ことば・あれこれ




 ことばとかかずらうことをなりわいとしている。なりわいなどという言葉を用いるところが曲者である。曲者は、国語科の部屋を訪ねる生徒諸君の「〇〇先生いてませんか?」とか「みんなそう思ってます」とか「絶対そんなことはありません」とか「すごく」「むっちゃ」「笑けてくる」などなどの言葉に耳を澄ましている。言葉は霊力を伴い、うつしよを徘徊するのである。

 「生きた言葉」「美しい言葉」を捜し求めることは楽しい仕事である。赤児の母を呼び求める声は、必要に迫られた切ない響きを持つ。幼な子のあどけない会話、たとえば「三日月はうさぎちゃんが食べたのね」には素直な発見の喜びがある。ある詩集のあとがきに「大人とは子供の夕暮れではないか」という文章がある。「子供の夕暮れ」という言葉が変に気になったままである。

 詩に関する本が書棚に増えたのは、吉田一穂の『母』と題された詩を扱わなければならなかった時からである。
  ああ麗しい距離(デスタンス)
  常に遠のいてゆく風景・・・
 
  悲しみの彼方、母への
  捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。
わずか四行を一時間かけて教えるのは冷や汗ものであった。うまい料理を、ただうまいと言って食べれば済むところ、ぐちゃぐちゃと講釈をたれたのである。冷や汗が詩への関心を深めた。

 「名も無き雑草」という言葉を耳にした時、名も無い雑草など見つかれば、それは植物学上の新種発見だ、などと小首を傾げてみた。
 人間の体温は四十度足らずの実に「なまぬるい」ものだということに、あえて着目した時から、他人のしくじりに激怒する回数が減った。
 ある人から、ワープロで「一致した意見」という言葉を打とうと試み漢字変換キーを押したところ、文字板に「一致死体券」と出た、という話を聞いた。
 「名も無き雑草」「なまぬるい体温を持った人間」が死につながるチケットを手にしないためには、「各自、しっかりした自分の考えを持て」という啓示を、神ならぬ機械が与えてくれたのである。自らの考えを構築するものは言葉である。人を喜ばせるのも言葉なら、人を傷つけるのも言葉である。言葉に息吹きを与えることのできるのは言葉を話す人間だけなのだ。


  (一九八六年十二月九日、清水谷高校図書館報No・247)


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