学習について


 生徒諸君が頭を寄せ集めて記念祭(文化祭・体育祭)をより良きものへと話し合った文章(記念祭方針案)の中に
  「学習とは本来楽しいものなのです。幼い時、素朴な疑問を抱いて、それがわかったらうれしくなかったです   か。 学習というものはそういうものだと思います。」
という一節があります。
 古く、孔子が『論語』開巻の一章に、「子曰く、学びて時にこれを習う。亦た説(よろこ)ばしからずや。」と述べたことに相通じます。学んだことを適宜復習する。そのつど何か新しい意味を発見する。これは何と喜ばしいことではないかと、孔子の心は知る喜びに弾んでいます。楽しいからこそ学習効果がいやが上にも増す。生徒諸君が一日の大半を過ごす学校、その中の授業という場に於いて、考える楽しさ、知る喜びに輝いた眼が教師を睨みつけていることを切に望みます。
 孔子はさらに「友朋、自遠方來、不亦樂乎」と述べ同志の友との語らいの貴重さを説いています。遠方にあらず、生徒諸君の近くには「真実を知り、より高い人格形成をめざして、より良い未来社会の建設に参加する」という目的でつながる友人、多かれ少なかれ悩みを持っている同年代の仲間がウジャウジャいます。それが学校の値打ちです。願わくは「精神的に向上心のない者はばかだ」と励まし合える友人を作って欲しいものだと思います。
 「しかしながら人生のあり方はさまざまである。自分の勉強がつねに人から認められるとは限らない。人から知(みとめ)られないことがあっても腹を立てない。それでこそ君子ではないか」と孔子は結びます。紀元前の話にあらず、現代の君子像とはいかなるものか?目標を高く掲げ、着実な方法を用いて、その実現に挑む姿に艱難辛苦とは不似合いの、華やいだゆとりを感じさせる人物−−これも又、君子と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。但しゆとりが懈怠の心に堕してはならない。『徒然草』第九十二段を御子弟ともどもお読み頂きたいと思います。
  「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。のちの矢を頼みて初めの矢になほざりの心あり。毎度ただ得失な   くこの一矢に定むべしと思へ」
 ところで先に引用した記念祭方針案の文章は次のように続きます。
  「しかし、今の現状はそうではない。偏差値や点数重視で人間性が軽視されていて〃受験戦争〃という言葉  に代表されるように、年々私達の学習内容がはっきりせず希薄なものになっています。それが故に頽廃した   風潮が氾濫しているといえましょう。」
反論を許してもらえるならば、若き生徒諸君が、知る喜びに輝く眼を持った生徒諸君が、偏差値の数値やテストの点数に左右されて学習の喜びを希薄なものと感じている筈などはないと確信しております。受験戦争とやらに翻弄されるほど人間の精神はやわではないと確信しております。
 あるクラスの日直日誌から拾い上げた記述を拙文の結びと致します。
  o今日こそは岡竹先生の話を理解してやろうと挑んだらなんとか分かったのでうれしかった。今日もらった表   で土星金星見てやろう!
  o青年体操のテストでせっかく覚えていたのに号令に一人だけ合わなくてぜんぜんできなかった。すごくくやし   い。
(一九八九年七月 44期一年PTA集会用原稿)



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