私部(きさべ)の人

  

駅前の立ち飲みで
山口さんとビールを飲んだ
山口さんは私部の人で
私部は僕が最初に赴任した学校のすぐそばだ
かなり危ない人だと思っていましたよ
初めて見た時
受付のテーブルに拳を何度もぶち当てながら
蹴り上げんばかりに怒っていた人だから
「見られてましたか」
にこやかにビールを酌み交わしながら
「この病気はね、かかった者でないとわからんからね」
赤玉、白玉、薬の違いを説明しながら
「たとえ眠ることが出来ても起きてからがつらいんだ」

酔いが回った山口さんはデイケア仲間に懇願した
「小崎よ、なあ小崎
俺は、お前に、キーホルダーをあげた
あげた以上はお前の物だが
小崎よ、なあ小崎
俺の目に触れるとこでは使わんとってくれよ
頼むから病院のロッカーでは使わんとってくれよ
言わんかったかハワイで買うたキーホルダー
別れた女房との思い出の品」

病院のすぐそばで
山口さんとお昼を食べた
我が女房も一緒だった
「また逃げ出そうとしたらあかんで」
優しく妻を諭してくれた

私部の私は后の意
日本書紀にその地名はある
皇后のために稲作をはじめとして身の回り
いろいろ世話する人たちが住んだので
私部
今、ざる蕎麦を美味しそうに食べたはるのが
赤井さんのお后

私部の人はそう言って
残りのつゆを蕎麦湯で割らず
一気に飲んだ
「辛くはないですか」と聞かずに僕は
ザルにひっかかった最後の一筋を
不器用な箸使いでつかまえた



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