越前裁き
南町奉行大岡越前守忠相は、多忙であった。
三方一両損、実母継母の詮議等で名奉行として名が広まり、諍いを起こした町民達が大岡様の裁きを得んと、次から次と奉行所へ押し寄せて来るのだった。
将軍吉宗直々の御声掛かりで南町奉行に抜擢された立場では、無碍に断ることも出来ず、日々増え続ける訴状の前で頭を抱えるより他に無かった。
この日、二人の女がお白州に座り、大岡を待っていた。
二人の間には、小さな男の子が座っている。
どうやら、月に数度は出てくるお決まりの裁きのようだ。
勿論、裁かれる側は、奉行所など初めて立ち入り、不安で一杯なのだが、裁く側では既に飽き飽きしていた。
やがて襖が開き、大岡が姿を現した。
「さて……いつもの奴であるな。では、いつもの様にせよ」
「はっ!」
何が何だか分からないうちに、二人の女と子供は立たされ、子供の手を握らされている。
大岡が、片膝を立てて扇子で顔を煽ぎながら、説明をした。
「綱引きと同じだ。引っ張り寄せた方の子供と認める」
呆気に取られていた女達も、ようやく我に返った。
そう、これが有名な越前裁きだ。子供の痛がる姿を見て可哀想に思い、早く手を放した方を、母親と認める。
既にこの話は有名になり、江戸中に広まっている。当然、女達も聞き及んでいる。
同じような判例も多く、今では引っ張り始めた後、いかに早く手を放すかを競うような有り様だった。
「では、始め!」
大岡の怒声が響いた。
しかし……女達はどちらも、引っ張ろうとしない。
離すまでの時間が短ければ短いほど良いのなら、最初から引っ張らない方がより良いに決まっている。二人とも、そう考えていたのだった。
だがそれでは、そもそも勝負にならない。
「そなたらは、子供を引っ張らぬのか」
「お奉行様、恐れながら、私がこの腹を痛めて産んだ子供でございます。腕を引っ張って痛がらせるなど、とてもできませぬ」
「私も同じでございます。血は繋がらなくとも、長年育てた、可愛い子供でございます。痛い目には遭わせとうありませぬ」
「そうか……」
予想と違う展開に、大岡はしばらく悩むような表情を見せた。
しかし、それも束の間。立ち上がって背筋を伸ばし、張りのある声で言い渡した。
「では二人に申し渡す。子供は、この大岡越前守忠相が養子として引き取り、育てるものとする」
「そ、そんな!」
「お奉行様、酷うございます!」
「よく聞くがよい。お前は自分が産んだ子供がいなくなり、子供一人分、損をする。お前は、育てた子供がいなくなり、子供一人分、損をする。私は、自分の子でもないのに引き取ることになり、子供一人分、損をする。三方一両損ならぬ、三方一人損である。これにて一件落着!」
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