No.34    
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漆黒斎の庵
(C)1998 - 2011 漆黒斎

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直前 の戯言集(第33集)
   


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時間論
2008/12/08   
この夏、音について思う 2011/07/25
今年の読書
2008/12/08


本の話
2010/12/12


歌舞音曲の自粛
2011/03/27




時間論
このところ昔買った時間論関係の本を引っ張り出して集中的に読んでいる。問題系としてはゼノン、アリストテレスの昔から、現代物理学に至るま で、長く研究されている領域 だ。認識論的にも、存在論的にも興味は尽きない。
例えば「今」とは何だろう、とか、運動と時間の関係は、とか時間と空間の在り方は、とか考えれば考えるほど頭が痛くなってくるくらい難しい。 絶対空間と絶対時間というニュートン式の把握でも、カント的にアプリオリな形式なのでどうしようもないと考えても、何だか釈然としない。普段の生活の中 で、例えば「今」ってどの程度の広がりを指して言っているのか、など自分自身の認識を反省してみても結構ばらばらだったりする。記憶と認識など、時間が先 験的にあってのことか、人間が作り出した概念形式なのか、運動って何?なんて、深みにはまることになる。う〜ん、面白いけど、あまり悩んでると社会生活が まともにできなくなりそうなので、適度に考えることにする。

今今と今と言う間に今ぞ無く今と言う間に今ぞ過ぎ行く
今年の読書
今年はあまり本を読んでいない年になった。ライブにも殆ど行けず、総じてエンタテイメント不足というのか、精神的に余裕がなかったのかな。 ちと遺憾ですね。
通勤乱読の方には取り敢えずタイトルだけの更新をかけておいたが、京都 関係のガイドブックと、岩波講座哲学が主になってる。
京都関係は旅行のお供、岩波講座哲学は買ってはいるものの斜め読み状態。まぁ、そろそろ読んでいきましょ。
本の話
2年ぶりの更新です。Mixiの日記とか、どこぞのブログとか、Twitterとか、 使途をきちんと定義しないまま、複数メディアに何か書いてると、どうも発散していけませんね。
漠然と、(1) 思いつき⇒Twitter、(2) 日記⇒Mixi、(3) 少しまとまった感想とか話題とかはここ、が良いかな〜、とようやく固まりつつあります。音楽、読書感想文はそれぞれMusicReviewと通勤濫読へ (書いてないけど)。

で、本題です。
久しぶりに紀伊国屋書店のアカウントを見に行ったら、まぁ、お奨めの本が山のように (1620冊ほど)溜まってた。「  『現象学の理念』 エトムント・フッセル 」なんて、なんと魅惑的な響き。フッサールじゃなくてフッセルですよ。
このところ、新しい本を買わずに、昔買った本を再読しているので、通勤乱読の方は増えていない。有態に言えば、経済的ににちょっとね、という感じもあった ので、少し抑えていたのだが。
しかし読みたい本はそれこそ山のようにある。あるのだが、若い頃と違って、一度読んだら話題のページ数まで記憶しているなんてことも出来なくなってきてる ので、いきおい、一冊読むにも時間が掛かってしまう。
真剣に命と戦っている人には大変失礼だが、綾小路なんとかの言をもじって、残りの人生、あと何冊本が読めるか、なんて考えると、今すぐにでも仕事を辞めて 読書三昧の生活をしたい、とか不遜にも考え てしまう。そんなことやったら、本に埋まって飢え死になのだが。
で、そもそも何故本を読むか、というと、好きだから、としか答えようが無い。いろんなことが知りたい、という百科全書的な欲求みたいなものなのだろう。別 に、 知っているからといって偉い訳でもなし、たまに興味を持って聴いてくれる人がいたりすると、それは嬉しいが、基本的には自己満足以上の何物でもない。

ただ、よろしくないのは、読書三昧は音楽三昧と同時には出来ない、本を読みながらでは音楽を(ライブは間違いなく)聴けない、ということだ。これは拙輩に とっては、非常に重要で、あと何冊の本が読め、あとどれだけの音楽(例えば何枚のCD)が聴けるか、かけられる時間比率を同等にした上で、平均余命から生 活時間を差し引いて、純粋に使える時間でもって推算してみようかと、今ちょっと本気で思った。
(Dec. 12, 2010)

歌舞音曲の自粛
被災地、被災者の方々には心よりお見舞を申し上げます。
さて、 このところライブが中止になったり、その他イベントが延期になったりと、所謂「自粛」ムードが高い。倒産に追い込まれたイベンターも居ると聞く。また、独 立自営のミュージシャンにとっては重要な収入源が絶たれてかなり困難な状況があるとも。
歌舞音曲を控える、と言えば、かつての大喪の礼の時期がそうだった。この種の自粛については、権力側の(って言い方古いな)婉曲な要請で「自粛」した側面 が大きいと思うが (だいたい「自粛」を要請って何だ?要請しなくてもやるから自粛なんだと思うのだが、それはともかく) 、それに対しては、反権力の主張で反対することも当然可能であった。勿論、おばかが何でも反権力とか言っているのは問題外だ。そういうのには、節度、とい う日本語があることを示唆すれば事足りるであろう。

だが、今回は節電という実態的効果を伴うことから、無視するわけにもいかないのが難点だ。加えて、音楽イベントなどはチャリティーであるべき、というな ムードもあるそうだ。もしそうであれば、広く所謂芸能人と呼ばれる方々にとって、とくに若手のミュージシャンなど、死活問題である。半ば二次災害にあって いるようなものだ(芸人がこの時節に仕事するなんざ不埒、とかいう輩は、パトロンとしてちゃんと面倒を見るべきだと個人的には考える)。に対して、それぞ れの人々がそれぞれの立場できちんと活動すべき、という主張はどうも旗色が悪い。道徳的倫理的圧力というのは、ある意味正論であるだけに始末が悪いのだ。 善意の強要という、殆ど形容矛盾な事態が、割合堂々とまかり通っている。
言っておくが、ボランティアが怪しいとか(そういうのも居るが)、そういうことを一般論として言い立てたい訳ではない。

※歌舞音曲の停止については、「京の音」に詳しい

この夏、音について思う
そういえば、これまでずっと一戸建で暮らした経験が殆ど無い(今の田舎の家は戸建だけ ど殆ど居たことがない)。で、まぁ長屋暮らししてると、例えばお隣の 若夫婦のお宅から生まれたばかりの赤ちゃんの泣声が聞こえたり、生活音が聞こえたりというのは当たり前のこと。この夏は窓を開けてることが多くて、そ ういう音や、車の走行音、蝉の声やら鳥の声(家の近くには結構野鳥が居る)、子供たちの声、などなど、様々な音がよく聞こえる。サウンドスケープなんてい うほど大それた受容の仕方をしている訳じゃないけど、世界が音に満ちているのを改めて感じている。

子供の頃はいつもこうだった。当時住んでた県営住宅は平屋の四軒長屋。2DKくらいの間取りで、同じような年齢層の家族が住んでた。お隣のおじさんやおば さんや、同級生の声。何でも筒抜けだった。それから、豆腐屋さんの喇叭、パンの行商(ロバのパンじゃなくて、町のパン屋さん)のおばぁちゃんのベルの音。 そういう音たちをとても懐かしく思い出す。
こんな生活に根ざした音を、いつからか単なる騒音としてしか聞かなくなったというのは、実は悲しいことなのだ、きっと。効率とか経済性だけを追求して、豊 かになった気になっていただけなんだろう。でも、耳は寛容を失くしてしまった。聞く耳を捨てたことで、消えてしまった音はいったいどれだけあるのだろう。

(Jul. 25, 2011)


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