80年の8月も、ただしょうがなく暑いだけなのか?
− 『夏の花』(原民喜)レポートを読み終えて −

 教える側、教わる側ともに学ぶ場合、ごくまれに強烈に印象残る教材がある。そのような幸運な教材は得てして不幸な事実を描き出している。『夏の花』もその例に漏れなかった。
 レポートを読みながら(点数化するという愚かしい教師の性に苦笑を浮かべながら)君達の真剣な筆遣いに、ささやかな感動を味わってばかりいた。峠三吉の詩で型取ったキノコ雲の中に涙ながらに残酷な場面を抜き出していった、と書いた人がいる。原爆について考えたら頭が破裂しそうになる、とただ単なるレトリックではなく自己存在を賭けて文章を綴った人がいる。父が被爆者だ、と書いた人がいる。祖母の胸にはケロイドの跡があると、書いた人がいる。
 それらを読みながら、僕の胸を去来したのは皮肉にも「抜け道」という言葉だった。熱しやすく冷めやすい我々の特性が、感動をその場限りの興奮に終わらせはすまいかという恐れだった。
  考えたって仕方ありませんヨ。もう済んだことじゃないですか。
  広島の快進撃をご覧なさい。赤へルカープは平和のシンボルですヨ。
  悲惨な事実は風化されてこそ美化されるんですヨ。
  考えさせられただけで自分で考えたわけじゃないんでしょ。
  だったらさあこちらへおいでなさい。そんな暗がりは危険ですヨ。
  明るい方へ。煌々と灯のともった抜け道の方へ 
 パスカル以来、考え続けている人間は、考えることの重みに耐えかね、時折自らの心の中に、明々と灯のともった抜け道を作り出し、そこを憩いの場とする。抜け道作りには時の権力者がせっせと助成金を与え、エセ教育者が見事に舗装する。
 考えることを不純と決めつけ、なぜ?と問うことを素直でないと睨みつけ、自由であろうとすることをアウトローとして異端視する。そのようにして問題意識の欠如した人間、たとえ問題意識を持っていても発言する勇気を持たぬ人間、いざ発言しようとする時に言葉を喪失した人間を現代の管理教育は作り出している。
 ペエスケ漫画の怖さを「戦争が始まったとしても無知な若者は何をすればいいかわからないだろう」ととらえた人。その発想こそが非常に怖いのだということを今一度考えておくように。
 現実の前で汲々とせざるを得ない高三の夏、どうか抜け道のランプに灯をともさないように。僕自身、今年の夏こそは、ただ暑いだけでは終わらせたくないと思っている。
  ばか、昭あんちゃんのばかっ
  どうして しょうがないしょうがないというんじゃ なにか考えてやれや
  わ、わしゃ しょうがないとあきらめるやつはきらいじゃ
  戦争をおこした犯人と協力してぬくぬく生きてる犯人がいるんじゃ
  ピカをおとした犯人がいるんじゃ
  その犯人を、二度とひどい目にあわんよう はっきりたたきつぶさんといけんのじゃ  
  いまにまたおなじことをくりかえすわい。そしてしょうがないと泣くんじゃ  (『はだしのゲン』より)




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