最悪な日・3




 カミューが相手でなかったらこんなことにはならなかったと思う。それは、カミューの言う『特別』というヤツなのかもしれない。だが、それを歓迎する気はさらさらないのだから、これ以上この男と関わるのは危険だった。
 マイクロトフは、自分が自分でなくなっていくような妙な危惧感に襲われていた。
「すまないが、服を貸してくれ」
 静かにもう一度繰り返すマイクロトフにカミューは眉を寄せる。さっきまでおもしろいほど感情が映し出されていた顔から表情が消えてしまい、相手の心情が読めない。
「どうしていきなり帰るなんて……」
「いきなりも何も、ここはおまえの家で、他人の俺がいるべきところではない」
「他人だって?」
 聞き返すカミューの目の色が変わったような気がしてマイクロトフは内心、どきっとした。だが、取り返しのつかないことが起こらないうちにこの場を去りたいという気持ちのほうが大きい。
「そ、そりゃ、昨夜、酔った勢いとはいえ、へんなことになってしまって申し訳なく思っている。殴りたければ殴ってくれてもかまわない。だが……」
 自分は覚えていないのだから……、と続けようとしたマイクロトフは、ぐいっと顎を掴まれて息を飲んだ。
「酔った勢いだから、なかったことにしようって?」
 間近に覗き込む琥珀色の瞳には先程までの、優しい、それでいてどこか浮かれていたような色はかけらもなく。怒りを抑えた低い声にマイクロトフは頷くことができなかった。
「ふざけるな。こっちは男相手にあんな真似までしたというのに、なかったことにしろって?」
 顎を掴む力は容赦なく、心なしか口調も粗野なものになってきて、マイクロトフは身の危険を感じる。殴れ、とは言ったが本当に殴られるかもしれない。緊張に、ごくり、と咽喉が鳴った。
「だ、だから、申し訳なかったと言っているだろう……。だいたい、覚えていないのだから仕方な……」
「覚えてないなら思い出しなよ」
 何が、と問う間もなかった。おもむろに唇を重ねられてマイクロトフは驚愕に目を見開く。その目を睫が触れそうな距離で真正面から睨むように捉えられ、慌てて逃げるように目を閉じた。その隙に顎が掴まれていたために閉じることのかなわない唇の間からするり、と熱い塊が侵入してくる。あ、と思ったときには舌に触れ、絡め取られていた。きつく吸われた瞬間、頭の芯が、じん、と痺れるような感覚と共に頭の中にまた似たような光景が浮かぶ。そのおぼろげな記憶に気を取られているうちに、のしかかるように体重がかけられ、我に返ったときにはすでに遅く、どさり、とベッドに押し倒された。
 カミューは唇をわずかに離し、低い声で囁く。
「昨夜したことを再現してやるよ。全部思い出したら許してあげる」
「なっ……!」
「思い出さなかったら最後までさせてもらう」
 言いながらカミューは首筋に唇を押し当てた。マイクロトフはその感触に肌が粟立つのを感じ、慌てて亜麻色の髪を引っ掴む。力の加減ができずに何本か抜けた手応えがあったが、それを悪いと思っている余裕などなかった。
「ちょっ、ま、待て!」
「殴られるよりはマシだろう」
「殴られたほうがマシだ!!」
「俺はこっちがいい」
 髪を抜けるほど掴まれたのだから相当痛いはずだが、顔を上げたカミューは眉ひとつ動かさずどこか据わった目でマイクロトフを見つめる。
「人の心を散々掻き回しておいて、覚えていないからなしだ、なんて冗談じゃない」
「掻き回すって……」
 言われていることがわからずとまどったように眉を寄せるマイクロトフにカミューはゆっくりと顔を近づけ、
「おまえが好きだ。全部欲しい……」
 と、熱っぽく囁くと、触れるだけの口付けを落とした。その真摯な口調に、眼差しに、マイクロトフは言葉を失くす。これを冗談だとか、からかっているなどと否定することはできるものではなかった。たとえ、いや、おそらくそうなのだろうが、一時の気の迷いだとしても、今は怖いくらい真剣なのだ。息苦しいまでに胸が締め付けられる。
 再び指先と唇で首筋を辿りはじめるカミューに、マイクロトフは動けないまま口を開いた。
「昨夜出会ったばかりだ」
「関係ない」
「酔っていただろう」
「今は酔っていない」
 マイクロトフは問いながら昨夜のことを思い出していた。昨夜もこうやって求められ、自分も間違いなく応じたのだ。
 それは、会社から必要ない、と判断されたことに打ちのめされていた自分を欲しいと言われ、嬉しかったからだ……。
 もちろん相当酔っていた。だが、それだけで男相手に抱かれようなどと誰が思うだろうか。
 マイクロトフの中でひとつの結論が出つつあった。
「男同士だ」
 その言葉にカミューの動きが止まり、深いため息が零れる。
「そんなことであきらめられるなら、こんなことしていない」
 その口調はどこか苦く、マイクロトフにはカミュー自身も自分の激情にとまどっているように思えた。
 初めて見たときにモデルかと思ったほど整っている顔立ちに、声をかけてきたときの涼しげな態度、その後の話の上手さを考えれば、この男はこんなタイプではないはずだ。
 黙っていても女性には困らないだろうし、こうして無理矢理相手を組み敷いてまで欲しがるとは思えない。
 そう考えるとマイクロトフの心に何かがゆっくりと広がっていった。
「そうだな……」
 応じる口調は、同意する、というには力がなく、あきらめる、というには優しい。カミューは身体から力が抜けたのに気付き、顔を上げた。
「観念した?」
「……仕方ないだろう。おまえみたいな強引な男、出会ったことがない」
 苦笑を浮かべるマイクロトフに、
「俺もこんな強引なこと、したことがない」
 と、カミューも笑った。そして、あっさりと身を起こすと、ベッドを降りる。そして、寝転がったまま奇妙な顔をしているマイクロトフに、早く起きないと襲っちゃうよ、と片目を瞑ってみせた。
 マイクロトフが慌てて身体を起こすと、カミューはクローゼットを開けて中からバスタオル、Tシャツと封を切っていない下着、スポーツウェアタイプのパンツを取り出し、マイクロトフに差し出す。
「お腹、空いてないかい?」
「いや……」
 マイクロトフが着替えを受け取りながら応えると、ぐーっと派手な音が鳴った。赤面するマイクロトフにカミューは咽喉を震わせる。
「おまえはどうも身体のほうが素直だね。今度から何かあったら身体に直接聞くとしよう」
「なっ……!」
 その言葉は昨日が昨日だけにあまりにも羞恥を煽るもので、マイクロトフは絶句した。カミューはおかしそうに笑いながらマイクロトフの頭をぽんぽん、と叩くと、
「シャワー浴びておいで。そのあいだに簡単に何か作っておくから」
 と言い残し、寝室を出て行く。残されたマイクロトフは悔しそうに歯噛みしたが文句を言いたい相手はすでに居らず、二日酔いだけではなく重い頭を抱えながら浴室に向かうべく寝室を出た。


 つづく





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