こり得ないから心配無用とか。

ホーキング教授は一九四二年生まれ。ニュートン、アインシュ

タインと並び称される大天才ということだ。


  その五。

分からないなりに、ビッグバンが宇宙、時空の始まりだという

ことを信じるとしょう。だが、すかさず、それが一回目、はじめ

てのビッグバンですかという疑問が湧いて出てくる。

実は、何度も繰り返し起きているのではないのか。その内の

何回目かに、たまたま今のわれわれが出くわしていると想像

するのは無理なのであろうか。その想像が的はずれだとも的

はずれでないとも誰も証明できないのではなかろうか。


魂の輪廻転生の思想は、今を去ること三千年以上も昔、イン

ドのバラモン教が家元のようだが、宇宙そのものの輪廻転生

までは空想好きのインド人もさすがに思いつきはしなかっただ

ろう。もう、このあたりまで来ると、何でもありだからズブ素人

の太郎丸も楽しんで空想に参加できるというものだ。 

     ∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝

 人間の大脳皮質の能力は素晴らしい。

科学によって自然界の謎が次々に解明され、新しい技術が

開発されてきた。科学は素晴らしい。

だが自然は無限の未知だ。その前では科学は有限であり人

間は矮小だ。科学の手が届きそうなのは、どんなに大きく見

積もったところで、最新の物理学がやっと手がかりを掴んだこ

の宇宙という一つの時空に限られる。別の次元の時空なんぞ

へは金輪際、届きはしない。科学が進歩すればするほど、相

手はン億倍ものスピードで奥行きを深めていく。孫悟空の神

通力ごときではお釈迦さんの掌からさえも出られない。驕りに

おごった悟空はそれに気づきはしなかったのだ。

人間の中にも安モノの悟空が大勢いるに違いない。「人間は

万物の霊長」、「科学は万能」だと。

とんでもない。人間も科学もそんなエライ存在でありはしな

い。然を改造という名のもとに破壊する人達は論外として、自

治体などのポスターで「地球に優しくしてあげる」というのがあ

る。一見もっともらしい。しかしどこか変だ、ひっかかる。自然

や地球を格下の相手だとでも思っているのだろうか。こんなと

ころにも人間の思いあがりが顔をのぞかせているようだ。

           ∝∝∝∝∝∝∝∝ 

今日の哲学と宗教の低迷は世界的なものらしい。国内だけに

限ったことではないという。それが人類の不幸をまねき、将来

を暗くしているとの指摘が少なくない。

これまでの何千年、自然科学の発展を待つことなく、哲学と宗

教は「宇宙」を相手にもがいてきた。新世紀の哲学にせよ宗

教にせよ、最新の自然科学による宇宙の謎解きから孤立して

は説得力も指導力も持ち得ないと考えても独断にはなるま

い。悲しくも、「葬式仏教」と言われるまでに堕ちた日本仏教、

その大本営ではBIGBANGについての勉強会が行なわれて

いると聞く。


 稀代の仏教学者、中村元は今の日本仏教は一旦は滅びた

方がいいとも言い残して逝った。異能の哲学者、梅原猛は新

しい指導理念、哲学を組み上げるまでは死ねぬと言ってい

る。果たして、今世紀中に素晴らしい指導力のある新たな哲

学と宗教は現われるのだろうか。人類の存亡は、ここにかか

っているのではあるまいか。

            ∝∝∝∝∝∝∝∝

調子にのって、いささか話しが大きくなり過ぎた。

我々の多くは科学者でもないし、哲学者でも宗教家でもない。

普通の者にとっては「宇宙」はどんな意味を持つのだろうか。

ある種の人にとっては全く縁のないことだろう。「宇宙」なんぞ

に一生無縁であっても生活に障ることはあるまい。むしろ、そ

んなことに関わりあうことは時間の浪費でしかない。

別のある種の人は、自分の生きてきた場が一つの特殊な時

空であったことを感じる取るかも知らんし、それをきっかけに

今まで気づかなかった感覚とか発想が啓けてくるかも知ら

ん。自身が宇宙から産まれた自然の一部分であることを感じ

とるようになる人もいるだろう。生きているのではなく、生かさ

れていると感じ、「縁起」が分かるようになるかも知らん。

十人十色とは言え、人生も第三コーナにさしかかる頃ともな

れば、強くたくましくというだけでは物足りない。より味わい深

く生ききりたいと願うのが、普通の人情というものだろう。

「宇宙」発の遠く深い感慨も、その「味わい深く」に関わってく

る何かではあるまいか。

     ∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝

聖書の「人はパンのみにて生くるに非らず」は名言だ。

対するに「霞食らって命永らえる仙術に通じているわけでな

し」「宇宙を想ってみても腹の足しにはならぬ」という巷の言い

草にもなかなかの説得力がある。

長い間、懸命にパンを追っかけてきたようなものだ。ここで

悟った風な口は敢えてきくことはすまい。

だが、それではいかにも口惜しいから、あとで「それでも地球

は回っている」とでも呟くか。         (この項おわり)                                             

                          ⇒ 「葦の声」に戻る

3c (05/18)  [葦の声 003]より分岐

  犬は人間の友達

今、国内の飼い犬の数は950万頭。5世帯のうち1世帯が

犬を飼っていることになる。犬らしく暮らしている犬は、その内

どのくらいいるのだろうか。


犬が嫌いとか、怖いとか言う子供に出会うと可哀想に思う。

悪い親に育てられたのに違いない。(たまには良い親もいるが)

犬に限らず動物を、先天的に嫌いだという子供はいない。その

ことは学術的にも解明されている。

大抵は、親とりわけ女親の犬嫌いが、知らず知らずのうちに

自分の子供を犬嫌いに追い込んでいるだけのことだ。

好き嫌いや恐怖の対象は、0歳から3歳くらいの間に決まる

らしいから、いつものように学校のセイにすることはできまい。


近頃、盲導犬だけではなく介助犬も話題になることが多い。

犬が身近にいると、高血圧が正常になるとか、ボケの進行が

止まった、ガンの進行が緩んだ、などと いうような話もよく紹

介されている。

そういう役に立つとか立たないとか損得勘定も大事ではある

が、本当のところは、犬は人間の友達だということ、それだけ

で十分ではなかろうか。

犬と友達になる、それをきっかけにして、動物達と仲良くなる。

ひいては、生き物をいつくしむ心が幼い子供の意識の奥深い

ところ、潜在意識に根づくとすれば、こんなに素晴らしいこと

は滅多にない。

犬と仲良くできれば、この世の楽しみの幅はぐんと広くなる。

酒の楽しみは下戸には分かるまいが、酒がもたらす楽しみの

幅にも匹敵するだろう。

                        ⇒ 「葦の声」にもどる

5c (08/01)  [葦の声 005]より分岐

  都合の悪いことは「欠陥」か


 ◆◇番組「若年性健忘症」の中で、どこかの医科大学の

先生が第46野の機能異常を「コンピュータのプログラムの

バグと同じようなもの」という説明をしていた。

この表現は間違いか、少なくとも軽率であるというのが太郎

丸の直感だ。

プログラムのバグは元々ある欠陥である。たいていの場合

は事なきを得ているが、入力データの性格など、ある条件が

揃った時に発症する。

最初から内在している欠陥なのである。


 ◆◇人間は生体だから、そのハードもソフトも常に変化し

ている。その変化を起こさせる引き金の一つが「使用(不使

用)」ということだろう。若年性健忘症は「使用の状況」に応

じて、予め用意された一定のルールに従って生体が作り出

したものである。


 ◆◇使わない部分を萎縮させ消滅させていくという、自然

界のルールは、つまり、自然の摂理でしょうが。

人工(器械)による機能代行の結果、生体の機能が使われ

なければ、生体はその機能が要らなくなったと判断するのが、

それこそ自然であり正常ではないのか。

何処かの機能が使われないという理由で、そこが以前のよう

に作動しなくなるということは、我々にとっては確かに迷惑で

あり不都合なことだ。

だからと言って、それを相手側の欠陥と捉えるのは、一方的

で真理を見誤ることに繋がりはせぬか。

もし、生体は自然の摂理に従って正常な変化対応を実践し

ているのだ、という判断に立てば、見えている景色の奥行き

が深くなるのではなかろうか。


自分たちの知恵以前から存在する、そういうルールのことに

気が付かずに、勝手なことを人間はやっているわけでしょう。

その結果、ルールに従って応えたものを、自分に不都合だと

欠陥呼ばわりする。まるでガキ大将みたいである。どこか、

バランスが崩れていますわなぁ。


 ◆◇我々は、現代の(科学)教育によって、「人間の利益」

を軸にして外界を観る習慣を植え付けられている。

真理を探究するはずの学者の大部分も、その例外ではない。

「人間中心主義」と言ってもよい、この主義でここ数十年前

までの二、三百年の間は、(西欧は)ワリとうまくやってきた。

だが、これが天動説でないと誰が言い切れるだろうか。


いわば、「人間中心主義」という色のついた眼鏡を掛けて

モノを見ているわけだから、ときどき、錯覚が生じることに

なっても仕方がない。

一見して人間に不都合なことは、ついシステムの欠陥と見

なしてしまうなどというのも、生来の近視と色眼鏡のせいに

違いあるまい。その先のもっと濃い色眼鏡だと、「老」や「死」

もシステムの欠陥、バグだということにもなりかねない。

大きい体系全体から観たときには、それは欠陥ではなく、当

然のことかも知れないな、という感じ方、感性も合わせ持た

なければバランスがとれまい。

 ∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝

「人間の都合」しか考えてへんと、みんな自分の都合のエエ

ように変えてしもたろ、ちゅうことになりますわ。なんちゅうた

かて、人間の欲望は際限がありまへんさかいに、そら、当た

りマエダのクラッカーでんな。(これって、化石ギャグ)

それが、形として現れ出てきてるのが、環境破壊やし、遺伝

子操作、クローン人間、てなもんでんがな。

それに、「自然保護」ちゅうのが、これまたクセモンだっせ。

その看板あげてやってることで、よう観たら「破壊」やった、

いうのは身近に一杯ありまっせ。騙されんようにホンマに

気イつけなあきまへんな。


 ◆◇人間の活動の根元には、そいつらゼンブを取り仕切っ

とる根本の思想ちゅうのがおますわなぁ。

その根本思想がもうアカンのやおまへんやろか。

早い話が、耐用年数切れになってんのと違いまっしゃろか。


こと、日本は西欧モノを取り込むのが上手やさかい、後から

追いかけて、百年の間に先頭争いをするまでなりましわな。

力の源は西欧の技術、それを支えるのが西欧の科学思想。

その根底思想の何なんたるかは省みるヒマもなく、その旨

そうなとこ、果実だけをむさぼり食ったんやないか。というと

反省のし過ぎやちゅうことになりまっかなぁ。

えろう、小難しい話になりましたなぁ。暑さのセイでんな。

ご免やっしゃ。
                           (この項おわり)

                        ⇒ 「葦の声」に戻る

 ∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝