アントニオ猪木名勝負選 - その4 -


 おおぅ、前回の更新から4ヶ月近くも空いてしまいましたねぇ。ほんとに、更新間隔がでたらめですね(苦笑)。でも、忘れた訳ではないので、ご安心を。(誰が安心するんじゃ!とゆーツッコミ却下)

 さて、今回の「思い出の猪木名勝負選/プロレスリング編・第四回」を以て、猪木名勝負選シリーズは、ひとまず終わりになります。あと、猪木と言えば異種格闘技戦ということで、「思い出の猪木名勝負選/異種格闘技編」シリーズってのも、企画しているんですが、なんせ、このように更新間隔がバラバラですので、シリーズを始めてしまって、良いものかどうか、実は密かに悩んでいる次第です(苦笑)。当スポーツColumnは、猪木ネタのみの為に設けている訳ではない(多分...)ので、他のスポーツ関係だって、取り上げたい話は沢山ありますし...う〜ん、どうするべきか...

 てな話は一旦置いといて、本題へ戻ります。猪木名勝負シリーズの最後を飾る、ベストマッチ上位3試合の登場です。では、ごゆっくりどうぞ!
第3位:ボブ・バックランド戦(1978年6月1日、日本武道館/NWF・WWWF両認定ヘビー級選手権試合・61分3本勝負)
  ◎ 1本目=猪木(リングアウト、40分8秒)
  ◎ 2本目=(時間切れ)
 さて、猪木名勝負シリーズ/プロレスリング編も、いよいよ残り上位3番となりました。ここからの3番は、どれを1位にしてもおかしくない「これぞプロフェッショナル・レスリング!」の熱闘揃いで、順位を付けにくいんですが、あくまで私の独断で順位付けをしました。第3位は、『レスリングの申し子』と呼ばれた、『超新星』ボブ・バックランドとの、この一戦です。

 バックランドは、この年(1978年)の1月に、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで、時のWWWF認定ヘビー級チャンピオン、『鉄腕』スーパースター・ビリー・グラハムを破って、若き新チャンピオンになっており、そのベルトを引っさげての初の日本上陸(注*1)。ちなみに、当時のWWWFと言えば、NWA、AWAと並んで、全米3大タイトルの一つと言われた、一応メジャー・タイトルなんですが、スーパースター・ビリー・グラハムなどは、腕力・怪力だけのでくの坊で、レスリングはろくにできない選手だったので、そういう選手がチャンピオンであれば、猪木との対戦など(猪木の方が実力で一枚どころか二・三枚上なのは明らかなので)、見たいとも思わなかったでしょう。ところが、怪力型レスラーの好きなWWWF地区(ニューヨーク周辺)に、それまでと毛色の違う本格的レスリングの名手が、チャンピオンとして登場してきました。こうなると話は違ってきまして、私などは、一ファンとして、この若きストロングスタイルの旗手(注*2)バックランドと、円熟の域に達しつつある猪木との対決を、是非見てみたくなりました。その思い は、あっさり叶いまして(当時、新日本プロレスとWWWFは提携関係にあったので、選手の行き来は容易だった)、バックランドが、MSGシリーズの後半戦に特別参加が決定。チャンピオンとしては初の来日で、しかも最終戦で猪木とダブル・タイトルマッチを行うと言うじゃありませんか。私は、涎がでそうなくらい嬉しかったですね。

 と言うのも、この当時、猪木はいわゆる「格闘技世界一決定戦シリーズ」に(本人の好むと好まざるとに関係なく)意識が向いており、本業のレスリングのほうでは、ビル・ロビンソン戦以来3年近く、本格派の強豪との対戦がありませんでした。それが、ここで、久しぶりに猪木が燃えるに値する、本格派の超大物との対戦が決定したのですから、一ファンとしては、期待するなと言うほうが無理というもの(笑)。バックランドは、来日初戦で、(当時からテクニシャンとして有名だった)木戸修を、レスリングで適当にあしらい、最後はいとも簡単に原爆固めでピンフォール。その実力ぶりを見せつけられると、猪木との初対決への期待は、ますます高まりました。(この時、猪木35歳、バックランド27歳。)

 猪木−バックランドの初対決は、猪木のNWF、バックランドのWWWFの互いのタイトルを賭け合って行われ、期待に違わぬ熱闘になりました。両者ともレスリングの名手ですから、どのあたりで、どんな技が出たかは、いちいち覚えてません(苦笑)が、ともかく、バックランドのアマチュア・レスリング的テクニックが素晴らしかったのは、良く覚えてます。何しろ、バランスが良い。アトミック・ドロップにしろ、ブレーン・バスターにしろ、原爆固め(ジャーマン・スープレックス・ホールド)にしろ、的確にピタッと決めてくる。並のレスラーの試合をよく見ていると、こういう(実は難度の高い)技は、バランスを崩してることが圧倒的に多い。バックランドは、地味な技も派手な技も、仕掛けたら必ずバランス良く決めてました。やはり、超一流レスラーです。ただ、猪木も超一流ですから、プロとしてのキャリアで断然勝る分、猪木のほうが試合の流れはリードしてましたが。

 一本目は、試合駆け引きの巧さで勝る猪木が、「こいつからピンフォールを取るのは難しい」と判断したか、場外へ両者転落した時に、隙をついてリング下でバックドロップ。バックランドがダウンしてる間にリングへ滑り込み、リングアウト勝ち。二本目は、一本目を取って勢いに乗る猪木が、バックランドを攻めまくり、メジャー・タイトル(WWWFヘビー級)奪取に執念を見せましたが、バックランドは驚異的な粘りで、猪木得意の弓矢固めも卍固めも、必死で返す。特に、当時猪木の必殺技だった卍固めを、ロープまで引きずって歩き、脱出したバックランドの粘りは(背筋力の強さも勿論あるが)、メジャー・チャンピオンの意地が支えてたんでしょうね、きっと。最後は、時間切れ。

 スコアの上では1−0で猪木の勝ちですが、「2フォール勝ちでなければタイトルは移動しない」というWWWFルールにより、タイトルは移動せず。バックランドは辛くもタイトルを防衛しました。(勝った猪木は勿論自分のNWFを防衛。)この時の「負けてタイトル防衛」の屈辱が、バックランドには耐えられなかったとみえ、試合後早速猪木側に再戦を申し入れ、早くも約2ヶ月後の7月28日には、場所も同じ日本武道館で、猪木−バックランドの再戦が行われています。この時はバックランドのWWWFタイトルに猪木が挑戦するという形で、結果は一本ずつ取り合った後、時間切れ引き分け。バックランドは引き分けでタイトルを防衛しています。この試合も好試合でしたが、私はやはり、この初対決の時の新鮮さの印象が強いので、6月1日の試合の方を両者のベスト・バウトとして選びます。

 尚、いささか余談ですが、その後を含めて、バックランドはトータルで約6年間WWWF(後にWWF)チャンピオンとして君臨しますが、WWF首脳との対立から王座を追われ、一時引退してましたが、1991年に、前田日明らの主宰するUWFに、久しぶりに来日しましたね。その時は、UWF代表者決定戦を勝ち上がった高田延彦とシングルで対戦し、最後はチキンウィング・アームロックという、いかにもUWFらしいセコい技でギブアップさせられました。(この時バックランド40歳。)全盛期のバックランドを知ってる者からすれば、高田ごときに負けたのは、非常に残念です。この「名勝負シリーズ」で書く趣旨ではないので、ここで詳しくは書きませんが、私は当時流行だった(じきに崩壊したけど)UWFスタイルは、プロフェッショナル・レスリングとしては認めていません。(←この件については、またの機会に詳細に述べるつもりです。)理由を簡単に言えば、去年(1997年)、高田延彦がヒクソン・グレイシーに短時間で完敗したのを見ても分かるように、当時のUWF系レスラーなんて、「ファイト・スタイルが一見真剣勝負に見える」だけで、実態は、新日本や全日本のトップ・クラスには到底及ばない実 力だったからです。(但し、前田日明だけはメジャー団体でもトップを張れるくらいの実力だった。)

(注*1)バックランドは、1974年に、全日本プロレスのほうに来日してるらしいのですが、この当時はまだプロ転向後まもない無名に近い新人であり、全く話題にもならなかったようです。
(注*2)バックランドは、アマチュア(学生)時代はAAUで4連覇の偉業を達成してますし、プロ入り後はドリー&テリーのファンク兄弟の開く道場(俗に言うファンク道場)やカール・ゴッチ道場で鍛えられた、筋金入りの本格派レスラーであり、この当時は「これからのアメリカン・プロレスを変える男」とまで言われていました。
第2位:ビル・ロビンソン戦(1975年12月13日、蔵前国技館/NWF認定世界ヘビー級選手権試合・60分3本勝負)
  ◎ 1本目=ロビンソン(逆さ押さえ込み、42分53秒)
  ◎ 2本目=猪木(卍固め、16分19秒)
  ◎ 3本目=(時間切れ引き分け)
 猪木名勝負シリーズ/プロレスリング編も、残り2番とあいなりました。第2位は、『大英帝国最強の男』、『人間風車』ビル・ロビンソンとの、最初で最後のこの一騎打ちです。

 さて、ビル・ロビンソンと言えば、この当時既に、米国ではAWA圏のリング、日本では国際プロレスのリングで活躍する、超大物の「国際プロレスの外人レスラー」でした。実際、国際プロレスの春の本場所、IWAワールド・シリーズでは日本人レスラー(サンダー杉山など)を押さえて優勝を飾ったこともあったはずで、押しも押されぬ国際プロレスの看板外人レスラーでした。この当時の(腰を痛める前の)ロビンソンは、ヨーロッパ出身ならではの、速くて鋭い本格的なスープレックスの使い手(注*1)であることから、『人間風車』の異名を取っていました。

 そんなロビンソンですが、日本に於ける戦いの場が国際プロレスであった為に(早い話、日本人レスラーにロビンソンと互角に戦える本格派実力者がいなかった為に)、外国人実力者同士のマッチメーク(例えば対カール・ゴッチ、対バーン・ガニア)のときぐらいしか、その実力を存分に発揮できなかった印象が、強くあります。(この当時の国際プロレスの日本人選手、サンダー杉山とかグレート草津とかラッシャー木村とかストロング小林とか...には悪いけど。)レスリング・スタイルから言っても何から言っても、「ロビンソンは猪木と戦うべきだ!」と、私はずっと思ってましたので、この1975年(昭和50年)に、「ロビンソンが猪木と初対決」という報道が流れたとき、思わず「やったぁ〜」と喜んだものでした。(この当時私高校生でしたが(苦笑)。随分単純でノーテンキな高校生だったもんだ。あ、ノーテンキは今でも変わらないか(爆))ちなみに、この時、猪木32歳、ロビンソン35歳です。ロビンソンがその後、腰を痛めて本来の技の切れ味を失っていったのを考えると、この時が全盛期の最後だったと(結果的に)言えるでしょうね。

 尚、少し本題から外れますが、この猪木−ロビンソン戦が行われたこの日、ライバルの全日本プロレスのほうも、日本武道館で「オープン選手権」の決勝戦ほかが、華々しく行われました。(結果は馬場が優勝。)参加外人レスラーの質・量は圧倒的に全日本プロレスのほうが上(注*2)でしたが、私は猪木に、「ロビンソン相手に、『これぞプロレスリング!』という試合をやって、新日本プロレスの意地を見せてくれ」と願ったのを、今でも鮮明に覚えています。

 さて、蔵前国技館のほうでは、立合人にルー・テーズ、カール・ゴッチの両巨頭を招いて、厳粛な雰囲気の中でゴング。1本目から、激しい腕の取り合い、足の取り合い、首・バックの取り合いと、とにかく両者休まずに相手を攻める。これも、1段落前のボブ・バックランド戦と同様、どこでどんな技が出たか、詳細には覚えていません(苦笑)が、ただ、どこかで、ロビンソンがジャーマン・スープレックス(原爆固め)を繰り出したのは、覚えています。惜しくも、3カウントは取れませんでしたが、「ロビンソン、ジャーマンも使えるのか」と驚いたものです。それを、原爆固めの元祖、カール・ゴッチの目の前でやってみせるあたり、ロビンソンの並々ならぬ気迫をはっきり感じたのでした。

 とにかく、30分を過ぎても1本目の決着が着かず、「いつになったら、1本目が決着するんだ?どっちが先制するんだ?」とドキドキしてきた頃、とうとう、ロビンソンが自身の代名詞でもあるダブルアーム・スープレックスで、猪木を投げ飛ばす。このスープレックスのダメージ自体は、受け身の巧い猪木にはそれほどでもなかったようだが、これで猪木はロビンソンの投げ技を警戒してしまい、ロビンソンがもう一発、(何を狙ったかは分からないが)投げの体勢に入った時、それを防御しようとして猪木が踏ん張ったところを、逆にカウンターの逆さ押さえ込みで、見事3カウント。猪木は裏をかかれた形で先制され、呆然。この時、既に43分近くが経過しており、残り時間は17分ちょっと。2本目は、逃げ切りを狙った(?)ロビンソンが、余り積極的に攻めてこなくなり、追う猪木に焦りの色が見えてきたが、残り時間が2分を切ったあたりで、ロビンソンがバランスを崩した一瞬の隙に、とうとう、卍固めに捉える事に成功。ロビンソンもしばらく粘ったが、とうとうギブアップ。これで1−1のタイになったけれど、この時点で残り時間は48秒。この短時間で3本目の決着が着こうはずもなく、 3本目はあっと言う間に時間切れ。猪木の引き分け防衛でしたが、内容的にはロビンソンが終始リードしていた印象が強い。まさに全盛期の『大英帝国最強の男』の面目躍如でした。

 結局、ロビンソンが猪木と対戦したのはこの一回こっきりで、翌年にはロビンソンは全日本プロレスのリングに上がり、馬場と対戦して(馬場の保持するPWFヘビー級タイトルに挑戦)、1−2で敗れています。これを以て「馬場の方が猪木より強い」とは勿論言えない訳で、何故なら、対猪木戦では、ロビンソンは持ち味を存分に発揮できましたが、対馬場戦では、実に戦いにくそうだったからです。スピードもレスリング・スタイルも、ロビンソンと馬場とでは違いすぎて、「勝った負けた」は、あまり意味を持ちません。

(注*1)腰を痛める前のロビンソンのダブルアーム・スープレックス(それ以外のスープレックスも)は、低くて速い、いわば「キレの鋭い」投げ方でした。相手は首か肩からマットに叩きつけられる形であり、あの切れ味ならば、一発でピンフォールを奪うことも、当然可能だった。腰を痛めてからは、高くて遅い、「ドッスンと落とす」ような投げ方になって、相手の落ち方も背中からになってしまい、とても「一発必倒」の破壊力はなくなってしまった。
(注*2)全日本プロレスの「オープン選手権」には、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、ディック・マードック、パット・オコーナー、ホースト・ホフマンといった超豪華な外人レスラー陣に加え、日本人でもフリーのヒロ・マツダなどが参加しており、実に豪華な祭典となっていた。この「オープン選手権」では、全日本プロレス側から猪木側に(多分最初で最後の誘い?)「枠を開けておくから、参加してね」と呼びかけて、物議をかもしたのも、今となっては妙に懐かしい。
第1位:ドリー・ファンク・ジュニア戦(1969年12月2日、大阪府立体育会館/NWA世界ヘビー級選手権試合・60分3本勝負)
  ◎ 1本目=時間切れ引き分け
 猪木名勝負シリーズ/プロレスリング編、栄光の第一位は、既に30年近くも昔の試合でありながら、未だにその名勝負の輝きを失っていない、『テキサスのサラブレッド』ドリー・ファンク・ジュニアとの、この初対決です。おめでとうございます。パチパチパチ。(←拍手。って、誰に拍手してんじゃ(爆笑))

 ドリー・ファンク・ジュニアは、この年(1969年、昭和44年)の2月に、時のNWA世界ヘビー級チャンピオン、『荒法師』ジン・キニスキーを破って、若干26歳で新チャンピオンになっていました。当初は、その風貌が何となく頼りなげだったのもあってか、「多分短命チャンピオンだろう」と言われていましたが、その後並みいる挑戦者をことごとく退け、世間の風評も変わり始めた頃の年の暮れに、チャンピオンとして待望の初来日を果たしました。この時は、父親のドリー・ファンク・シニアがセコンドとしてぴったり付き添っての来日で、口の悪い一部マスコミは、ファンク・ジュニアを「シニアの操り人形」と呼んだりして、何だかとても「世界最強のレスラー」というイメージからは、ほど遠い感じでした。(この時、私は小学4年生で、それより以前に、ディック・ザ・ブルーザー、フリッツ・フォン・エリック、ボボ・ブラジルといった、「見るからに恐いレスラー」=「強いレスラー」というイメージが強かったので、それと対比して、ドリーのいかにも普通の人っぽい風貌は、あまり強そうには見えなかったんですね。私も、まだガキでしたね(笑))

 ドリーがチャンピオンとして来日した目的は、当時の日本プロレスの二大エース、馬場と猪木の挑戦を受ける為でした。日本プロレス幹部は、結局、大阪で猪木をまず挑戦させ、その勝者に蔵前で馬場が挑戦するというスケジュールに決定しました。これは、当時子供だった私でも分かりますが、要するに「メインは馬場、猪木は前座」的な色合いが強いことが、はっきり分かります。(日本プロレス幹部は、猪木がNWA初挑戦でタイトル奪取に成功し、「猪木がチャンピオンとして馬場の挑戦を受ける」(つまりは、馬場と猪木の序列がひっくり返る)構図になる可能性など、全く考えてなかったでしょうね。)その、馬場の露払い的な扱いだったことが、猪木を逆に燃えさせたようで、「よーし、それなら自分がNWA王者になって、馬場さんの挑戦を受けてやる」と奮い立ったようです。(←このことは、後に猪木自身がそう語っています。)この時、猪木26歳、ドリー27歳。両者とも、若さの勢いが最もある頃です。

 そんな背景があって、いつも以上に燃える気持ちでいた猪木ですが、不運なことに、この試合の数日前に、猪木は試合中に左手薬指を骨折してしまい、このドリー・ファンク・ジュニア戦当日には、痛み止めの薬をうち、中指と併せてがっちりテーピングしての出場となりました。(このことは、当時のTV中継のアナウンサー(確か舟橋慶一アナ)が、言っていました。)見かけの風貌はともかく、仮にも世界最高峰、NWAの世界チャンピオンに挑むには、あまりに大きなハンデではありました。しかも、セコンドには老獪なドリー・ファンク・シニアが就いていますから、そのハンデを見逃すはずはありません。

 超満員の大阪府立体育会館で、開始のゴングが鳴ると、案の定、セコンドは、すぐに猪木の左手のテーピングに気付き、しきりにドリーに「左手を潰せ」というアドバイスをとばす。そのアドバイスを受けて、本来ならパワーファイターでないドリーが、猪木に手四つの力比べを仕掛けてくる。(左手に力が入らない猪木は、手四つの力比べで、脂汗を流してこらえていたのが、印象に残ってます。)しかし、そういう戦術的なものはあまりメインではなく、本来が両者とも「レスリングの名手」ですので、じきに本来のレスリングの攻防になる。バックを取ると見せて腕を取りにいき、更に相手がそれを見透かしていれば、腕から足に切り替えて、更に相手がそれの防御姿勢に入ればすかさず首に切り替える。そういう、地味ながら高度な返し技の応酬が、続く。しかも、グランド・レスリングなんだけれども、両者とも、全く動きが止まらない(注*1)。更には、スタンド・レスリングでも、ドリーのサーフボード・ホールドを猪木がカンガルー・キックで跳ね返し、逆に執拗なテキサス・ブルドーザーでドリーを引きずり回すなど、とにかく両者とも動きが止まらないもんだから、 全く目が離せない。そういう攻防が続く。

 60分3本勝負で行われたこの試合、あれよあれよという間に、40分、50分が過ぎたけれど、まだ1本目の決着が着かない。「これは、ひょっとしたら、1本目を取った方が、2本目を逃げ切りで勝てる展開かな?」と私も思い始めたけれど、それでもまだ1本目がどちらも取れない。50分を過ぎてからは、ドリーが(ビル・ロビンソンから盗んだという)ダブルアーム・スープレックスやバックドロップといった、投げ技の大技でケリを着けようとし始め、猪木のほうは、逆にコブラツイスト一本に絞って、ギブアップ勝ちを狙う。残り時間が少なくなるほど、猪木が執拗なコブラツイスト攻撃で優勢に進めるが、身体の柔らかいドリーは、苦悶の表情ながらも、その都度ロープへ逃げる。何度目かのコブラツイストが、とうとうリング中央で決まった時、時間切れを告げるゴングが館内に鳴り響く。

 結局、3本勝負を、両者とも1本も取れないまま、時間切れになるという、異例の試合(注*2)終了。時間切れのゴングが鳴った時、(コブラツイストが決まっていたので)一瞬、「えっ、ドリーがギブアップしたのか?」と思った観客も、リング・アナウンサーが時間切れ終了の旨を告げると、少し間をおいてから、万雷のような拍手がわき起こった。考えてみると、両者1本も取れなかったという事は、結果的には、両者60分動きっぱなしだったという事(何しろ、フォールを取ったまたは取られた後のインタバルの休憩がない)で、そのスタミナは驚異的です。例えば、マラソン・ランナーは2時間以上走り続ける訳だけれど、彼らの体重は50kg前後。ドリーや猪木は100kgを越える体重で、1時間激しい攻防を繰り返したのだから、まさにマラソン・ランナーと比較しても遜色ないほどの、スタミナだったと言えないでしょうか。

 尚、猪木戦を引き分けでタイトルを防衛したドリーは、この翌日、蔵前国技館で馬場の挑戦を受け、1−1から時間切れ引き分けで、タイトルを防衛しています。2日連続で、60分時間切れの試合を、けろっとやってのけるドリー・ファンク・ジュニアのスタミナには、感服しました。

 そのドリーは、翌年(1970年)もチャンピオンとして来日し、福岡スポーツセンターで、猪木の再挑戦を受け、この時は1−1から、またも時間切れ引き分けで、タイトル防衛に成功しています。この試合も、好試合でしたが、やはり、初対決の、しかも0−0で時間切れ引き分けという、それまでになかった(少なくとも私にとっては)終わり方をしたこの試合の印象が、とても強いので、この試合を、猪木の対ドリー戦のベスト・バウトとして選んでおきます。猪木対ドリー・ファンク・ジュニアのシングル対決は、実はこの2度しかありません。1971年の暮れには、3度目の対戦が内定していながら、その直前に猪木が試合を欠場(表向きは病気、実際はクーデタ首謀者として日本プロレス追放が決まっていた為)した為に、対戦が流れてからは、ついにその後対戦する事はなかったですね。

 尚、いささか余談になりますが、最近流行のアルティメット大会とか、その亜流のパンクラスといった団体。彼らは、「本物の真剣勝負」を標榜していますが、相手に(正面から、またはバックから)馬乗りになって、相手の顔面をタコ殴りに殴る事が、真剣勝負なんでしょうか?そんなのは、街中の喧嘩、チンピラの喧嘩、ストリート・ファイトであって、真剣勝負とかいうものとは別次元の話だと思います。(あ、そうか、だからアルティメットの出場選手やパンクラスの選手って、ごく一部を除いてチンピラみたいな顔立ちの連中ばかりなのか。納得(爆笑))猪木やドリーのような、超一流同士が、互いの力と技を駆使して、何とか相手をねじ伏せようと試みる。そういう美しさのある勝負が、本来の意味の「真剣勝負」だと、私は思います。(別に、プロレスリングに限った事ではなく、ボクシングでもムエタイでもそう。)ああいう試合を評して、「でも所詮八百長でしょ」などと言う評価しかできない人は、気の毒ですが、芸術の分からない、心の貧しい人と言わざるを得ませんね。

(注*1)この当時、グランド・レスリングの状態に入ると、「やれやれ、どっこいしょ」という感じで、攻め側も守り側も一休みする、ということがよくあった。(早い話が手抜き。)だから、当時は、グランド・レスリングはあまり観客には歓迎されない傾向があったと思う。
(注*2)3本勝負が、1本も取れないまま時間切れになった試合は、これより12年前(1957年)、後楽園球場で行われた、ルー・テーズ−力道山戦があった(らしい)が、その時私はまだ生まれていません。