ニッパチ忠言


 文法か!フーン、やっぱり大変なんだろうね。実際、ヤツはヤッカイだ。理屈じゃないからね。法−−要するに「きまり」なんだ。「きまり」ってのはどうも厄介なんだ。
 この話はしたと思うのだけれど、僕の高校時代の古典の先生「飯田先生」おそ松君のお母さん、と友達同士であだ名を付けた。その人に大いにしごかれた。高一、高二と習って、その後「教育実習」という先生見習いの期間もお世話になった。やさしい先生だったのだけれど、とても厳しかった。「何の何の何の何形」と、活用のある言葉に文法的に説明を加えなければならなかった。君達に見せたじゃないか。僕の0点のテスト、1点のテスト・・・本当にみじめだった。
 文法−−やっぱり、困ったね。僕自身、頭の中がゴチャゴチャになった。君達にやってもらったじゃないか。文法の本の問題六二「花こそ咲きしか」「花さへ咲きぬ」「花咲くめり」・・・一体、どんな風に花が咲いていたというのだい。それぞれの言葉に意味用法の違いがあるのだね。
 例えば次の@Aについて考えてみようか。
   @「秋ぞ来ぬ」   A「秋来ぬ」
ワッカルカナ、この二つの文の違い。「はけに毛がありはげに毛がなし」一字違いで大違いなんだよ。
  @の「秋ぞ来ぬ」・・・ぞ−ぬ は例によって(係り結びの法則)、だから「ぬ」は(連体形)だ。「ぬ」が(連体形)にあるのは、ホラ、あのややこしい〈ず、ざら、ず、ざり、ず、ぬ、ざる・・・〉つまり(打消)の意を示す助動詞ということなんだね。「秋は来ない」という意味になる。「来」の読み方は(こ)。「ず」の接続は活用語の未然形につくわけなんだ。
  Aの「秋来ぬ」・・・こちらの方は、秋が来たという意味。「ぬ」は完了の助動詞、「来」の読み方は(き)となる。

 やっぱり、ややこしいだろうか。繰り返すけれど文法は理屈じゃない。覚えてもらわないと話にならないんだ。誰しもが苦手とするものを、へそまがりに得意になってはくれまいか。テクニシャンの誕生だ。
 次の話はしただろうか。昭和三十五、六年生まれの君達はフッルゥーと笑うかもしれないが、昔プロレスに吉村道明というレスラーがいた。いつも外人側にやっつけられる役回りで血みどろになって応戦していた。アナウンサーは「火の玉、吉村」と連呼したものだ。殴られ蹴られロープに放り投げられる。が次の瞬間、彼はロープの反動を利用して悪役の背中をくるっと巻き込む。出たあ!回転エビ固め、ローリングクラッチホールドだ。血まみれ吉村の見事な勝利だ。
 文法は回転エビ固めだ。この技さえ磨いておれば苦境に立っても勝利を得ることが出来る。と、まあそんな大層に言う必要もないけれど、〇組の〇君、〇組の〇さん、のっけから苦手意識を持たないで、邪魔くさいだろうけれど、覚えていってくれたまえ。自らの可能性を葬り去るのは悲しいことだからね。ややこしいだろうけれど早く整理してくれたまえ。いつか、もやもやとした霧が晴れる。学問の喜びなんて、その瞬間に尽きるのだ。
 長々と書いてしまった。花のニッパチ、君達と同じまだまだ遊び盛り、効き目薄いかも知れないけれど、あえて忠言申し上げ候。
(一九七六年十月 交野高校三期生 一年二学期古典中間テスト問題) ( )内、適語補充




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