【9-1】自分の身になって感じる

途中からこのメルマガをお読みになった方も、
最初からお読みになっている皆さんも、
このメルマガの内容についてどのようなご感想を持たれているしょうか

私としてはリアルなことばかりなのですが、
知らない人にとっては、このメルマガはちょっと‥‥

そんな印象を持たれていてもしかたがないと思うのです。
前回、前々回の内容は普通からしたら心理葛藤を処理する
セラピーそのものといった内容でした。


「 本当に、ここまで体と心が密接に関係しているのか?」


そう思われませんでしたか。

これには、「 そうです 」としか答えようがありません。

そして、因果関係では全ては語れないとも言えます。

これがまた話を分かりにくくしてしまうのでしょう。


安心するためにはなんとかして「こうすればこうなる」を積み重ねて信頼できる線を出したいのは人情です。

これは病気や心身の問題についていろんな角度から100年でも200年でもかけて積み重ねていかなければならないことです。

合理は合理で追求すべきだと思うのです。


しかし、

と否定してしまいますが、比喩として、西遊記・孫悟空の話を私は思い浮かべてしまいます。

力と負けん気、行動の孫悟空と、祈りと種族への安寧を思う三蔵法師の対比。

こうすればこうなると自分の力に自信に満ちた孫悟空は宇宙の果てまで飛んでいって帰ったきたつもりが、釈迦の手のひらの上のことだった話。

私は、何も仏教や書きつづられた教義の中へ視点を置こうというのではありません。

何万理も飛んで行ったのに、釈迦の手のひらの上というのは、無茶苦茶です。

新幹線で東京から大阪まで行ったのに実は自分のマンションの入り口にいたなんて話があったらその話自体がウソにきまっています。

孫悟空は実に闘争的です。あれを猿の中のボスとしたのは直感としても表現としても卓越しています。そしてなぜ猿なのか。

人の体は捻ることで闘争的な感情を味わうことが出来る。
逆にそういう感情になったとき体を捻る姿勢をとるのです。無意識に。

それは一つの自然ですし、体を捻ることが出来なければ強大な力は出せません。

そういう癖は体に元々あるか、後天的に無意識な適応で身についてしまいます。


人の体はその構造として左右の足への重心のかかり方が、
片方だけが猿のようになると何らかの闘争性が出てくるのです。

闘争性そのものは決してネガティブとは言い切れません。
同類の言葉として比較、開拓、類をみない創造性も前向きな闘争性の変容したものでしょう。

テレビでK-1をやってますが、相手と戦うというより恐怖と闘っているという見方をしてみる。あるいはお互いがそのような気持ちで全力投球したなら、きっと相手のことをいとおしく思えるはずなのです。闘争なのに。

こういう人たちの内面では、自分の中の誰が戦っているのかの問いが必ず生じてくるはずです。それは感情的なこととはいいきれません。

不思議ですが、ああいうシーンを見ていて、いきなり軍服を着て無人でミサイルを操作して人を殺そうとするシーンを見ると妙な違和感があります。

変な猿を見ているような。


西遊記では色々な意味での闘争性が孫悟空に象徴化されています。

感情主体が猪八戒です。温かさがありますが情に流されるのです。


力の危なさとは何だろうか?

麻薬だといった先生がいます。
そうだと思う。これは自分にも手痛い指摘だった。
何か人より知っていると思うと、ついその自分を大切にして手放せなくなるのです。

お金をもっているのと持っていないのでは持っている方がその面では力があり、
そのことが破局を生み出すストーリーは映画や小説では多い素材です。

それをつぶさに見ていくと、

「力に酔い、しかも当たり前におきている力の弱い側のありのままに気づけなくなると、抑圧が起きる」

このことがなんとなく見えてきます。

親と子ではいろんな意味で力の差があります。
子どもは感じるということでは大人より力があります。誇示はしませんが。


時に我々親が力を無自覚に使うことで、その捻った姿勢や気配が子どもの体を防御感応させて、その体に歪みを作ることがあるのです。

私も自分のつまらないたった一言で次男を気管支炎にしてしまった経験があります。
まずいと思い誤りましたら、気管支炎は止まりました。


抑圧ですべての子が喘息になるわけではありませんし、
親としても自分がどうにもならず苦しい気持ちになることも私はよくわかります。

しかし、こういうことを書いているのは、私は決して子どもにとってだけののいい人、
正義の味方になりたいためではありません。

よくよくプロセスを見つめると、【 全部がそういう力の因果関係では語れない肯定的な部分があるから 】そこを探したい気持ちからです。


さて、からだ的には感情の抑圧があると、呼吸器と関係している胸椎3番は硬くなったりねじれて歪むのです。

捻れは前述のように強くなろうとする証でもある分けです。

そして、そこには無為の心の働き(劣等感など)だけではなく、何らかの肯定的な力がくっ付いているともいえるのです。

これは確かに背骨の際といわれる指一つ分のラインに、緊張や肥厚となって現れるのだから仕方がありません。

電気が切れたのに、線も切れてなく配線も大丈夫だったら変ですから。

そのために、そこに自律神経のアンバランスが生じます。

アンバランスとはある面では興奮し逆の面では萎えてしまう力があるという現象です。



これが前2回のNさんの例では、鈍っていた心の感覚が先に回復してきたことで、自律神経の働きも変わることを迫られたのです。

しかし、凝固したエネルギーがくっ付いているのですから、ここは排泄をよぎなくされて、泣くと言う行為になってしまいます。

これは「布団が恐い」の例でもこの現象が起きていました。

排泄というのは整体的な観点からすると、人の生理的心理的中心点であるとされている丹田に力がないと出来ることではありません。

辛くて耐えることも腹を鍛えることなら、泣くことにも基本的で潜在的な力がないと出来ないのです。

本当に泣いてみたら分かります。それがどんなことなのか。

力がないと泣けないのです。

ワークで、

気持ちの変化が起きる → 首や鳩尾が弛む → 丹田に力が集まり始める

→ ツカエを取りたい欲求が高まってくる → 自律神経と心理的感覚が回復し

てくる → 怒りを怒り、悲しみを悲しみとして感じ直す → ツカエを排泄しよ

うする欲求が更に高まる → 泣いて排泄→すべてが弛み、締まる力も高まって

くる   こういうことが生々しく起きるのだと思います。



数字をドデカクして表現するのは中国人の得意技で、何万理、数千年てなこと
を言います。

孫悟空が岩の中に閉じ込められたのが何年だったかは忘れましたが、あまりに
も同化していたパワー(闘争性・我がまま性)を封じ込められます。

多くは抑圧する側もされる側も結局はパワーの虜になってしまいます。

自分のありのまま、相手のありのままを受け入れる共感や慈悲のパワーは三蔵
法師によって象徴化されています。


試してみるとこの受容性の心もなかなか力を必要とします。

なし崩し的に受け入れるのではなくて積極的に受容するのは本当に難しいです。

何万理も飛んでいっても身近にあるはずなのに、これが逆に身近に感じれない。



■ こんなワークはいかが

中心に居座ってしまいがちなパワーロール(力で相手を制しようとする役割)
を何万年でなくてもいいから、ちょっと岩に閉じ込めて、
受け入れられない相手(症状)の姿に共感するつもりで近づいてみる。

このとき、どんなことが体に起きるだろうか。

● 例えばご自分の子どもさんが喘息だとしてあなたがワークするとします。

子どものどこが気になるでしょうか。単に病気としてみないでまとまった現象
として見てください。

善悪、コントロール、治す、助ける、癒す、この意識をちょっとはずして気に
なる処を探してください。音が気になるのか、姿勢か、動きか。

肩の力を抜き、ポカーンとしてしかも注意力を保つのです。
眠っているようで起きているような状態を意識的に作ってください。

本人が今喘息でなくてもかまわないのです。むしろ現時点で発作が起きていな
い方がいいでしょう。一人でやります。

その、気になる事を少しだけ誇張してください。肩の動きだったらそれを少し
誇張するのです。それはどんなエネルギーをもっているでしょうか。

そして例えばその動きの特徴を全身でやってみるとどんな世界や気分に出会う
ことができるでしょうか。

そのあなたと、あなたはどのような付き合い方をしてきたのでしょう。

もしかして、三蔵法師だったら、そのエネルギーを生活的にどのように積極的
に活かすように言うでしょう。

いや三蔵法師の意見は無視をしてもいいです。
もし、肩の動きから全身がくらげのようになったら、あなたの生き方の中にく
らげの要素が入ったとき、どんな喋り方や態度となって現れるでしょうか。


○ また、自ら症状を持っていてワークする場合。
 喘息の症状を丁寧に心と体で観察してみます。

自分の症状に近づいた場合、何を最も特徴的なこととして取り上げたくなるで
しょうか。

風の音、あるいは気管の色、動き?
体はどのように動いてゆくだろう。

あなたが風になってみると良い。
あなたはその色にどんなエネルギーを感じるだろう。
それはどうすれば表現できるだろう。

体が動いたのなら、その体を動かしている力の方を感じるといい。
何がどうやってその動きを起こしているだろう。

三蔵法師が岩山の孫悟空を受け入れたように、
もしかしたら強いパワーを受容せざるを得なくなるかもしれない。

その場合、受け入れよう!


このような作業には、合理も非合理もありはしないという意見の方が圧倒的に
多いことだろうと思います。

しかし、実はちまたに転がっていることなんです。
一昨晩も似たようなことをNHKでやっていました。

データ何とかという番組です。今全世界の中で犯罪の数が増えている顕著なと
ころとして日本が上げられていました。

ところが、全体が一気に増えたにもかかわらず犯罪が減ったところがあります。

イギリスでは監視カメラを街中につけるのに55億円とかかけたそうですが、さ
して効果がなかったのですからこれは凄いことです。

犯罪発生率が顕著に減っているのは鹿児島県です。各地から視察にくるそうで
す。(日本全体に対して少数で、気を引かざるを得ない存在です)


では、何が犯罪を減らしたのか?

大人たちが若者の犯罪が増えているのを察知して、声かけをしたそうです。
自分の子どもだけを子どもとするのではなく、他人の子どもも自分の子どもと
同じように接する努力をしたのだそうです。

私は襟を正して聞き入りました。大人がチームを組んで夜の巡回もやるのです。

中にはくってかかる若者もいますので、それなりの指導者にそういうときどう
したらよいのか指導を受けたのだそうです。

胸倉をつかんで文句を言われてもまずは相手の眼を見る。
例えばそういうことを大人同士が若者になってみて模擬劇をやって訓練するの
です。

あと、沢山のイベントをして大人や子供が自然に交流してしまう場をつくる。
かなりな数です。こうしていくと、はみ出されて分化されていたエネルギーが
交わって子ども達にも排除感覚がなくなっていきます。


こんな活動をしていくと鹿児島の病気も減るはずです。そんなものなのです。

喘息をここで犯罪を起こしそうな若者に置き換えて眺めてみて、さっき紹介し
たの作業の意味を考えてみてください。

●全体の中ではみ出してしまっているエネルギーを阻害しないで近づいてみる。


つまり模擬劇として喘息を持った子どもの身に自らがなってみて、

そのとき起きる「自分の身になって感じてみる」←これが大事。相手の身では
ありません。


○ 喘息そのものに近づく場合、喘息以外の自分を脇に置いて、喘息の症状の
側に立って気になる特徴的な現象を見つけ、その質をよく感じて、それそのも
に自分がなってみるのです。

どうです。少しは分かりやすくなってきたでしょうか。

犯罪そのもを取り締まらないで、全体が今失ってしまっていることに眼を向け
るという、善悪を超えたこの判断は科学的な合理性のあるものではありません。

しかし、鹿児島の人たちは犯罪に対して安心できる線を獲得したことは事実で
しょう。


どうしてもナットクがいかない人は以下のページ一連をを参考にしてください。

どうやって体がバランスをとろうとしているのかを少し書いてみましたので。

http://park15.wakwak.com/~nrt/t_006.htm




□ 電話ワークその他の詳細はこちらからご確認を

NRT・Top: http://park15.wakwak.com/~nrt/index.html



■ あとがき ■----------------------------------------------------
金曜日の夜から家内が風邪で伏せった。回復したら子供の顔が明るくなった。
やっぱオヤジでは駄目なんだよなー。洗濯物干して取り込むの忘れるし‥‥。
------------------------------------------------------------■YK■
\喘息 のち 晴れ!/
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