◆台湾人の親切 〜 台湾は遠かった 三部作 その3 〜


 台湾では信じられないくらいにたくさんの親切を受けた。
 食事をご馳走になったことは数知れず、車やバイクでいろいろと案内してくれたこともあれば、家に泊めてくれたり、『パーティー』に誘われたり、結婚披露宴にまで出席してしまった。
 とにかく台湾人は、日本人にたいして、とことん親切だった。
 日本人が金持ちだから、下心があって、というわけではない。
 にわかに信じられない話なのだが、純粋に日本に興味があって、純粋に日本人によくしてくれようとするのだった。
 かつて台湾は大日本帝国の支配下にあった。当時は日本語の強要など、ひどいことも行なわれていた。しかし、その日本時代が終わって、中国統治となったときには、日本が行なった以上にひどい有様だったので、結果として日本時代のほうが良かったと人々は思ったそうだ。
 日本統治に圧制的な面があったのは事実だが、それ以前に鉄道の整備などを含め、日本文化の到来によって、台湾が急速に豊かになったというのも、また事実だ。
 そして現在、台湾には日本の技術と文化があふれていて、人々はそれを「良いこと」として受けとめている。
 そんな背景があって、ほとんどの台湾人は日本を、そして日本人をとても好意的に見てくれている。
 台湾の人々は、ぼくが日本人だと知ると積極的に話しかけてきてくれた。そのほとんどは英語だったが、ろくすっぽ返事もできないぼくに愛想をつかすことなく、相手にしてくれた。
 時間帯によっては、「なにか食べないか」といって、地元の店に連れていってくれ、当然のごとくにごちそうしてくれた。
 そこでの会話は、すこしの英語と漢字による筆談で、それでも腰を落ち着けて話せばけっこうな内容を話すことができた。
 その当時、台湾海峡が緊張状態にあり、中国から威嚇ミサイルが打ち込まれたばかりだったので、それについて尋ねてみた。
 街をみるかぎり、とくに緊張状態がみられたわけではないのだが、そのとき話した台湾の学生は、いつか戦争になるだろうと語った。二月には台湾の総統選挙が予定されていて、二月戦争というのが噂されているという話をしてくれた。
「戦争はあると思う。でもどこかに逃げるということもできないから、みんな普通に生活している。でもこころのなかでは、いつかそうなると覚悟はしている」
 これを台湾人の一般意見としてとらえていいのかはわからない。しかしこんなふうに地元の人の考えにじかに接することができたのは、興味深いことだった。
 日本統治時代のせいで、台湾のお年寄りのほとんどは日本語を話すことができる。そんな人たちにも親切にしてもらった。
 ある長距離バスに乗ったときのこと、なぜか客はぼく一人だった。そしてこのバスの運転手さんが、日本語を話せる人で、車内に二人きりなもんだから、あれこれ話をしながらのドライブのような雰囲気になった。
 だいぶ忘れた、とはいうが、それでも達者な日本語で、実用上なんの問題もない。しかしときたま固有名詞なんかが出てこない時がある。たとえば毛沢東なんかは、中国式の発音しか知らないので、ぼくにはうまく伝わらない。
 そんなとき、運転手さんは、ボールペンで自分の手に漢字を書いてぼくに説明してくれようとする。自分の右手にペンを持って、自分の左の手のひらに字を書くわけだから、とうぜんハンドルはガラあきになる。もちろん視線も手元にいく。
 はっきりいって怖かった。とくにこのバスは山線といわれる、断崖絶壁のヘリを走る路線だ。道も悪く、数年に一回は崖から落ちて大きなニュースになるというスリリングな路線だったのだ。このとき天気もあまりよくなく、そのために客が少なかったのかもしれない。
 しかし運転手さんは、ぼくに伝えようと必死になっているわけで、それに水をさす気にはなれず、ひたすら緊張の時を忍んだ。。
 所用四時間ほどのドライブの間にいろいろなことを話した。とくに印象的だったのは、なぜ台湾人は日本人に親切なのかというぼくの質問の答えだ。彼はこう言った。
「日本時代が終わって、中国時代になった。そうしたら日本語使ってはいけなくなった。わたしゃ泣きたくなった。でもちかごろ日本語大丈夫になった。うれしい。いま日本語話してる、それだけでうれしい」
 そうたどたどしく答えてくれた中に、日本に対する思いは十分に伝わってきた。
 バスが終着駅につくころ、この運転手さんは、今日はもう仕事が終りだから、一緒にうちにいかないかと言ってくれた。夜に知り合いの結婚式があるから、そこで御馳走をたべて、夜はうちに泊まって行け、と。
 急の申し出だったけど、べつに宿の予約をしていたわけでもないので、その言葉に甘えることにした。
 こうして、立派な結婚式場で開かれた披露宴で、旅行はじまって以来の料理らしい料理を食べて、夜は、奥さんと赤ちゃんの三人だけのこじんまりしたお宅で泊まらせていただいた。
 いずれにしても、そこまで台湾人の生活に触れることができると思っていなかっただけに感激だったし、あまりに無条件に良くしてくれるので、なんとも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分には、こんなに親切にしてもらうだけの価値があるのだろうか、そんなことまで考えてしまうほどだった。


 もうひとつのうれしいできごとが台湾東南部の田舎町であった。
 日本の箱根に似た雰囲気の温泉街にいったときのことだ。山あいの川にそって温泉が沸いていて、何軒かのホテルが並んでいる。観光地というよりは、田舎の保養地という雰囲気の場所だ。
 そこには何箇所かキャンプ場があるというからいったのだが、あいにく、そのときはチャイニーズ・ニューイヤーの休みに入っていて、キャンプ場はいずれも団体客によって貸し切りになっていた。
 宿に泊まるつもりはなかったから、仕方なく道路脇の空き地にテントを張ることにした。土地の持ち主らしい土産物屋に尋ねてみると、大声で笑いながらキャンプを許可してくれた。英語もまったく通じなかったから、メモ帳に「露営 可?」と書いてみせたら、これが大成功だった。
 その店の主らしい三十代くらいのおにいちゃんが、とてもいい人で、夜になるとわざわざ店の中から電線をひっぱってきてくれて、明りを灯してくれたり、夕食をごちそうしてくれたり、言葉はまったく通じないにも関わらず、とても親切にしてくれた。
 夜、おにいちゃんに呼ばれた。なにかと思って店にいくと、高校生くらいの女の子たちが数人来ていた。おにいちゃんに、彼女たちに一緒についていくようにと手真似で言われた。
 なんだかよくわからないまま、ついていくと、行った先は昼間ぼくが門前払いを食らったキャンプ場。彼女たちはそこにとまっている団体の人だったらしい。
 人混みのなかに入ると、ぼくと同じ年くらいの人たちがワーとぼくを取り囲み、口々になにか言ってきた。それは蜂の巣をつついたような騒ぎに近くて、ぼくはなにがなんだかわからなかった。やがてスタッフと書かれた帽子をかぶった女の子が、まわりを静めてから、みんなを代表するかのようにぼくに言った。
「 Welcome to our party ! 」
 これでようやく状況が飲み込めた。ぼくはこの団体が主催するキャンプ場でのパーティー、つまりキャンプファイヤーに招かれたようなのだ。
 きっとあのおにいちゃんが取り計らってくれたのだろう。
 このひとたちがどういう団体なのかはわからなかったが、年齢的には高校生くらいの男女を中心に、大学生くらいのひとたちがすべてを取り仕切っているようだった。全部で百名以上はいただろうが、そのどこにも大人の姿は見えなかった。
 じつによくまとまった集団で、笛の音がなると瞬く間にみんながきれいに整列して、そのパーティーは始まった。
 最初はながながと挨拶のようなものをしているのだが、その途中で、司会をしていたスタッフの女の子が、ぼくのところにきて耳元でささやいた。
「このあと、みんなに自己紹介して」
 えっ!
 ぼくがYESともNOともいうまえに、その子は行ってしまった。
 自己紹介だなんて、この大勢をまえにして? 何語で? ぼくは一瞬にしてパニックにおちいった。
 しかし無情にも時はすぎて、さっきの女の子がマイクをとって、リーベンレン(日本人)がどうのこうのといっているのが聞こえてきた。
 やがて目配せされ、ぼくはおずおずと前へとすすみでた。
 みんなの視線が私に注がれているのがわかる。
 ぼくは大きく息を吸って、マイクを手にした。
「ニイハオ」
 すると驚いたことに、目の前の全員が声をそろえて、「ニイハオ」と挨拶を返してくれたのだ。
 この意外な展開に、ハッと我に帰ることができた。
 あとはたどたどしい英語で、今日はパーティーに呼んでくれてありがとう、ぼくは日本からきて、いまひとりで向こうの方でテントを張っている、そこまでいうことができた。しかしその後なんといおうか、言葉に詰まった時に、すかさずさっきの女の子がマイクを取ってくれ、いちおう大役を終えることができた。
 なんとも心臓に悪いできごとだった。
 その後、簡単なゲームのようなものをやったり、キャンプファイヤー、いくつかのグループにわかれて余興を行なったりした。
 キャンプファイヤーというと、小学校のときの林間学校以来だが、そのときでさえ、どうもみんなのなかに冷めた雰囲気があった。こんな古臭いことやってられるか、というような。
 しかし、ここではそんなことはなく誰もがただ純粋に楽しんでいるように見えた。
 言葉がわからないから、寸劇などはまったくわからなかったのだが、それでもみんなが笑っているときにはぼくも楽しかったし、その場にいるだけで、みんなの暖かさを分けてもらっているようで幸せな気分になれた。外国を旅行中であるということ忘れた。
 まさに宴もたけなわ。ふと気づくと、さきほどの盛り上がりはどこへいったのか、みんな火のまわりに集まって座りだした。音楽もやみ、まわりは静寂にちかい状態。
 やがて、スタッフとかかれた帽子をかぶった人のひとりが、立上がり、しみじみと語り出した。
 それが終わるともうひとり、そしてまたひとり、次々に口を開いた。なにをいっているのかはわからない。
 それを聞いているみんなは膝を抱えて、女の子のなかには顔を埋めている人もいる。
「どうしたの?」
 ぼくにつきっきりで、世話を焼いてくれていた小如という子に聞いてみた。
「私たち、ずっと一緒だったのに明日からはみんなバラバラに帰らなくちゃいけない。今日が最後の夜なの」
 そう言って、彼女も膝に顔を埋めた。
 そして最後にギターに合わせて、歌をうたってこの『パーティー』は終わった。泣きながらうたっている子もいた。
 翌朝、彼らはバスに乗ってそれぞれの家へ帰っていった。
 それを見送り、空っぽになったキャンプ場を見ていたら、なんだか、ひとり取り残されたような寂しい気持ちになった。
 いたたまれなくなって、ぼくもその日のうちに町を出た。
 そんな気持ちになるほどに、彼らは見知らぬ異国人を暖かくもてなしてくれたのだ。
 こうしてぼくの台湾旅行は最初から最後までハプニング続きで終わった。こんな旅行になるなんて、もちろん予想しなかった。
 なぜそこまで親切にしてくれるの?
 その疑問は最後まで残ったが、でも誰かが言っていた言葉を思い出した。
「旅先での親切は、別の旅人に返せばいい。そうすれば親切は巡り巡っていくから」
 そう、そうでも思わない限り、とても耐えきれないほどに、ぼくは親切を受けた。

〈 台湾は遠かった 三部作 完 〉

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焚き火のまえで 〜山旅と温泉記
By あきば・けん
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