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人生生きている限り感動あり、驚きあり、ただ、テレビ、パソコン等により世界の出来事が瞬時に見える情報過多の時代。

また、年とともに感動が薄れつつあるこの頃、現在、過去を振り返り綴る。

感動:深く物に感じて心を動かすこと。

驚き:おどろくこと。びっくりすること。

人生における感動!驚き!

年 月 日

項  目

出  来  事

13..11

米で同時多発テロ

平成13911日、米国の貿易センタ-ビルへテロに乗っとられた民間航空機が激突、続いて隣のビルに同じく、民間機が突入。国防総省、ペンタゴンにも民間機が突入、未曾有の被害。

まさに、衝撃的な映像は、テレビで全世界に放送された。ビルから飛び降りる人、ビルの崩壊、まさにどんな映画も及ばない悲惨な光景。誰もが憤りを感ずるより心が凍る許されない光景。

まだまだ、世界には、力と力のぶつかり合う恐ろしい現実を直視せざるを得ない光景を見た。超大国アメリカの威信が傷つき、報復は時間の問題である。

闘争、戦争のない社会、世界は、本能的に戦いの、闘争心のある人間には、無理?

52.8.4 

北海道!

真夏に雪が降る? 

昭和5284日、敦賀からフェリ−に乗船して30時間、小樽に上陸した?初めて見る北海道、ついに来ましたとの心境。車には、米60kgを積み込んでいた。出発に当り、北海道の米はしばらく慣れないと食べれられないから持って行った方がいいよ。持っていった米と北海道米を混ぜて食べなさいとの先輩の忠告を忠実に守って。

当時、札幌が160万の大都市との認識がなかった笑い話!あれから20年余186万の都市に・・・・・。

札幌が6大都市の一つで東京からすぐ何でも直行する大都市の認識がない人もいた時代である。小樽から札幌に向かう時、からふるな赤、青、黄色、何でもありの屋根の色、黒い瓦屋根になれた私にとって、それは、異国の地に来た?位驚きでした。

札幌の街が、素晴らしいと思った第一印象は、交差点において、東西南北で「案内標識」を示してあること。「東415」と漢字が読めれば間違いなく目的地に到着する。碁盤の目の街だからこそ出来る芸当?確か京都も碁盤だが?

到着の夜8時頃、買い物帰りの途中、何か白いものが降ってきた。「北海道はすごい真夏に雪が降る!」と本当にそう思った。その内、ワイパ-を最大にしても段々見えなくなり路肩に停止してその雪?なるものを拭くと何と灰みたいなものであった。通行車は、全て停止して、その灰みたいなものが降り止むのを待つことに、10分程度降り続き、ようやく止んで無事帰ることが出来た。

北海道って変なものが降る位の認識で、到着したばかり、テレビもなく、旅の疲れで寝てしまった。明くる朝、起きてびっくり、車が真っ白、近づいて見ると何と灰である。

何と有珠山の爆発がお出迎えの花火!初めて北海道に到着した懐かしい思い出である。

 

 

13.3.某日

 

紫の富士山

昭和367月頃、朝の5時頃、富士山が紫!たまたま、知人と富士山の話題。紫の富士山の話をすると「寝ぼけていたのだろう。」とのこと。富士山のhpにめぐり合い、捜したところ、なし。掲載をお願いしたところ3ケ月後プロ写真家から譲り受けたとのことで送付して頂いた。

感謝!感激!そして、H16.12.吉日、本栖湖で撮った貴重な富士山の写真を!!!(サムネイル*クリックして下さい。)

fujiaka.jpg (25578 バイト)

 

 

 

20.7.4

 

 

 

徳島大空襲(5歳の頃)

太平洋戦争において、日本が無条件降伏をしたのが昭和20815日。

徳島大空襲が戦争終結約40日前。サイパンから飛び立った米軍B-29爆撃機の編隊が4日未明(米軍記録午前124分から319分)徳島市の上空に。迎え撃つ戦闘機?高射砲?不明。

焼夷弾なるものバラバラ・・・・。父親は、こんな一大事に不在。空襲警報のもと、始めは防空壕に、その内、中にいると焼け死ぬぞとの大声に母と私、妹に親戚の17歳の兄貴。外に出ると家々が燃えている。

その赤い炎は今でも脳裏に焼き付いている。逃げまどうとはこのこと。途中、17歳の兄貴は消火中の消防団に捕まった。消火を手伝えと・・・・・。

妹は、母親の背中に、私と母は必死でどこをどこえでなく、無我夢中で・・・・・・。赤い炎、炎の連続だけが記憶にある。

次なる記憶は夜明け前、学校のグランドらしきところ、「お-い・・・。お-い○○ちゃん。」の声がいたるところで響く肉親捜しの声また声。その日のことを亡き母にもっと聞いておけばと今思う。

家は跡形もなく焼失。(見ていないがそのまま、親戚の家へ疎開。)私の5歳までの写真は後に親戚の人からもらった母親に抱かれた1歳位の1枚だけである。(徳島空襲:死者1000人、負傷者:2000人)

前の家の富田幼稚園の同級生「けんちゃん」とは永久の別れ?テレビで久しぶりの番組があったら応募して見たい?その日、「けんちゃん」は、どんな行動をしたのか。空襲警報のたびに、先生に引率され、帰ったこと。防空ズキンなるものを被り、そのズキンに名前と血液型A型と書いていたことが記憶に残っている。

後に血液型を調べた時に間違いなくA型の確信があり、そのとおりであった時、何となく安堵した記憶がある。

火災の心配は人一倍:空襲後遺症かも?

 

 

S20.8.

初めて見る米軍

昭和208月、当時徳島市蔵本にあった旧日本軍の連隊跡に米軍が進駐してきた。

叔母の家にいた5歳時の記憶で一番残っているのが始めて見る米軍である。

今、はなを垂らしている子供はいないが当時子供の多くは、はなを垂らし、ずるずると出したり入れたりする芸当が出来た。米軍兵士か将校か定かでないが「ヘ−イ!カモン!」等と言って子供たちを呼んだ。

我々子供にとって、見たこともないチョコレ−ト、チュ−インカ゜ムをくれる米軍は、まさに驚きであった。

必ず鼻に手をやり「オ−ノ-」ではなを何とかしろの仕草。言われるとずるずる鼻の奥に入れるがまた、出てくる。また、「オ−ノ−」の繰り返し。その内、葉巻かタバコを取り出し赤いマッチ(当時、日本には、黒いマッチしかなかった。)を出し、靴底で擦ると赤い炎が・・・・・・・・・?

ジ−プなるものを見た。あちらの路地、こちらの路地にシ゜−プが巡回?見学?

大型トラックの大きさ、その高さ、トラックはほとんど見かけない時代。お化けに見えた。そのトラックのダブルタイヤ、今時、そんなものは、珍しくないが初めて見るダブルタイヤにびっくり。

時には、荷台から、箱などばらまいて、日本人が先を争って拾う姿は、戦争に負けると嫌だなあと子供心に今も印象深く残っている。蔵本の叔母の家はB-29の爆撃を免れた。

軍の連隊の近くなので一番に空襲を受けると覚悟していたが徳島大空襲において、米軍は、進駐する場所の確保まで計算に入れた余裕の爆撃?

 

 

26

S29

38

 

 

 

初めて見たカラ−映画

白黒テレビカラ−テレビ

今、DVDなるものが素晴らしいとのこと。雑誌で友達が教えてくれるが見ていない。迫力あるというが感激までいくかどうか?情報社会は、見ていないものでも見たような錯覚を起こし感動が薄らぐ気がする。

カラ−映画は、昭和26年、小学校6年生の時に見た記憶がしたが調べて見ると間違っていた。中国戦線の純愛物語の最後のシ−ン、機関銃で2名が撃たれるラストシ−ンが強烈でカラ−映画とばかり思っていたが白黒であった。

その映画の題名が最近判明した。「李香蘭、私の半生」を読んでその映画の題名が「暁の脱走」で出演者が池部 良と元、李香蘭こと山口 淑子であることが。しかし、カラ-映画は、昭和263月、松竹の「カルメン故郷に帰る」であり、時期的には間違っていないのを確信した。

何れにしてもカラ−なるものにびっくりした。今の尺度では考えられない時代であった。

初めての白黒テレビは、昭和29年、中学3年生、隣の町の電気屋さんまで自転車で見に行った。当時、お好み焼きの値段は、卵入りが30円、卵が入っていないのが10円(うどん粉にやたらとキャベツが多く今、食べれない気がする。)当時はご馳走?)そうそう卵は当時、貴重品扱い?かき氷、キヤンデ-5円の時代。テレビは50万もする庶民には高根の花?

私が白黒テレビを買ったのが昭和42年。本題のテレビには、山のような人だかり・・・・。力動山のプロレス中継、素晴らしいものが出来たことに感動した。カラ-テレビは、それから10年、昭和38年、シャボンダマホリデ-なる番組で今のカラ−テレビからは想像も出来ない程、赤、青、黄色の3原色主体のものであったが色がついていることに感激した。

 

 

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