拝啓・教育委員長殿
柔軟性をうしなっている教育制度

【月見草出版へ】



                       平成二年一一月二六日
 喬木村教育委員長 〇〇〇〇殿
                   公民館運営審議委員 下平好上
    教育関係団体懇談会へよせる私の所信

 別紙開催通知を受けとり、村の将来にとって教育こそ何をおいても重要な懸案であると思っていたので、全般にわたらないにしても所信をまとめてみました。
 (二つの立場)
 その一つは、ご通知にあるように「各機関の活動報告および情報交換によりお互いの理解を深め教育向上の一助にしたい」という立場、簡単にいえば連携の立場で会合をもちたいということであり、
 もう一つは「学校教育がゆがんでいる」という現代的認識が根底にあって連携の立場という名義で懇談会がひらかれる、という二つが考えられます。
 [連携の立場]第一の立場
 通知の文面通りだとしますと、何を期待しての会合なのかその意図が汲みとりがたいと思います。各機関の分担分野の見直し、修正ということであるなら、特別たいした課題ではないと思われます。だとすれば、文書のように「教育関係機関が集まり云々」とあるから、そのかなめの役は教育委員会にあります。果たして七つの代表機関の懇談会で、どれ程の成果が期待されるのだろうか、あらずもなの会合だとすると疑義が残るのではないかと思います。従って通知の文面通りの会合だとしますと、それはそれとして今回の会合を踏み台にし、今後の喬木村の教育構想を樹立するという、なんらかの英断を下すべきだろうと思います。
 [学校教育課題の立場]第二の立場
 二つめの立場「学校教育がゆがんでいる」という認識から懇談会をもつとすると、問題は俄然多いことに気づきます。そこで懇談会の性格がこのようだとすれば、まず@現状をどうとらえ、どのようにしたらいいのかを念頭において、そのためのA改善点は何かを求め、各自対策をだしあい協議するという方向で自分の考えをまとめたいと思います。
 [現状のとらえ]
 まず現状の問題点を整理しなければなりません。できるだけおおざっぱにするために、知・徳・体の三つから突出したものを挙げるとしますと、それは学力の問題、非行の問題、体力の問題といっていいと思います。
 どこがおかしくてそうなったのだろうか。その原因の根源は一言でいえば「学校教育の硬直化」だろうと私は考えています。
 一つは教育行政のしくみの欠陥と、自分たちの体質に残っている官僚指示受入れ気質だろうと思います。まず教育行政のしくみの欠陥ですが、第一に教育者の権利義務といいますか「権限と責任」が不明確になっていることを挙げなければなりません。本来教育者は児童生徒に全責任を負わなければならないものであり、児童生徒に責任を問わせることは不可能であるため、村立学校ゆえに市町村の教育委員会が児童生徒に代わって教育者の責任を問わなければならないと思います。教育者は自分がおこなう教育活動の方針や計画にかかわる所信を教育委員会に明らかにしその所信を実践しなければならない筈でありましょう。そこでは討議激論があってよいのですが、一旦きまった限り他から口をはさむ余地はなくていい筈であり、教育者は児童生徒に責任をもち、教育委員会との関係において教育の権限をもつのが本来のものでありましょう。だからこそ、教育は極めて大切な機能を果たす機関だからこそ、教育委員会の地域の教育に対する大きな責任と権限があったのでありましょう。それは明確ではなかったにせよ、戦後アメリカから導入された制度の本意であったと思われます。制度の趣旨はそこにあった筈だった。ところが今はどうだろうか、教育者の任免はすべて長野県教育委員会の人事通知書一枚でことたり、初任者は「欠格条項非該当申立書」を長野県教育委員会殿として提出するだけでことたりるだけでしょう。勿論教育者の多くは、そんなことに関係なく身命を賭して勤務地での職責を果たしていますが、地域独自の学校教育の改善振興はなく、一律のシステムだから一村独自の変わりようも少ないのです。だから時代に順応する弾力性に乏しく、教育社会の変化は教育社会以外の動態によって変わっていく宿命のようなものを背負わされているといってもいいと思われます。
 教育行政のしくみの欠陥の第二は、市町村教育委員会の権限が失われたことです。戦後発足した当時は、一般行政の責任者としての市長村長が住民の選挙によって選出されたと同じく、教育行政の責任者として市町村教育委員長は住民の選挙によって選出された。教育行政の方向は住民の意思を反映できる仕組みであった。教育というものが、将来の生活に大きく影響をもつものとして重要視されてできた制度であったからだろうと思います。たとえその制度がアメリカからの「強いられた導入」だったにせよ、その願う精神は素晴らしいものでありました。市町村教育委員会の権限を県に委譲し統合したのは、実に重大な誤りであったといわなければならない。
 ついでながら、戦後の教育改革は、市町村教育委員会の設置とともに、六三制と男女共学、年間授業日数二一〇日指向の五日制が主たるものでした。こんにち残っているものは六三制男女共学のみであります。なぜアメリカの占領政策のなかでこれらのものが導入されたのだろうか。詳細は調べないとわかりませんが、およそこうだったと思います。簡単にいえば戦前の日本の方向、言いかえれば軍国主義といわれる独裁的な全体主義の気風が強い、即ち当時のことばでいえば、帝国主義的になりやすい国情を、一筋縄にいかぬ国情即ち民主主義といわれる多数の意見を無視できない自由発言ができる制度、その制度の一環としての地方分権として教育権の地方分散を導入したのだろうと考えてよい。
 学校教育の硬直化のもう一つの理由は、行政上において官僚指示を受容する体質を自分たちがもっていることだと思います。フランス革命のごとく自ら苦労して自由平等を手に入れたものではなかっただけに、自由権としての地方教育権限をまことに安易に上級官庁に委譲してしまった事実がそのことをよく物語っていると思います。あくまで日本流で少しずつ良くなればいい式の、悪くいえば、個人の自由権を主張しない、抵抗より無抵抗の、寄らば大樹式の、戦前の苦しい生活の中から身につけたしぶとい処世術ゆえだろうと思います。市町村教育委員会が人事権、行政権の委譲をしたため市町村の独自性が失墜し、一方、上級官庁の規則の拘束がますます罷り通るという、そしてまた改革を主張する意見があったとしても体制のおもむくままを肯定的に認める、そういう体質が定着してしまったように感ずるのであります。学校の硬直化は組織の上でも、運営の上でも、財政の上でも進んでしまい、柔軟な対応力を失ってきているといえるのではないかと思います。このような結果になるとは夢にも知らず、私たちは今日に至ってしまったのではないかと思います。
 現状の教育課題の主たるものが、学力、非行に象徴されているとしたとき、それは時の流れに即応できない学校教育の硬直化にあると考え、その経過や問題点はおよそ以上のとおりではないかと私は考えております。
 [学校の硬直化に対応した人の心]
 こうした状況のなかで、人の心はどのように対応したのだろうかを、私なりにその現状を挙げてみます。戦後スタートした新教育の方向が漸次変化してきたなかで、学校教育はなるべくして現状の姿になってきたと判断するとき、人の心の対応として現在の現象を考えていくことがいいと思います。  まず現状の姿は、よってきたる理由を別として、一つには「児童生徒のゆとりのなさ」を挙げたい。二つめとして所謂「校則のしめつけ」、三つめとして「家庭での躾の低下」、以上の三つにまとめたい。いろいろの項目を挙げることができますが、この三つに集約してみました。この三つは児童生徒を四方から取りかこんでいます。ですからこうした状況の中にあって、児童生徒はなお指導と名のつく角度づけで引っぱられ、学力低下とか非行をせおって毎日を歩むことになってきております。これらの現象として周囲への反発、反抗、自己主張のいじめ、或いは暴力行為、家庭或いは社会に対する不信や自己逃避としての家出、集団非行など、いろいろの形をとおして、自己をとりまく環境に必死になって抵抗していると私は思います。端的にいえば、子供への圧迫、強迫が自分をとりまく他への反抗、爆発になっているのであって、その責は子供にではなく、子供をとりまく環境すなわち両親、先生、社会機構全体が負わなければならないといえましょう。
 こうした状況下での教育は長く続くわけがありません。公教育への不安、不満というものは私学希望者の増加、私塾の増加としてあらわれており、これは自然のなりゆきであると言わなければなりません。公教育ではそうそう早く方向をかえることは難しいことを誰も知っているからだろうと思います。長野県教育委員会の管理課指導主事ですら、たとえば学力低下についての個人的見識すらもっていないようにおもわれます。簡単にいえば、学力低下の問題を教室の教師の指導如何、或いはその学校の指導体制如何にかかわるものとしてとらえております。こんな有様ではいっこうに埒があかないことは一般社会人のほうがとっくに解っておることと思います。このたびの学力低下の問題にしても、県内企業家の指摘、要請があって、はじめて教育界の重要課題としてクローズアップされた経過であるのに、県教委の指導的立場の先生ですら、ことの重大さがわかっているとは思われません。ある意味では私立の教育機関をもっと積極的に啓発すし、公教育の気づきに迫る必要があるといえましょう。教育委員会ではどう考えますか。
 [改善点は何か]
 こうした教育の現状や要因を検討し、「現状のとらえ」をはっきり位置づける作業がすめば、次は「改善点は何か」を求めなければなりません。
 まず基本的な立場として、教育経験の深浅、有無をとわず、年齢の上下如何をとわず、役職の上下如何をとわず、教育のあるべき姿を筋道たてて求めなければならないことが一つ。それに教育界の指導者のなかに、まだ学校教育は人づくりだといって現状改善に行動的対処をせず、耳を傾けない人がいることである。それでは学力も低く、非行も解決できないのに気がつかず、人と人の関係においてのみ解決しようとしている人がいることに注意すべきでありましょう。私は基本的な立場として「知と行は相関する」ということを中核にして考えを進めるべきだろうと思っております。「知行相関」は一つの事実であり哲学としての事実である、こういう考えを根底に据えて考えを進めなければなりません。この根底になる命題を検討し弁えていませんと、いろいろとこんがらかってきやすいと思われます。改善点を考える場合、以上の条件と教育哲学を備える必要があります。

 [学力の低下][児童生徒のゆとりのなさ][躾の低下]解消のために

一 教育委員会の権限はどこまで拡張可能か、研究されたい。
 ・日課についての注文、指示はできないのか。(人の声の反映を含めて)
  早朝から暗くなるまでの日課は異常である。児童生徒への暴行、精神
  衛生その他の安全保障は誰がするのか。(個々の親には殆ど相談もな
  い)
 ・教師の暴力について、保護者や地域住民の意見要望、児童生徒の意見
  要望を聞き教育委員会の調査、指導、監督についてのルートを研究さ
  れたい。(暴力行為だけでなく教育全般について、学校、地域の英知
  を徴し、運営策定の衝にあたるのは市町村の教育委員会の本来の役目
  だと思います。)

二 教育の本来あるべき姿を研究されたい。
 ・市町村教育委員会の責任範囲は小中の義務教育学校だけにかかわる分
  野だけではなく、保育園もっといえば0歳児を含める分野と思います。
  法律は別として検討していただきたい。
 ・知行相関の立場から、幼少時からの知育の望ましい教育の在り方を研
  究し、指導力を発揮して実践に移していただきたい。(この項目は知
  育偏重という言葉で簡単に拒否されやすいので、日本及び諸外国の各
  種研究の現状を十分調査、研究し、検討を重ねて、すくなくとも四〜
  五十年の風雪に耐える論理をつくりあげる見識が求められると思いま
  す。)
 ・知行相関の立場から、幼少時からの徳育の望ましい教育の在り方を研
  究し、指導力を発揮していただきたい。一般的には「躾の低下」と呼
  ばれていますが、「子供は親に似て育つ」という、或いは「人の子に
  鬼子はいない」とか「後姿を見て育つ」という素晴らしい諺を、その
  真意を明らかにし実生活にどう生かすか、要諦とかプログラムをつく
  っていただきたい。
  いじめ側の児童生徒が何故そうなってきたのか、マスコミでも書籍で
  も、問題の核心に迫るメスを入れているものは何一つないことは、一
  体どうしたことなのか。いま、最大の私どもの眉鼻の課題はこの一点
  にある。核心とは何か。すべては、制度弊害、地域社会、親、家庭の
  責任であって、子供の責任ではない。この考え方に、教育委員会はど
  う対処するのでしょうか。
 ・性行はどのようにして創られてくるのか、それを知る方法を周知して
  いただきたい。
 ・家庭では児童生徒との生活の中で、親が教え育む分野はどんなことか
  検討を進めて明らかにしていただきたい。

三 地域との連携、その他
 ・PTAの学校運営参加の道を研究されたい。(諸外国の制度、実情を
  調査して参考になるものを研究していただきたい)
 ・教師個々の教育改善への提案及び児童生徒の教育改善への提案を受け
  入れる方法と共に、学校職員の自由裁量の権限を検討されたい。
 ・たとえば大正時代とくらべて三十年或いは五十年単位としてとらえ、
  学校の年間行事の精選を検討していっていただきたい。

 [校則のしめつけ]解消のために

一 いわゆる校則は全廃すべきもの、と私は考えております。憲法でいう基本的人権とか自由権を犯しているものが多くあり、感ずる感じないは別として児童生徒は社会規範、秩序の名のもとに拘束され抑圧され圧迫されています。自分が全責任をもって教育すべき児童生徒の前に立つ教育者自身、自分は大人ゆえに教師ゆえに着るもの履くもの髪の毛も自由にし、児童生徒には「きまり」を強いて教育実践をしています。異常な光景というほかはありません。やはりこれは間違いであります。「きまり」でのしめつけは、児童生徒の反感をうみ、児童生徒はそれに抗しきれないとき、ある種の決断によって自己の歩むべき道を自分できめて生活する、そしてそれは非行といわれ、かくして長いものに巻かれる素質が醸成されていく、集団規範を重視した場合の陥りやすい第一の欠点といえましょう。基本的人権とか自由権という使うべくもない厳めしい言葉を使うのも、グローバルなものの見方考え方がいつでも子供達には最大に大切にされなくてはならないからであります。
 我々は子供にたいして、見られてもよい聞かれてもよい言動でなければならないし、真似てもらいたい言動でなければならないのが鉄則だと思いますが、いかがなものでしょうか。

二 教育を考えるとき教育基本法を常に参照することが大切だ、と私は考えております。
  釈迦の耳に説法でしょうが、教師の教育に対する自己の教育観にとって教育基本法は、教育に対する責任のよりどころであり権限のよりどころであります。上級機関の指示や時の文部行政によって、基本的な価値基準を動かしてはなりません。上級機関の判断や時の文部省の判断指示も基本法の判断によって行われるのでしょうが、基本法に基づいた自己の教育世界観の判断はどうなるのでしょうか。その場合は日本国憲法に準ずる以外ないでしょう。
 因みに教育基本法第一条は、次の通りであります。
 第一条(教育の目的)教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及
 び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、
 勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育
 成を期して行われなければならない。

三 基本的人権の教育
 校則は要りません。そこで全校の児童生徒がそして先生も無言でいいから大切にしたいものがあっていい、皆でそれを求める高次の価値観があっていい、と私は思います。それは「人をだいじにする」ということであります。これには校則は要りません。教育委員会や地域住民が教育によせる一番たいせつなもの、それは人をだいじにする人が育つことだろうと思います。それはストレートに全校の児童生徒先生の目標とか願いになります。それは、「挨拶する人になろう」であり、「迷惑をかけない人になろう」であり、「時間をまもる人になろう」であります。そしてまた、最終的には「世界に通用する自分の世界を築こう」であります。この言葉はどのようでもいいと思います。

 以上のことがらは、直接教育委員会が対処できないこともあったりしますが、ともかく教育の見直しという角度から検討したほうがいいと思われることを、挙げてみたものであります。
         ◇        ◇        ◇
 なおこのことに関連して、ダブリもありますが調査とか、その結果喬木村としてのまとめなど要望したいことを挙げてみます。
 @外国の教育行政の調査、導入(単行本とかVTR)
 A県内、県外の他地域の調査、導入(単行本、視察)
 B早期教育の研究(単行本、視察)
 C村立幼児教育(親対象)
 ・生涯学習というなら、まず第一に重点を置くべきことです。
 ・親がわが子の育て方を学ばずしてわが子の学力を高めたり、品格を堅
  持することは、不可能であり、合理的ではない。
 ・親の意識改革と地域指導者の意識改革が急務であります。
 ・自尊心、自己防衛力というのは、個対個の折衝の中で、それがぎりぎ
  りに火花を散らしやすい厳しいこと(恐ろしいこと)であります。
  私たちは一般に、自分のレベルでどんなことでも評価し、自分の世界
  を変えようとしないものです。膨大な情報を分析し検討しなければな
  りません。
 D村会議員の教育へのかかわりについて
  たとえば、村会議員の委員の方は、村の教育方針を策定するくらいの考えで、教育委員会との懇談によって、各種の提言を村会でおこなうシステムを作っていくこともその一つ、或いは村長さんの教育諮問機関として、教育委員会、議員、その他の構成で基本的な喬木村の教育方向を策定していくのも一つの方法であると思いますがどうでしょうか。いまや今日の教育は何らかの実施可能の機関で解決していかなければならない状況にあるといえましょう。
 E教育行政については、いまこそ文教政策の指導だけでなく、また他地区と背比べで考える態度ではなく、もっとグローバルな立場にたって村の教育は村が責任をもって実施するということを大切にしなければならないと思います。戦後導入された市町村の教育委員会の権限は復元することはないだけに、教育をだいじにしていく方向へ向かわなくてはならないと思います。財政の裏付けが是非とも必要になってもくるものでありますから、学校だけで対処したり教育委員会だけで対処したりするだけで解決できるというような課題ではない、と私は考えるのです。

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