健康第一




 カミューは朝から憂鬱だった。

 ここはとある大病院の内視鏡検査室の待合室。
 カミューは会社の健康診断で引っかかり、再検査のためにこの病院を訪れていた。引っかかったのは胃の検査。そのため、今日は胃カメラを飲まなくてはいけない。
 再検査の通知がカミューの元に届いたとき、周りの人間たちが「まさか、おまえがなー」とはやしたてながら、聞きもしないのにいろいろと胃カメラにまつわる話をしはじめた。だが、誰もが誰も、「もう二度とやりたくない」と口をそろえて言うのがお決まりで、いい話などひとつもない。そんな中、年に3回は胃カメラを飲むという同期のフリックは「慣れればたいしたことないさ」と儚い笑みを浮かべて励ましてくれたが、慣れるつもりなど毛頭ないカミューにとってそれがなんのなぐさめになるだろうか。

 検査室の前の待合室にはカミューを含め、数人が座っていた。廊下を行き交う人々の会話や足音、病院内の放送などで周囲はずいぶんと賑やかなはずなのに、ここに座っている人間の誰もが表情も暗く、無口である。まるでこの待合室だけ別世界に隔離されているかのようであった。確かに苦しい苦しいと言われている検査を誰が楽しみに待つであろうか。そんな雰囲気の中で待っているカミューも自然、緊張し、不安が膨らんできた。
 健康診断を受けた頃はちょうど決算時期で多忙を極め、生活が不規則になっていた。受診する前後数日間は、なんとなく空腹になると胃が少し痛むような気がして、ひょっとしてストレスで胃をやられたのではないかと思ったりもした。しかし、忙しい時期が過ぎると体調も元に戻り、検査結果がくるまですっかり忘れていたのだ。
 今はなんともないのだから胃カメラを飲む必要なんてないじゃないか、と思う一方で、これでもし胃潰瘍にでもなっていたら、原因は絶対にあの仕事もロクにできないくせに威張り散らしてばかりいる上司のせいだ、と思う。もし、胃に穴でもあいていた日には、あの男をちくちくといびってやる、とカミューは心に決めた……。

「カミューさん、お入りください」

 とうとう名前を呼ばれ、カミューは緊張した面持ちで検査室に入った。すれ違いに出てきた中年の男性はうつむき、重い足取りであることにカミューの緊張はいっそう高まる。
 検査室の中は奥のほうがカーテンで仕切られ、手前にはいくつかの椅子が並んでいた。カーテンの向こうからアヤしい機械音が聞こえてくることから、どうやらそちらが胃カメラを飲む場所らしい。
「こちらにお座りください」
 看護師に促されるがままに丸椅子に座ると説明がはじまった。
「まずは注射しますので肩を出してください。体質によっては心臓がどきどきしたり、呼吸が荒くなったりすることもありますが、もし、そんな症状が出ても大丈夫ですので慌てないでくださいね」
 そんなことをさらりと言われ、カミューは内心、ぎょっとする。慌てるな、と言われても、そんな症状が出たりするなんて、なんの成分が入っているのか。だが、この注射は検査を受ける全員がやっていることなのだから看護師の言うとおり大丈夫なのだろう。カミューはちょっと不安を抱えつつも、この年で注射を怖がっていると思われては恥だと表面上は涼しい顔を装って肩を出して注射を受けた。すると、カミューはそういう体質にあてはまらなかったのか体調に変化は見られない。
「次はこれを飲んでください」
 ホッとする間もなく差し出された紙コップの中には半分くらいの量の液体が入っていた。なんだろう、と中を見ていると、
「胃をきれいにする薬です。全部飲んでくださいね」
 と、言われ、カミューは一口飲んでみる。甘いようなしょっぱいような微妙な味がしたことから、深く考えるのはやめて、ええい、と一息に残りを飲み干した。次に看護師は瓶に入った水あめのような液体をスプーンで掬い、
「口を開けてください」
 とスプーンを口の中に入れ、舌にどろりとした液体を落とす。なんとなく甘い気がした。
「これは麻酔ですので、なるべく口の中に溜めておいてください。咽喉の奥に流れたきた分は飲んでもかまいませんので」
 看護師の言葉に答えようとしたが、口の中に溜めておく、となるとしゃべるわけにもいかない。カミューは軽く頷いて口の中の液体を飲み込まないように極力努力した。それが終わるといよいよカーテンの奥に通される。カーテンの奥は薄暗く、ベッドがあり、その傍らには難しそうな機械が置かれていた。その物々しい雰囲気にカミューの緊張が一気に高まる。
 看護師に促されるがままベッドに横たわると目の前に医師が立った。口を閉じられないように硬いマウスピースみたいなものを噛まされ、さりげなく看護師に身体を押さえ込まれる。ベッドに横たわっているため白衣の腹のあたりしか見えなかったが、これからひどいことをしようとする医者の顔になどわざわざ見上げてまで見るつもりはない。カミューの目はその手に握られた黒いホース状のもの……胃カメラに向けられていた。思っていたより細いような気がする。これならなんとか耐えられるかも……と思い始めたとき、
「それでは、はじめます」
 凛、とした声と共に口の中に管が入れられた。その後の苦しみはカミューの想像を絶するものだったのである……。



 あんなの……人間が飲むものじゃない……。

 ようやく検査が終わったカミューはぐったりと待合室のソファにもたれかかった。胃カメラも進歩し、ずいぶん細くなったと聞いていたし、若い頃、酒を飲みすぎて具合が悪くなったときに自ら指を咽喉に突っ込んで吐いたりしたこともあったため、なんとかなるだろうと思っていた。しかし、それらの想像はあまりにも甘かったのだ。
 まさかこの年にして涙が出てくるほど苦しい目に合わされるとは思わなかった。咽喉の奥でカメラが動くたびに吐き気をもよおし、しかしマウスピースのようなものを噛まされていたため口を閉じることはかなわず、げーとカエルの鳴き声のような声が出た。あんなげっぷのような声を女性看護師(まあ、年配だったから気にしないでおこう)に聞かれるなんてあんまりだ。
 苦しさのあまり生理的に目尻に溜まった涙をさりげなく拭ったカミューの屈辱は医療担当者への怒りへと変わる。あんなに苦しかったのは、きっとあの医師(顔は見てないが声を聞くかぎりでは若そうだった)の腕が悪かったに違いない。いや、ひょっとしたらサドかもしれない。こちらが死にそうな目に合っているというのに、「では、ピロリ菌の検査をします」などと、それは楽しそうに告げていたではないか。医者にはサドが多いというが、きっとあの医師もそうに違いない。

 だいたい『ピロリ菌』ってなんだよ、『ピロリ菌』って! そんなふざけた名前の菌がなんだというんだ!

 そんな理不尽な怒りに駆られつつ、検査後に「読んでおいてください」と手渡された小冊子に目を通すと、そこにはその『ピロリ菌』についての記述があった。それによると『ピロリ菌』とはまだあまり研究が進んでいないが、潰瘍の原因になると考えられている菌で、まだ下水道の設備が整っていない時代に、いわゆる『泥んこ遊び』など外で活発に遊んでいた世代に感染の可能性が高いとのことだった。よって、20代後半から40代に多いらしい。
「……十中八九、感染してるな」
 自慢ではないが、ど田舎に育ち、野生児のような子供だったことを思い出したカミューは顔を顰める。では、やはり胃潰瘍なのだろうか、いっそ入院してのんびり過ごすのもいいな、などとあれこれ考えていると再び名前を呼ばれ、検査室の奥に通された。医師が机に向かって何やら書類を書いていたが、カミューが入ってきたことに気付くと顔を上げる。

「ああ、カミューさん、お疲れ様でした」

 ずきゅーん!!!

 その顔を見た瞬間、カミューは恋に落ちた。いわゆるフォール・イン・ラヴ☆というやつである。その医師はカミューと同年くらいの『青年』だったが、なぜかカミューの好みにジャストミートしたのだ。相手が同性だということはすでに一瞬で遥か銀河の彼方に吹っ飛んでいる。
 カミューが一目惚れの衝撃に立ち尽くしていると、青年医師は不思議そうに首を傾げた。
「あの、カミューさん……ですよね?」
 反応がないのは名前を間違えたのだろうか、と思った医師が確認するように問うと、ハッと我に返ったカミューはバネ仕掛けの人形のように勢いよく頷いた。
「はい! カミュー、27歳、天秤座のB型。グラスランド証券会社の営業第3部に所属しています。年収は約500万円。もうすぐ主任の肩書きがつく予定で……」
「え? え、えと、あの……?」
 突然、矢継ぎ早に話し出したカミューに医師は目を丸くする。カミューはそれにかまわず身を乗り出し、椅子に座っている医師に覆いかぶさるようにして話し続けた。
「趣味はドライブ、特技は営業スマイル。そして……」
 カミューはそこで一旦言葉を切ると、ずい、と医師に顔を寄せる。医師は驚いたように身を引こうとするが、椅子に座っているためわずかに仰け反るのが精一杯だった。逃げられないことに医師は焦りの表情を浮かべる。何か身の危険を感じているようだった。
「あ、あの……?」
「好みのタイプはキミかな……」
 カミューは医師の顎を捉え、合コンで何人と落としてきた必殺の魅惑の眼差しで見つめた。
「あああああああ、あのっ……」
 カミューの必殺技は同性にも通じたようである。いや、普通、誰であろうと初対面の男にこんな真似をされては動揺するのはあたりまえだ。

 決まった……!

 硬直してしまっているマイクロトフを見つめ、すっかり恋の狩人と化してしまったカミューは心の中で悦に入る。
「ふふふ。こんなに赤くなっちゃって可愛いね」
「ふ、ふざけるな! ……じゃなかった、ふざけないでください! いいですか、ちゃんと検査結果を聞いてください!」
「ああ、すまない。キミの仕事の邪魔をする気はさらさらなかったんだよ。キミがあまりにも魅力的だから……。
 さあ、俺の胃はどうだったのかな? 胃潰瘍かい? それとも胃がん? キミの手で捌かれるのなら、喜んで手術でもなんでも受けよう……」
 カミューの得体の知れない迫力に押されるように医師はごくり、と咽喉を鳴らした。しかし、医師魂が己の使命を全うしろ、と囁きかける。
「い、いえ、俺は外科ではありませんので手術はしません……って、そういう問題じゃなくて、カミューさん、あなたの胃は少々荒れてますが、とりあえず問題ありません。ただ、ピロリ菌がいますので、2週間薬を服用して除菌してください」
 カミューは満面の笑みを浮かべてその言葉に頷いた。もう、自分の身体の異常など二の次である。
「じゃあ、2週間後にまた会いにくればいいのかな?」
「い、いえ、薬を飲んだらそれで終わりです……」
 有無を言わなさにような笑顔にたじろぎながら医師が答えると、カミューはわずかの間沈黙し、その後、ガーンと一気に青ざめた。
「そんな馬鹿な! じゃあ、キミに会うためにはどうしたらいいんだい?!」
「いっ、医者に会うなどと、縁起でもないことを言わないでください!」
 両肩を掴み、ガクガクと揺さぶるカミューに医師は必死に叫ぶ。しかし、カミューの耳には届いていないようだ。
「そうか! 胃に穴をあければいいんだな?! ピロリ菌を増殖すればまた検査が必要になるんだろう?!」
「なっ、こ、この馬鹿者!!」
 錯乱しかけたカミューを医師が一喝する。ぴたり、と動きが止まったカミューに医師は真剣な厳しい眼差しで正面から睨みつけた。
「健康でありたいと思っていてもかなわない人もいるというのに、進んで病気になりたいと言うヤツがいるか! 健康であることをありがたいと思え!」
 医師の真摯な説教にカミューはさすがにしゅんとなったが、上目遣いで医師を見つめるとぽつりと呟いた。
「……だったら電話番号おしえてくれる?」
「は?」
 医師の口があんぐりと開く。カミューは『の』の字を書きそうな勢いで恥じらいながらぶつぶつと訴えた。
「だって、病気にならなきゃ会えないし、病気になったら怒られるんじゃ、会う方法がないじゃん」
「い、いや、会う方法って……」
 医師は少し冷静になると、話が変な方向に向かっていたことを思い出した。さっきから好みだの、会いたいだの、わけのわからないことを言っていたが、これはいったいなんだというのか。
「……あなたは何がしたいのですか?」
 医師の問いかけにカミューの目がきらん、と光った。目にも止まらない速さで医師の手を両手でぎゅっと握り締める。
「キミと全身全霊かけてお付き合いしたい」
「はい?」
 医師は目を点にしてポッと赤くなったカミューの顔を見つめた。見た目はいい男だが、ひょっとして頭が悪いのだろうか、と心配になる。
「俺は男ですが……」
「そうですね」
「俺たち、初対面ですよね?」
「そうですね」
「………………精神科に回しましょうか?」
 医師の呆れた口調を気に留めた様子もなく、カミューはふっと笑いながら髪をかきあげた。そんなキザったらしいしぐさが様になる程度にはいい男である。
「恋の病につける薬はないのさ……」
「……馬鹿につける薬もないと言うがな」
 まともに相手をするだけ無駄だと悟ったのか、医師は机に向き直り、薬局に回す処方箋を書き始めた。
「ねえ、電話番号ー……」
「…………………………」
 幻聴、幻聴、と医師は無視を決め込んで仕事を続ける。そんな姿勢よくカリカリとペンを走らせている姿をじっと見つめていたカミューだったが、ふと背中のラインが気になって、つつ、と指で辿ってみた。
「何をするかー!!」
 全身に鳥肌が立ってしまった医師が怒鳴るとカミューはけろっと笑う。
「電話番号おしえて♪」
「……またカメラを突っ込まれたいか?」
 つい低い声で脅しのようなことを口にしてしまった医師だったが、やばい、と思う間もなくカミューがうっとりとした表情を浮かべた。
「キミになら突っ込まれてもいい……」
 ヤバイ、本物だ。
 何が本物なのかわからなかったが、医師の本能がそう告げた。
「あ、あの、お話は終わりましたので出て行ってください」
「電話番号おしえてくれたら今日のところは引き上げるよ」
「…………………………」
 にこにこと笑うカミューと睨みつける医師。根負けしたのは医師のほうだった。



「マイクロトフ、おはよー☆」
「…………………………」
 内視鏡検査担当医の名前を上機嫌で呼ぶのはカミューである。それに対し、青年医師はこれ以上ないというほどの渋い顔つきだ。しかし、カミューはそんなことはおかまいなしである。
「今日も頑張ってお仕事してね♪」
「カミュー……」
「ん? ああ、あの熊みたいな人なら、多少傷つけても頑丈だから大丈夫。思い切ってやっちゃっていいよ。心配いらないって♪」
 低い声で名前を呼ばれてもカミューは笑みを崩さない。その態度にマイクロトフがキレた。
「胃カメラ検査に付き添いはいらんと何度言ったらわかるんだ!!」
「えー、だって会いたいじゃないか♪♪♪」
 カミューは自分が何度も検査を受けるのをあきらめた代わりに、毎日のように会社の人間を胃カメラ検査に連れてくるようになった。会社で胃の調子が悪い人間が増えるように、陰でちくちくとやっているのでは、などという噂があったりするのだが……真相は謎である。


 おわり





体験談を元に赤青変換。
いや、赤青である必要があるのかと言われれば答えようがないのですが(笑)


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