2年ぶりの更新です。Mixiの日記とか、どこぞのブログとか、Twitterとか、
使途をきちんと定義しないまま、複数メディアに何か書いてると、どうも発散していけませんね。
漠然と、(1) 思いつき⇒Twitter、(2) 日記⇒Mixi、(3)
少しまとまった感想とか話題とかはここ、が良いかな〜、とようやく固まりつつあります。音楽、読書感想文はそれぞれMusicReviewと通勤濫読へ
(書いてないけど)。
で、本題です。
久しぶりに紀伊国屋書店のアカウントを見に行ったら、まぁ、お奨めの本が山のように
(1620冊ほど)溜まってた。「 『現象学の理念』 エトムント・フッセル
」なんて、なんと魅惑的な響き。フッサールじゃなくてフッセルですよ。
このところ、新しい本を買わずに、昔買った本を再読しているので、通勤乱読の方は増えていない。有態に言えば、経済的ににちょっとね、という感じもあった
ので、少し抑えていたのだが。
しかし読みたい本はそれこそ山のようにある。あるのだが、若い頃と違って、一度読んだら話題のページ数まで記憶しているなんてことも出来なくなってきてる
ので、いきおい、一冊読むにも時間が掛かってしまう。
真剣に命と戦っている人には大変失礼だが、綾小路なんとかの言をもじって、残りの人生、あと何冊本が読めるか、なんて考えると、今すぐにでも仕事を辞めて
読書三昧の生活をしたい、とか不遜にも考え
てしまう。そんなことやったら、本に埋まって飢え死になのだが。
で、そもそも何故本を読むか、というと、好きだから、としか答えようが無い。いろんなことが知りたい、という百科全書的な欲求みたいなものなのだろう。別
に、
知っているからといって偉い訳でもなし、たまに興味を持って聴いてくれる人がいたりすると、それは嬉しいが、基本的には自己満足以上の何物でもない。
ただ、よろしくないのは、読書三昧は音楽三昧と同時には出来ない、本を読みながらでは音楽を(ライブは間違いなく)聴けない、ということだ。これは拙輩に
とっては、非常に重要で、あと何冊の本が読め、あとどれだけの音楽(例えば何枚のCD)が聴けるか、かけられる時間比率を同等にした上で、平均余命から生
活時間を差し引いて、純粋に使える時間でもって推算してみようかと、今ちょっと本気で思った。
(Dec. 12, 2010)
そういえば、これまでずっと一戸建で暮らした経験が殆ど無い(今の田舎の家は戸建だけ
ど殆ど居たことがない)。で、まぁ長屋暮らししてると、例えばお隣の
若夫婦のお宅から生まれたばかりの赤ちゃんの泣声が聞こえたり、生活音が聞こえたりというのは当たり前のこと。この夏は窓を開けてることが多くて、そ
ういう音や、車の走行音、蝉の声やら鳥の声(家の近くには結構野鳥が居る)、子供たちの声、などなど、様々な音がよく聞こえる。サウンドスケープなんてい
うほど大それた受容の仕方をしている訳じゃないけど、世界が音に満ちているのを改めて感じている。
子供の頃はいつもこうだった。当時住んでた県営住宅は平屋の四軒長屋。2DKくらいの間取りで、同じような年齢層の家族が住んでた。お隣のおじさんやおば
さんや、同級生の声。何でも筒抜けだった。それから、豆腐屋さんの喇叭、パンの行商(ロバのパンじゃなくて、町のパン屋さん)のおばぁちゃんのベルの音。
そういう音たちをとても懐かしく思い出す。
こんな生活に根ざした音を、いつからか単なる騒音としてしか聞かなくなったというのは、実は悲しいことなのだ、きっと。効率とか経済性だけを追求して、豊
かになった気になっていただけなんだろう。でも、耳は寛容を失くしてしまった。聞く耳を捨てたことで、消えてしまった音はいったいどれだけあるのだろう。
(Jul. 25, 2011)