シエークスピアがやってくる
(シェークスピアシアター公演『間違いの喜劇』に寄せて)
四百年もの時を経て、シェークスピアがやってくる。仮面を付けてやってくる。シラキュースとエフェサス、異国の情緒が舞台に漂う。
ともに生き別れになっていた主人の双子と召使いの双子が、互いにそれと知らずにエフェサスで一所になる。起きるのは大混乱だ。
「仮面の導入によって驚異は増幅し、瓜二つの仮面をかぶった二組の双子が複雑に入り乱れるうちに、観客自身、次第にどっちがどっちか分からなくなってきて、自分がいくつにも分裂したような、めまいにも似た気分になっていく。」と扇田昭彦氏の劇評にある。
シエークスピアシアターがやってくる。東京の劇団が、笑いの本場大阪にやってくる。大阪人が二人寄ると漫才になる、と言われるのは、大阪人は小さい頃からボケとツッコミ、会話の練習をして成長するからだ。ポンワカポンワー、土曜日ともなれば一目散に家に帰り、吉本新喜劇の中継を楽しむ。さらには義理と人情の泣き笑い、松竹新喜劇も加わる。何百万人、いや、何千万人もの大阪人がこの過程を経て成長してきたのだ。近頃の若者は、二丁目劇場を中心として活躍する若手の言語感覚に、時代にマッチしたものを感じているに違いない。
七、八十年程の昔、将棋の坂田三吉が「明日は東京に出ていくからにゃ、何が何でも勝たねばならぬ」と関根名人に挑み、銀を泣かせながら、自分も泣いた。
今、シエークスピアが、東京の劇団が、笑いの本場大阪に、若者の哄笑を求めて戦々恐々とやってくる。我々は虚心坦懐に笑う用意を整えるだけでよい。
ただし、ファルス(笑劇)とは何か。コメディー(喜劇)とはどこが違うのか。ベルグソンは「笑い」を哲学的にどう分析したのか。パニョルは「笑いについて」いかに考察したのかと、芋づる式に笑いの源泉を辿るとなると、もはや、笑ってる場合ではなくなるのだが・・・
(一九九四年六月、清水谷高校図書館報No・369)
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