看護管理2001年7月号<私が休日にであった本>

「わからない」という方法

橋本 治著(集英社刊)

  「わからない」から始めよう

 本屋に行ってタイトルに引かれ、平積みの新刊本の山から1冊の本を手に取る。そうしてもらえる数少ない本は、お客の何かをくすぐるメッセージをタイトルで呼びこむ。「知りたい」という欲求がある人間が本屋にくるわけだから、「わからない」が方法だ、なんて叫んでいる本を見つけると、「何、それ」とまんまと引っかかって、めくってしまうのである。手にとったのは『「わからない」という方法』(集英社刊)。著者は橋本治。くどい文章だなあと思いつつ、やっぱり読みたくなって買う。
 学生運動最高潮の1968年、東大安田講堂に立てこもった学生にキャラメルをもって説得に来た母親を「キャラメルママ」とマスコミは揶揄した。これを皮肉って、駒場祭ポスター「止めてくれるなおっかさん、背なのいちょうが泣いている」を描いた東大生が、イラストレーターとして注目された。この人こそ橋本治である。彼は小説、評論、戯曲、古典の現代語訳、芝居の演出、果ては、ばかばかしいほど何も編物を知らない人むけの『男の編物−橋本治の手トリ足トリ』という150枚のイラストつき「セーターの編み方」本を出すなど、何にでも手を出す憎めない顔をしたおっさんである。
 この本は、おちょくりを楽しみながら、「わからない」から何でも始めてしまう男の、真面目な凝り性ぶりが描かれている。頭の考える「正解」を求めてやっきになることを、とうの昔に忘れてしまった私にとっては、実に愉快な本なのであった。
 脳は「わからないこと」を、「わからない」とすぐに排除してしまい、しまっておくことができない。脳はわかることが使命だと勘違いしているので、今わかることしかわからない。しかし、身体のほうは「わかんないもんは、わかんないで、しょうがないじゃん」と、とりあえず受け入れる。そして、身体がさてどうしようかと考えたとき、「わかること」だけしか受け入れていなかった脳に聞いても「わからない」ので、あてにできない。そこで、「わからない」ことからはじめた身体は、身体で「考える」のである。そう、身体も考える。それから表現する。
人間は経験することで、長い時間をかけていろんな能力を我が身に宿らせている。脳はそれを引き出すに過ぎない。私流に言えば、教育というのは、からだに教えてやることだし、からだの中で育てていくものなのだ。脳に必要なのは、その整理の仕方と引き出し方の訓練である。
「わかっている」ことはわずかで、「わからない」ことは膨大である。まずは、「わからない」と言いきるところから、さまざまな探求がはじまる。私の娘が進路を考えているとき、夫が「どんな仕事がしたいか良く考えるといい」といった。娘は、「えっ、私、何かの職業を得たいから大学に行くわけじゃない。私は知らないことを知りたいの。私には知らないことがたくさんあるの」と答えた。知りたい、知りたい、もっと知りたいという。 
 訳知り顔の大人たちは、何にも知らないくせに、「こんなもんよ」と投げてしまう。「もっともっといろんなことが知りたい」といっていた娘は大学を終えようとするにあたり、本当に自分が知りたいことは何なのだろうと立ち止まって考えている。大丈夫。本当に必要なことはちゃんとからだに刻まれているから。身体はゆっくりと考えて、何をしたらいいのか知っている。からだに聞けばわかるよ、と私は今、娘を見守っている。
 「わかった」顔をしないと、おいてけぼりをくったりはしないか、仲間はずれになりはしないか。そんなバカバカしい悩みを抱えている人がたくさんいる。堂々と胸を張って「わからない」から始めればいいのよ。