陪審員8号が述べようとしたこと
    

                       東京芸術座公演『十二人の怒れる男たち』に寄せて



 ジャストミート福澤の「さん、にいー、いちっ!」が終わるや否や「先を争って泡を飛ばすとんねるず」や「しどろもどろの輪島」のように、人はああも簡単に口を割っていいものか。又、逆に「今日は十五日だから」と、5番15番と当てている教師の癖を見抜きながらも、おもむろに立ち上がった25番が「そうは簡単に思いを述べるものか」と腕組みを続けたとしても、「わかりません」とすぐに座ろうとするより遥かに貴重な数十秒であることを見抜ける人が、果たしてどれ程いることだろうか。
 「誰か意見はありませんか、何か意見はありませんか。」と声を嗄らすばかりのHR議長が、大阪を遥かに離れた合宿では様々な意見の洪水に溺れて収拾がつかなくなる。救いを求められた担任が「こんなに討論が盛り上がるのならば次のHRの時間は柔道場を借り切ろう。」と提案し、しらけた眼差しの「嘲笑ブーイング」を見に浴びる。都会の喧噪を離れ、星が静かに瞬く夜の帳に包まれない限り、人はひそひそ話のボリュームを上げないものなのだろうか。
 「好きだ」のただ一言を面と向かって言う前に鈴木章は「のぶ子」の名を48度もノートに書いた。彼の「好きだ」が通じたにせよ「それで?」とのぶ子に言われたとしたら章はその後どう言葉を続けたらいいのだろうか。「背負い水いっぱいあるよ」と言ってみたところで相手がきょとんとしていたら、その先、話は弾むまい。
 物言わねばならぬ時に、沈黙を決め込むのは卑怯な奴だ。雄弁の徒に舌を出し「寄らば大樹の陰」とばかり世渡り上手を気取り、静かにほくそえんだとしてもその頬はピクピク引きつっているに違いない。
 「自我を確立せよ、アイデンティティーを求めよ」と諭す人間が、「実はね」と社会に出て行く人に向かって「長いものには巻かれよですよ」と教訓を垂れているのは悲しい光景だ。
 「僕はB定食」「俺も」「じゃあ、私も」ではA定食が泣いている。
 『奥様は魔女』のサマンサは鼻をピクピク動かしながら次の様に嘆いた。−勇気を持って沈黙を破るとかえって騒動が起きる。
 兼好法師は「おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざ」と断言し、矛盾したことを平気で述べた。
 君達が作文を書く場合には「一つの文を短くせよ」と教えながら僕は長々と書いてしまった。「結局何を?」と問われる前に捨てゼリフを一つ残しておくことにしよう。
 言いたかったのは、弱者の側に立ってものを考えられない人間が、幾ら声を荒立てても説得力がないということだ。無実の罪で獄に繋がれた少年のために、陪審員8号はどんな意見を述べるのか。耳を澄ませ。聞き漏らすな。
 我々清水谷を学び舎とする者は、操も高き清水谷と歌った者は、自らの保身の為に節を曲げてはならぬのだ。記憶力のみにたけたエリートが判断力を持たぬまま成長した姿ほど、悲しく哀れなものはない。
 
             (一九九四年十一月十四日、清水谷高校図書館報No・374)





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