最悪な日・4




 マイクロトフは熱いシャワーを浴びて頭が少しすっきりすると、改めて、自分はいったい何をやっているんだろう、と思った。
 昨夜出会ったばかりの男と一緒に飲み、部屋に上がり込んで、さらに……合意の上だったとはいえあまりにも理解不能な体験をした挙句、今は風呂を借りて、風呂から上がればどうやら朝食をごちそうになるらしい。
 自分で言うのもなんだが、真面目というか堅苦しい性格のため、ハメをはずす、という真似をしたことがなかった。昨日までの自分からはこの状況はとてもじゃないが信じられない。
 昨日は突然の解雇に打ちのめされていたため、どうにでもなれ、という思いで自棄酒を呷っていたとはいえ、こんなことになろうとは……。

 しばらく酒はひかえたほうがいいな……。

 マイクロトフは身体のあちこちに散った痕跡を眺め、重いため息を吐いた。



 浴室を出ると、なるほどいい匂いがしてきた。匂いを嗅ぐと改めて空腹なことに気付く。思えば、昨夜はほとんどつまみを頼まず、空酒ばかり飲んでいたのだから、一食抜いたようなものだった。
 濡れた髪をタオルで拭いながら匂いにつられるままに歩いていくとキッチンに辿り着く。その気配にガス台に向かっていたカミューが振り返った。
「ああ、もう少しでできるから待っててくれ」
「……何か、手伝うことはあるか?」
「いいよいいよ、ほんとにすぐだから」
 満面の笑みを浮かべた顔で言われ、マイクロトフは少し恥ずかしくなって俯く。どうしてこの男はこんなに嬉しそうなのだろうか。理由を聞いてみようかと思ったが、ふと、前に付き合っていた彼女がご飯を作ってくれたときに似たような表情だったのを思い出す。

『だって、好きな人に食べてもらえるんだもの。嬉しいに決まっているじゃない』

 そのときに言っていたセリフまでを思い出し、マイクロトフはなんともいえない表情を浮かべた。その顔を見てカミューが気遣うように声をかける。
「気持ち悪くない? 冷蔵庫に野菜ジュースがあるから飲んだほうがいいよ」
「あ、ああ……すまない」
「ヨーグルトは食後のほうがいいだろう?」
「ヨーグルト?」
 マイクロトフはあたりまえのように問いかけられた話の脈絡が掴めずに眉を寄せた。
「あれ? 知らない? ヨーグルトは二日酔いにいいんだって。乳酸菌がどうのこうのってテレビでやってた」
「そうなのか……」
 納得したように頷くマイクロトフに今度はカミューが眉を寄せる。
「ひょっとして二日酔いって初めて?」
 黙り込むマイクロトフにカミューは感心とも呆れともつかないため息をついた。
「本当に真面目な生活を送ってきたんだねぇ……」
 しみじみとした口調にマイクロトフは赤面する。何も知らない、と笑われてる気分だった。
「……悪かったな」
 唸るような低い声で呟けばカミューはきょとん、としたように目を瞬かせる。
「真面目で何が悪いの?」
「……つまらんだろうが」
「つまらなくないよ。少なくても俺はね」
 カミューはそう言って片目を瞑ってみせると、火をかけている鍋からおたまで中味を少量掬い、小皿に移してマイクロトフに差し出した。マイクロトフは反射的にそれを受け取ってしまい、とまどったようにカミューを見る。柔らかく微笑んで小首を傾げるカミューに、味をみろということだろうか、と口をつけてみた。中味は味噌汁だった。
「……美味い」
「そう? じゃあ、これでいいかな」
 カミューは笑みを深めると火を止め、食器棚に向かう。手持ち無沙汰ふうにぼさっと突っ立っているマイクロトフに、振り返りざまテーブルを指差した。
「ほら。席について」
「あ、ああ……」
 マイクロトフはぎこちなく頷いてぎくしゃくと椅子に座る。その前に簡単だが美味そうな料理が並べられていった。
「胃は大丈夫? ご飯はお湯をかけたほうがいいかな?」
 言われてマイクロトフは胃のあたりに手をあててみる。少しムカムカするが、それより空腹感のほうが強かった。腹は丈夫なほうである。マイクロトフは「大丈夫だ」と応えながら、ふと、カミューとて自分に付き合って相当飲んでいたことを思い出した。
「……おまえは大丈夫なのか?」
 マイクロトフの問いにカミューはフッとどこか遠くを見るような笑みを浮かべる。
「酒ってね……、吐くほどに強くなっていくものなんだよ」
「は?」
 マイクロトフはまぬけな声を上げた。頭の中でカミューのセリフを反芻してみて、ようやく言われた意味を理解する。呆れ返って思わずこめかみを押さえた。



 朝食はカミューの話術によって和やかなものになった。奇妙な成り行きとはいえ、ごちそうになる立場なのだから、雰囲気くらいは自分の会話で良くしなくては、と不得手なことを考えていたマイクロトフだったが、ほっとすると同時に改めてカミューの会話の巧みさに舌を巻いた。そして、昨夜、酔っ払っていたとはいえ、その日に会ったばかりの男と一緒に飲む気になったのはこのためだ、と、自分に言い訳めいたことを思う。この期に及んで、まだ、昨夜からの一連の事件はしょうがなかったのだ、という理由を無理矢理つけようとする自分を、心のどこかで否定する声が聞こえたがそれは無視した。そうしなければ自分はどうなってしまうのか怖かったのだ。

 食べ終わると2人で後片付けをした。カミューは座ってていい、と言ったのだが、これは、マイクロトフが頑として譲らなかった。そして、片付けが終わるとなんとなく勧められるがままに2人で茶を飲んだ。淹れてくれたのがマイクロトフの好きな玄米茶だったからかもしれない。マイクロトフはなんとなくこの部屋に馴染んできている自分に気付き、焦りに似た感情を抱いた。流されている場合ではない。家に帰ってから考えることがいくらでもあるのだ。仕事のこと、生活のこと、そして、成り行きというか勢いでというか、恋人になってしまった(らしい)この男のこと。
 マイクロトフが茶を啜りながら、帰る、と言い出すきっかけを探そうとしていると、カミューが不意に言った。
「そろそろ帰る?」
 マイクロトフは心臓が飛び出るのではないかというほど驚く。心の中を読まれたのか、と馬鹿なことを考えつつ「あ、ああ…」と頷くと、カミューも頷いて立ち上がった。
「じゃあ、車を出してくるよ」
 あたりまえのように言われたセリフにマイクロトフは再び頷きそうになり、慌てて首を振る。
「い、いや、いい。電車で帰るから……」
「え? だって荷物が大変でしょ?」
「荷物?」
 小首を傾げるカミューにマイクロトフも首を傾げた。

 ………………………

 向き合ったまま微妙な沈黙が流れると、先に状況を把握したカミューがため息を吐いた。
「今、住んでいるマンションは会社の借り上げなんでしょ。会社、クビになったんだから今日明日中にも出ていかないといけないよね。どこに行くつもりなの?」
 矢継ぎ早に言葉を並べられ、マイクロトフはしどろもどろになって俯く。
「そ、それは帰ってから考えて……」
「考える必要ないじゃん。ここに住めばいいんだから」
 さらりと言われたセリフに、マイクロトフはぎょっとしたように目を見開いた。
「そっ、そんなこと、できるわけないだろう!!」
「どうして?」
「どうしてって、他人の家に……!」
「他人?」
 ぎろり、とカミューの目の色が変わるのを見てマイクロトフは慌てて言い直す。
「し、知り合ったばかりだというのに、一緒に住むなんて……」
 言葉を濁すマイクロトフにカミューは目付きをきつくした。
「じゃあ、他にどこか行くアテはあるの?」
「う……」
「次の仕事にアテはあるの?」
「う……」
「当面の生活費はどうするのさ?」
「……………………」
 マイクロトフが痛いところを容赦なく突っ込まれてとうとう沈黙すると、カミューはようやく視線を緩める。
「どうせこれからのアテもないんでしょ?」
 だったら、とテレビの脇にある書棚から本を数冊取り出すと、それをマイクロトフに差し出した。
「税理士の資格を取りなよ。一緒に個人事務所を開こう」
「税理……士?」
 思わず受け取った本を見ると、なるほどそれらは税理士の資格を取るためのテキスト教本だった。
「俺もあと数年働いたら辞めて独立しようと思っていたんだ」
 独立、という単語にマイクロトフは目を瞬かせる。
「独立っておまえ……なんの仕事をしているんだ?」
「あ、やっと聞く気になった? 昨日は自分のことばかりで俺のことなんて名前も聞きもしなかったもんね」
 家に連れて帰るまで俺の名前も知らなかったんだよ? とカミューが笑えば、マイクロトフは赤面するしかない。
「す、すまない……」
「ま、いいけどね。俺は監査法人に勤めているんだ」
「監査法人……というと会計士か?」
 マイクロトフは耳慣れない単語に眉を寄せる。経理にいた同期の口からときどき聞いたことがある程度の知識だった。
「そう。法人、なんていっても中味はサラリーマンみたいなもんだよ。安月給で全国各地に飛ばされるしさ。まあ、いろいろな業種の会社を見て回るのもけっこうおもしろいけど、サラリーマン社会のしがらみってあまり得意じゃないんだよね」
 独立したほうが収入も上がるし、とカミューは茶化すように片目を瞑ってみせる。
「だから税理士の資格を持ったパートナーを探していた。マイクロトフならぴったりだよ。資格を取るまで待ってるから」
「な、なぜ俺が……」
 マイクロトフは話の流れの突拍子のなさにとまどった。営業をやってきた自分にはあまりにも畑が違う世界だ。
「確かに営業としてのおまえは真面目過ぎるし、融通が利かないし、向いていないかもしれない」
「……悪かったな」
「だけど、それは適性を見誤った会社の人事に問題があるよ。おまえには税理士のような几帳面さが必要な仕事には向いているのに」
 カミューはそう言うとニッと笑みを浮かべた。その、どこか挑発的な視線にマイクロトフの心臓がどきりと跳ねる。
「まあ、おまえみたいな頭の固いタイプは会社で経理をしていたとしても、裏帳簿みたいな不正な処理を見つけると真っ向から上に噛み付いただろうから、どの道クビになったかもな」
「勝手に人をクビにするな!」
 もし、の世界でもクビにされたのではたまらない、と真っ赤になって怒るマイクロトフにカミューは声を上げて笑った。これでは褒められたのかけなされたのかわからない。マイクロトフは悔し紛れに反論する。
「だ、だいたい、そんな頭の固いヤツに税理士なんかさせてやっていけるのか?」
「大丈夫」
 カミューはすっと笑みをおさめた。
「俺にとっておまえは、人生においても仕事においてもベストのパートナーだよ」
 その揺るがない視線にマイクロトフはたじろいでしまう。どうしてこの男はこんなに確信に満ちた態度なのだろうか。強引すぎる行動力に、自分のペースもこれからの生活も何もかも引きずられっぱなしだ。
 それでも。
 そのことに戸惑ってはいるが、不快感をおぼえない自分がいた。それは、自分も彼のことを同じように思っているのではないか……。
 そう思ったマイクロトフだったが、このことを素直に認めるのは癪だった。これを口にすればカミューは、ほらみたことか、と笑うだろう。
 難しい顔をして黙り込むマイクロトフに、カミューはわずかに視線を緩めた。
「疑ってる?」
 こんなに自信たっぷりに言い切る自分を。
「……疑いたくもなるだろう。だいたい出会いからして最悪だ」
 居酒屋のトイレだぞ?
 マイクロトフの憮然とした口調に、
「最初が最悪なら、あとは上っていくだけだろう?」
 と、カミューは片目を瞑ってみせる。ますます眉間に皺を寄せて黙り込んだマイクロトフにカミューは、あれ? というふうに眉を上げた。
「なに? いい台詞に感動しちゃった?」
「……呆れてものが言えないんだ、馬鹿」
 と、更に憮然と返され、カミューはおかしそうに笑う。
「まあ、自分でも呆れるくらいに浮かれているからしょうがないか」
「浮かれている?」
「こんな出会い、一度しかない。下手すれば、それこそ、あのとき居酒屋のトイレに行かなければ一生巡り会えなかったかもしれなかった。自分の運の良さを天に感謝したいくらいだ」
 心底嬉しそうに、綺麗に笑ってみせるカミューにマイクロトフは一瞬見惚れた。そして、ハッと我に返ると、しっかりしろ、と自分に言い聞かせる。この笑顔が曲者なのだ。愛想笑いとは明らかに違う、揺るがない想いを現したような笑み。こんな笑みを向けられて平然としている者がいようか。
「あれ? 顔が赤いよ?」
「う、うるさい!
 そ、それより資格を取るまでの家賃だが……」
 話を逸らされたのは少々残念だったが、家賃のことを言い出すということは同居をようやく容認する気になったということで。カミューは内心ほくそ笑みながら応える。
「ん? ああ、家賃は身体で払ってくれ、と言いたいところだけど……」
 ぎょっとしたように身を引くマイクロトフにカミューはおかしそうに笑いながら続けた。
「嫌だと言うだろうから、まあ、バイトでもしてもらって稼ぎに比例して払い合うってことで」
「折半で……」
「バイト料くらいで折半したら他に何も買えなくなるよ。稼ぎが多いほうが払うのはべつにおかしいことじゃないだろう?」
 カミューのセリフにマイクロトフは今更ながら部屋を見渡す。リビングも寝室も一人暮らしには贅沢なほどの広いスペースだ。自分のワンルームマンションとは大違いである。サラリーマンと言いつつ相当稼ぎがいいんじゃないのか、と思った。
 渋々了承するマイクロトフにカミューは、やれやれ、というふうに頭の後ろで手を組んだ。
「とりあえず、マイクロトフが資格を取るまではサラリーマン続けないとなぁ。扶養家族ができたことだし」
「だっ、誰が家族だ!!」
「ペットのほうがいい?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」



 数年後。
 無事、税理士の資格を取ったマイクロトフと、監査法人を退職したカミューの姿があった。
「事務所の名前なんだけどさ、二人の名前から取って『カミマイ事務所』っていうのはどう?」
「……おまえ、センスなさすぎるぞ」
「ええっ! おまえに言われるなんてショックすぎ!!」


 おしまい





というわけで、スーツアンソロに提出し損ねたパラレルでした。
いや、今更ながら、会計士とか税理士とかマイナーな職業を
書いてもしょうがないかと思ったり。ボツってよかったかな、とか。
オチが恥ずかしいのはよーくわかってますので突っ込まないでください…。


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