診察室5番の斎藤先生へ
先日、診て頂いた後で僕はお礼の言葉を述べたでしょうか?
次は二カ月後でいいですか、とたずねると
しばらく海外へ行きますので、との答え
長くですか?といささか慌てた僕は
ええ三年ばかり、との落ち着いた声に
お元気で、と言い添えただけだったように思うのです。
この二年、僕の目の奥を念入りに覗き込んで幾つかの穴を見つけて下さったお礼、
眼圧が高くならないようにとお気遣い頂いたお礼を
僕は言い忘れたのではなかったでしょうか?
ありがとうございました。
診察室5番の黒いカーテンの中から
お年寄りのまだるっこしい質問に丁寧に答える
長く語尾を引いた声が聞こえてくる。
診察室5番の黒いカーテンの中で
はい右の上、真上、左上、左横・・・の声に合わせて
僕は目をぐるぐる回しながらレンズに反射する毛細血管の模様を楽しんだ。
「今日は0・9も見えました。」「とても剥離のあととは思えませんねえ。」
とのことばを喜んで聞いた後での「三年ばかり」はきつかった
と同時に、この二年、目の奥を覗き込んでもらったお礼に
ちょいとばかり心の奥を、と思ってしまったのです。
いつぞやは、とあるショッピングストアー内の地下食料品売場でお会いしましたね。
主婦ですか?に 主夫ですか?と、うまく切り返されてしまった僕は
ちょっとお茶でも、が言えませんでした。
お休みの火曜日にフィットネスクラブで流される汗は爽快でしょうか?
いやそれよりも、はたしてあなたは、どこの国へ行かれるのですか?
とりとめもなく幾つもの思いに駆られながら
会計を済ませ薬局で目薬を受け取った僕は
いつもなら三本のサンコバが今日は二本だったことを喜んだ。
それでは今一度、お別れ前の診察ってやつだ。
四十を前にした三児の父である僕は
まるで十五、六のガキのように
あなたの旅立ちに一本のテープを投げ掛けようと
やや大目に目薬を点すのです。