さらば旧校舎
     「四十路近くなりぬとて」


 大学出たての青二才が赴任したのは、新設高校であった。依頼されたPTAだよりに、次の様に書いた。
 「新しい学校ほど古い体質を欲しがるものでございます。隔靴掻痒。痒みが痛みにすりかわり、胸元まで込み上げてくるように感じます。まだまだ若いですね。」 − 十六年前のことである。過去は美化され醇化されるものだから、当時、僕が何を憤っていたのか、古い体質と決めつけたものは何だったのか。どうも近頃、物忘れがひどくなった。
 三十路を過ぎて母校に赴任した。「十五、十六、十七と私の人生暗かった」筈は無いが、青春期特有の混迷や苛立ち、ひとりよがりのヒロイズムを懐深く受け止めてくれた母校の教壇に立てるのは望外の喜びであった。
 僅か三日で剣道部をやめたのは正門のスロープをうさぎ跳びで何度も駆け登ったからだ。痛む足とむしゃくしゃした気分を引きずりながらの帰り道、東門を集団で駆け登ってくる「ファイトー、ファイトー」の掛け声、女子硬庭の一団に向かって「何一生懸命走っとんねん」と吐き捨てた。高二になり、好きになってしまう女性がその中にいるとは思いもよらなかった。「あなたの第一印象はとても悪かった」と言われたのも仕方無いことだ。その後、その女性と僕はなどと、今さら思い出と戯れているようでは、それこそ仕方の無いことだ。
 一言で言えば紛争期であった。ゲバ棒、バリ封、火炎ビンなど歴史の用語辞典でも引いて説明を加えなければ若い人には何のことやら、今は昔の幻のような時代であった。'69、'70、二度にわたる学園紛争で何を得、何を失ったのか。度重なる討論に疲れ果て、帰宅後ぐったりの日々が続いたものだから、日記は空白のままである。ただ一つ、思い出の糸を紡ぎ寄せ、教訓を導き出すとしたら、機動隊すなわち官憲もしくは官権の力を持ってしてバリケード封鎖が解除されたのではなかったという点だ。生ぬるいと世間の非難の矢面に立たされながらも、話し合いによる解決を模索し、生徒の手による、教員の手による封鎖の自主解除に向けて夜の遅くまで何日も何日も会議を重ねられた当時の先生方の息の長い取り組み − それこそが清水谷において風化させてはならぬ遺産、すなわち伝統なのだと、僕は確信している。古き良きリベラリズムが世紀末の混迷の中で肩身の狭い思いをしてはならぬのだ。
 創立九十一年を経た母校清水谷は校舎の半分が建て変わり、校内の放送設備も立派なものになった。五時十五分に「下校前十五分です」の放送が入り、五時二十五分に「下校前五分」の放送が入り、五時半に「下校時間です」の放送が新校舎に響き渡る。生真面目にも「窓を閉めて、教室の電気を消して」などと実に懇切丁寧な放送が鳴り響く日もある。かような放送にオヤッと首を傾げることこそが生真面目さであるような気がする昨今である。
 四十路近くなった青二才は、依頼されたPTAだよりの原稿を次の様に結ぶ。
 
 中庭の楠は、時代の流れを、どう聞いているのだろうか。
 五十を越えても六十に近くなっても青二才はいるものだ。
 青二才よ。健在であれかし。  
             (一九九二年七月二十日清水谷高校PTAだより 第37号)



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