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部屋に戻ると嗅いだことのない不思議な匂いがした。 マイクロトフは訓練の汗を拭きながら部屋の扉を少しだけ隙間をあけて閉じ(全部閉めると暑いのだ)、部屋の中をぐるりと見まわした。 時刻は夕方。まだまだ残暑の厳しい頃である。 部屋の中には当然というか何というか、カミューがいる。ちなみに彼の部屋はこの隣だ。 「……カミュー、何の匂いだ」 「お帰り」 「ああ、ただいま」 「ほら、そこそこ」 「………………?」 カミューの指した方向に視線をやると、煙を上げる小さな三角錐の物体が目に入った。これはそう…お灸に良く似ている。しかしまさかカミューともあろう者が部屋でお灸を焚くはずはない。いや、カミューでなくとも、部屋でお灸などを焚いていればまず、頭の心配をされるのがオチだろう。 「カミュー、これは…?」 「ああ、今日さ、レストランでジーンどのと会ってね。暑いですねと話していたら、暑気払にはこれがいいとおっしゃって、そう言うわけで頂いてきたのさ」 「それは分かったが…これは何だ」 「なんだって…見たまんま。お香だよ」 なるほど、言われてみればもっともだ。女性などが文に香りをつけるときに使うという、噂に聞くお香がこれか。しかし騎士団という男所帯に育ったマイクロトフには、お香なんて洒落たものにお目にかかった経験はない。家庭にいた時には母などが使っていたのだろうが、興味もなかったため注意して見たことなどなかったのだ。 マイクロトフはしげしげと煙を上げる三角錐を眺め、すうと匂いを嗅いでみた。どことなくエキゾチックな、ねっとりと甘い香りがまとわりつくような暑い空気と混ざり合い、まるで違う部屋に入りこんだかのような錯覚に陥りそうになった。 「……何の匂いなんだ?」 「バニラって話だけど、ジーンどのによると、『ちょっと変わったバニラ』だそうだ」 「…ちょっと変わった…?」 「いや、バニラのくせにバニラの匂いがしないんだってさ。確かにちょっと変わってるよな」 はははと笑ったカミューにマイクロトフはあきれてしまう。バニラの匂いがしないのならば、それはバニラとはいわないだろう。そして、ああそういえばあの女性の紋章の店はいつも甘い香りがしていたが、この匂いだったのだなと納得した。彼女には良く似合う、どこか艶かしい香りだ。 「しかし、なぜこれを…」 「温度が高い方が香りが広がるんだって。気分転換にちょうどいいだろ」 「なるほど…。…しかし、お前がもらったものをなぜ俺の部屋で使っている。ついでになぜお前が俺の部屋にいるのかも聞いていいか」 「無粋なことをいうなよ。一人でお香なんて焚いててもつまらないじゃないか」 カミューの言葉にマイクロトフは首を傾げる。なるほど、と納得しそうになったが、良く考えるとまったく意味が分からない。なぜ無粋なのかも分からないし、一人でお香を焚いていてつまらない理由も分からない。が、きっとこれは聞かない方がいいだろう。聞いてもさらに理解不能なことを言われるに決まっているのだ。 カミューはマイクロトフの困惑などよそに、天井に顔を向けたまま目を閉じている。ちなみに今彼が座っているのはマイクロトフの椅子だ。マイクロトフは仕方なく、自分のベッドに腰を下ろした。 と、カミューが目をあけ、視線をマイクロトフに向けてくる。 「まあ、我々…というか、お前には似合わない匂いだがな」 「よけいな世話だ。似合いたくもない」 「確かに。これが似合う男ってのもちょっと怖いしな」 お前には似合いそうだがなとマイクロトフは心の中で突っ込み、いやいやと首を振った。カミューに似合いそうなのは、もっと気障な…、そう、薔薇とかそういう匂いだ。この匂いがカミューに似合うといってはジーンに失礼である。 相棒がそんなことを考えているとは思いもしないカミューはふと、開け放ったままの窓を見た。 「……カミュー?」 マイクロトフが呼ぶと、カミューは唇に人差し指を当て、小さく笑った。マイクロトフは何事かとカミューに歩み寄り、そして窓の外を見る。 「なんだ?」 「窓の外。聞いてごらん」 「?」 言われるまま耳をすましみると、暮れかけた空の下で虫たちがしきりに歌っている。いまだ空気は暑いのにその音色だけはやけに涼しげで、ああこの暑さもずっと続くわけではないのだなとマイクロトフは今更ながらに気がついた。 「もう秋の気配か」 「そうだね。暑いなあと思っているうちに、あっという間に涼しくなるよ」 「そして冬か。ここの冬はどんなものなんだろうな。雪は降るのだろうか」 「さあね、でも、湖畔だから積もりはしないんじゃないかな」 マイクロトフは窓際に歩み寄り、虫の鳴く草むらを見下ろしてみた。しかしもちろん虫の見えようはずはなく、まるで草むらが涼しげに鳴いているように思えた。 「どこでも虫の鳴き声は一緒なのだな」 「ああ…。鳥なんかは違う種類がいるようだけど」 「そうなのか?」 「ああ。見たこともない鳥がいたよ。南のほうから渡ってきたのかもしれないね」 「そうか…」 マイクロトフはまだ草むらを見下ろしている。カミューも立ちあがり、マイクロトフに並んで草むらを見下ろした。先ほどまで青かった空はいつの間にやら濃紺に染まっている。空の端がうっすらと橙色に燃えていた。 「何だか夏が長かった気がしたけど、あっという間に秋だね」 「過ぎてみるとそんなものなのだろうな」 「まったくだ。…しかしまだ暑いなあ…」 そう言いつつも、カミューはマイクロトフの肩にもたれ満足げだ。マイクロトフは眉を寄せ、肩を揺すった。 「暑いのなら離れていろ」 「こういう暑さは大歓迎。もっと暑くてもいいくらいだ」 「俺は嫌だ。…カミュー」 抗議の言葉に笑い、カミューはマイクロトフを抱き寄せた。窓から見えない場所まで引っ張ると、カミューは尖っているマイクロトフの唇に口付け、また笑う。マイクロトフは変わらず苦い表情ではあったが、その頬は薄く朱に染まっていた。 カミューはふっと吐息をつき、マイクロトフの胸に顔を埋める。 「行く夏を惜しむ、か。もう少し涼しくなったらなぁ…」 「たしかにな。まだ惜しむというよりは、早く行ってもらいたい気持ちの方が大きい気がする」 「うん。…あんまり触らせてくれないからつまらないし」 「……おまえはまた、そんな事を…」 呆れ口調でそういったマイクロトフにカミューがにっこりと笑む。 窓の外では虫が涼しげに合唱を繰り広げていた。 夏もあと、少しである。 |