旅情





出し遅れた返信の言い訳に
「君を思う時間を長くしたかったから」
との言葉を思いついた時のように
四年前の秋、あなたの晴れ舞台をビデオに収められなかったお詫びを兼ねて
旅立ちの春を祝います。

あのとき、ウォ−と湧き上がり波打つ生徒の喚声が
あなたの登場を待っていましたね。
ピンクのドレスは今なお鮮烈ですよ。
口元にあてがわれた拳ひとつ、咳払いの儀式が済んで
森ノ宮のホールは静寂に包まれました。
流れるような伴奏に合わせてプッチーニの「私のお父様」が、
次いでレハールの「ビリアの歌」が高らかに歌い上げられました。
美しい旋律が今なお耳に残っています。
大きな拍手の中を花束抱えたあなたは緊張を解き、膝をぴょこっと曲げ
生徒に向かって手を振ってにっこりとほほ笑みました。
破顔一笑、手を振って、花束抱え手を振って、何度も何度も手を振って
ソリストが一瞬にして素人に戻ったあのときの笑顔を
今でも時々思い出したりするのです。

デビット・リーン監督の「旅情」のラストシーンで
キャサリン・ヘップバーンは、たくさんの楽しい驚きを胸に
ヴェニスの駅を離れる汽車の窓から、ちぎれんばかりに手を振りました。
あなたはイタリアのどこの町でだれに向かって手を振るのでしょうか?
だれに向かって振ろうとも
四年前の笑顔を忘れないでいて下さい。
清水谷での日々を忘れないでいて下さい。

それにしても
一篇の詩が生まれるためには
あなたが異国へと旅立つ日を待たなければならなかったのでしょうか?
プラットホームでくちなしの花を高く掲げたロッサノ・ブラッツィは
さすがイタリアの紳士でありました。




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