元気の出る学校作り
イギリスの奥深く分け入ったところに、ある高校があった。未来ある若者は皆生気に溢れ若者ゆえの特権を謳歌しつつも身の程守りて規を越えず、一方その姿を見守るチップス先生やドリトル先生はややずり落ちたメガネ越しに、ごくまれに眉をしかめ苦虫を噛み潰すことはあっても微笑みは絶やさず、実におおらかで、時はゆったりと流れていた。休み時間や放課後には廊下のあちらこちらで、教師と生徒が立ち話をする光景が見受けられ、その背景に夕焼けが映える時などは「学び舎」という言葉が実体を伴ってそこに存在する感があった。朝な夕な交わされる挨拶には尊敬と信頼が励ましと期待が交錯した。放課後のテニスコートにはボール以上にゴメンゴメンの言葉が飛び交ったがそれは弾む若さの表れであった。グランドを駆け巡る運動部員の掛け声、演劇部の発声練習、アンサンブル部の楽器の音色、その他何種類もの音が弾んでいた。春の文化部発表会、秋に行われる学校祭、体育祭には多くの他校生が訪れ、将来の夢を語り合う若者同士の交流があった。
ところが、あるときどういう呪いを受けたわけか、暗い影があたりにしのび寄った。今まで見たことも聞いたこともないようなことが起こり出した。新入生は四月の初めから元気を無くし、二年生ともなると面やつれ、三年生は青ざめるようになった。どの教室を覗いても生気の無い生徒たちばかり。教室に喚声がこだますることなど絶えてなくなった。そのうち、突然退学していく生徒が増え出した。何が原因かわからない。幾度となく開かれた教員会議の場も静けさが支配した。ある教員が「トイレで見つけたのだが」と前置きして「今自分は高校というオリにいる」という生徒の落書きを紹介したときには教員の間から一瞬かすかなため息が漏れたようではあったが声にはならなかった。
学校は沈黙した。不気味で薄気味悪い沈黙が学校を支配した。生気溢れる若者はどこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。桜花咲き誇る頃となっても新緑が目に眩しい頃となっても物音ひとつしない−−みな黙りこくっている。恐ろしい妖怪が、頭上を通り過ぎていったのに、気付いた人は、殆ど誰もいなかった・・・
「双六の上手といひし人に、そのてだてを問ひ侍りしかば」で始まる『徒然草』の章段で兼好法師は「勝たむと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手かとく負けぬべきかと案じて、その手をつかはずして、一目なりとも、遅く負くべき手につくべし」との名人の言葉を紹介し「道を知れる教、身を治め、国を保たむ道も、またしかなり。」と結論づけている。教育の現場に応用するならば、どういうてだてを講じれば学校は沈黙してしまうのか、元気をなくしてしまうのかをまず考慮し、学校が活性化しないような手を使わないで、たとえ一目でも遅く負けそうな手を使わなければならない、ということになる。元気の出ない学校づくりなど簡単にいくつも思いつくことが出来る。その手を使わないことが肝要というわけだ。
『窓ぎわのトットちゃん』があれ程多くの人に読まれたのは巴学園小林校長の教育論「子供を先生の計画にはめるな。自然の中に放り出しておけ。先生の計画より子供の夢のほうが、ずっと大きい。」に共感する人が多かったからだと思う。
学校改革なるものを推し進めて行くうえでは常に「教育は百年の計」との言葉を念頭に置かなければならない。戦時中でもあるまいに「拙速を尊ぶ、という言葉もあるのだ」と机を叩きつけ改革も改悪もごっちゃにするような妖怪は今頃どこかの予備校で生徒集めにやっきになっているのではなかろうか。
古城の南、緑濃き朝日ケ岡にある高校があった。未来ある若者は皆生気に溢れ・・・
(一九九七年四月十九日)
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