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夜 終業のチャイムが鳴るとマイクロトフは、うーん、と伸びをした。ずっとパソコンと向き合っていたせいで身体が固い。こきこきと首を鳴らし身体をほぐしていると、同僚が声をかけてきた。 「今日はどうする?」 残るのか帰るのか。自分が残るのであったら大抵は確認したりしない。周りが残るのに自分だけ帰る、というのはなかなか後ろめたいものである。よって、わざわざ聞いてくるということは同僚は帰りたいと思っているのだろう、と、マイクロトフは察し、微苦笑を浮かべた。 「帰る。嫌でも明後日からは残業だからな」 やることがないわけではなかった。だが、今日はまだ月曜日だし、1週間を考えると帰れるうちに帰っておくのが得策と思えた。 同僚は真面目なマイクロトフですら自分と同意見だったのにほっとしたのか嬉しそうに笑うと、 「そうだよなー」 と言って、自分の机を片付けるべく戻っていく。マイクロトフも片付けをはじめながら、ふとカミューのことを思い出した。午後からは一度も顔を出しに来なかった。仕事が本格的に忙しくなってきたのか、と思う反面、昼食後に別れたときの歯切れの悪さが引っかかる。普段ならどんなに忙しくても一度くらいは顔を見せにくるのに。 マイクロトフは心の中で、自分は悪くない、だの、アイツが公私のけじめをちゃんとしないから、だの、自分を正当化するようなことをぐるぐると考えていたが、終いには、いつも顔を覗かせに来たときに今日の帰りの予定を伝えていたからな、と言い訳じみた結論に達し、パソコンのメールの作成画面を開いた。しかし、今日は早く帰る、と伝えたいだけなのに、うまく文章が浮かばずどう書いたものか悩んでいると、突然、肩に重みがかかる。なんだ、と反応するより先に、 「帰っちゃうのー?」 と、耳元で呟かれた。 「っ!!」 マイクロトフは心臓が止まるのでは、というほど驚いたが、上げそうになった声をなんとかこらえると、昼同様、自分の肩に顎を乗せている男を睨みつける。 「カミュー!」 マイクロトフはカミューを睨みながらも、まさにメールを打とうと思っていた相手の突然の登場に激しく動揺し、二の句が紡げない。そんなマイクロトフをおもしろそうに見やっていたカミューはふとパソコンの画面に目を移した。マイクロトフが、しまった、とパソコンの画面を閉じようとしたが一瞬遅い。宛先を見たカミューがにやっと笑う。 「なにー? 俺にメールくれようとしてたのー? 帰るコールかなー? そんなー。直接言いにきてくれていいのにー」 間延びした、妙に癇に障る言い方にマイクロトフは真っ赤になって画面を閉じた。 「う、うるさい! それよりおまえ、何しに来たのだ! 仕事はどうした?!」 「えー? 今更、5分10分さぼったところで痛くも痒くもないよ」 それはつまり、果てしなく仕事が残っているのだろう。思わずため息を吐くマイクロトフにカミューはそっと耳打ちする。 「だったら帰る恋人を見送って英気を養ったほうがいいじゃん」 「ばっ……! こんなところでっ……!」 『恋人』という単語が出てきたのに焦ったマイクロトフは咄嗟にカミューの口を塞ぎ、辺りを見回したが、周りは後片付けやら談笑中やらで自分たちのことを気にかけている者はいなかった。ほっと肩から力を抜くマイクロトフにカミューは悪戯っぽい笑みを浮かべてぺろ、と塞いでいる手を舐める。 「うひゃあっ」 思わず上がったすっとんきょうな声に、今度こそ周りの視線が集まった。しかし、 「カ、カミュー!!」 「ごめん、ごめん。つい」 2人がじゃれ合っている光景は決してめずらしいものではなく、「またか」という感じに笑われるだけである。 マイクロトフは、こんなアホにかまっていてもしょうがない、と思ったのか、憤然とパソコンを終了させるとカバンを引っつかんで席から立ち上がった。周りに「お先します」と声をかけ、さっさと事務所の出口に向かう。カミューが当然のような顔をして後ろをついていった。2人が出て行くと、事務所内が急に静かになったような錯覚に陥る。残った人間は顔を見合わせて苦笑した。 「仕事に戻れ!」 「やだー。お見送りするー」 カミューは早足で歩くマイクロトフを駆け足で追い抜くと、エレベーターのボタンを押した。 エレベーターが到着すると中には仕事を終えた何人かが乗っていた。チッとカミューの舌打ちする音が聞こえて、マイクロトフは、エレベーターに誰も乗っていなかったら何をされたんだろう、と心底胸を撫で下ろす。カミューは舌打ちしていたとは思えないくらい綺麗な笑みを浮かべると、 「さ、どうぞ」 と、マイクロトフを促した。マイクロトフがエレベーターに乗ると、てっきりここで別れると思っていたカミューも乗り込んできた。 角のスペースを確保したマイクロトフにカミューが背を向ける格好で立つ。エレベーターが動き出すとマイクロトフの手にカミューの手が触れた。あ、と思う間もなく、そのまま柔らかく握り込まれる。 「おいっ」 背後から小声で焦ったように言うマイクロトフに、 「大丈夫。見えやしないよ」 と、カミューはわずかに振り返り囁き返す。確かにカミューの身体が盾となって周りからは見えないかもしれない。だが、誰が気付くやもしれない、という状況にマイクロトフは顔が熱くなるのを感じた。動揺するな、と自分に言い聞かせても、どうしても意識せずにいられない。それを目聡く発見したのか、カミューがからかうように後ろに視線だけを投げかける。 「普通にしてないとバレるよ」 「う、うるさい!」 だったら離せ、と抗議するがそれは無視される。それどころか指の先で悪戯をしかけてくる始末だ。指を絡め、指の腹で愛撫するように撫でられる。マイクロトフは背中を駆け抜ける感覚にぐっと唇を噛んでこらえると、悔し紛れにカミューの手の甲に爪を立てた。 エレベーターが1階に着くとドアに近い者からぞろぞろと降りていく。マイクロトフもそれに続いて降りようとしたが、手が解放されず、そのまま全員が降りるのを待つ格好となった。そして、全員が降り終わると、一度強く握られてからようやく解放され、マイクロトフもそそくさと降りる。入れ違いに1階でエレベーターを待っていた社員が乗り込んだ。 エレベーターの中で「開」のボタンを押していたカミューに乗り込んだ社員が、「おまえは降りないのか?」と声をかけると、「ええ。見送りに来ただけですから」とにっこり笑って応えた。カミューはドアから顔を覗かせると、ひらひらと手を振って、 「じゃあ、マイクロトフ、お疲れ様。気をつけて帰ってね」 と、別れの言葉を口にする。マイクロトフは人前でそんな会話を交わすのを気恥ずかしく思いながら、 「ああ、おまえも残業頑張れよ」 と、励ましの言葉をそっけなく口にし、背を向けた。しかし、あまりにもそっけなかったか、と後悔し、外に出る前にちらり、と後ろを振り返ったがエレベーターはとっくに動き出した後だった……。 「今日はこのへんにして帰りましょうか」 上司の声にその場にいた全員が安堵ともあきらめともつかないため息を漏らした。カミューも例外ではなく、あくび混じりのため息を吐くと、パソコンのデータの保存にかかる。どうせ今日中にできる仕事ではない。適度に切り上げて明日に備えるのが賢明といえた。 明日、じゃなくて今日か。 カミューは時計を見て苦笑いする。いつのまにか日付が変わってしまっていた。月曜日からこの様では週の後半はどうなることやら、と、軽い憂鬱に陥る。毎月のこととはいえ、深夜に及ぶ残業に慣れることはなかった。 ふとマイクロトフのことが頭に浮かぶ。一瞬、携帯のほうにメールを入れようかと思ったが、さすがにこの時間に連絡するのは気が引けた。彼とて明後日あたりから残業地獄に入るのだから、体力を温存しようと早めに寝ているかもしれない。 しょうがない。明日、朝いちに顔を見に行こう。 じゃないと、今日よりきつくなるであろう明日の仕事を乗り切ることができそうにない。何かと理由をつけて彼に会いに行っているのは、もちろん、会いたい、という単純な理由もあったが、自分のやる気を起こさせるためでもあった。顔を見て、言葉を交わすだけでやる気の度合いが増し、疲れが癒されるのだ。 彼にとっても自分がそういう存在であればいいな、と思い、彼が忙しくなったときにも邪魔にならない程度(と、自分は思っている)に会いに行くようにしている。「来るな」と言われないということは少しは自惚れてもいいのだろうか……。 カミューは同僚たちと会社を出、それぞれ帰宅の途につく。 終電間際の電車には月曜日だというのに酔っ払いが乗っていて、月曜から元気なことだ、とカミューを苦笑させた。電車を降り、足早にマンションに向かう。 マンションのエレベーターに乗ると、マイクロトフを見送ったときにしかけた悪戯を思い出した。人の視線から隠れて触れる指。焦りつつも無理矢理解こうとしなかった彼の様子を思い出して笑みが浮かぶ。 ああ、思い出したら余計会いたくなってしまった。 もう明日までは会えない、とわかっているのに願ってしまう。おかしいくらいに自分の世界は彼中心なのだ。彼なしの人生など、もう考えられない……。 自分の思考の危険性に、笑みは苦いものに変わる。これは帰ったらビールでも開けてとっとと寝るにかぎる、と肩をすくめる思いでエレベーターを降りた。自分の部屋の前に立つとポケットから鍵を取り出し、ドアノブの鍵穴に差し込む。ガチャ、と手応えを感じ、鍵を引き抜くとドアノブを回した。 と。 「あれ?」 ドアが少ししか開かない。チェーンがかかっているのだ。そして、中からは煌々と明かりが洩れている。 どうして、と思う間もなく、たったひとつの結論に達した。自分の部屋に勝手に上がり込めるのは一人しかいない。 「マイクロトフ!」 思わずドアの隙間から名を呼んだ。しかし、ドアに近づいてくる気配がない。カミューはやきもきしながら少し待ったが、しょうがなくインターホンを押した。すると数秒後に慌てた足音が近づいてき、中からドアが開かれる。 そこには紛れもない彼の姿。 「マイクロトフ!」 カミューは靴を脱ぐのもそこそこに、思わず抱きしめた。どうして約束もしていないのに部屋で待っていてくれたのかはわからないが、先程まで己の思考を占めていた恋人が目の前にいるのだ。嬉しくないはずがない。 疲れも吹っ飛ぶ思いでマイクロトフのぬくもりや匂いを全身で感じているとマイクロトフが口を開いた。 「…………おまえは」 マイクロトフの声は不機嫌そうで、カミューは、何かしただろうか、と不安になる。確かに昼間はいろいろと悪戯をしかけたが、疲れた頭に説教はさすがに勘弁してほしい……。 しかし、マイクロトフが口にしたのは違うことだった。 「人にはいつも、何時になってもいいから仕事が終わったら連絡を寄越せ、と言うくせに、自分は寄越さないのか?」 「え?」 カミューは意外な言葉に目を瞬かせる。確かに自分はマイクロトフにしつこいほどそう言っていた。仕事は手伝えないが、せめて労いの言葉くらいはかけてやりたい、と思ってそうしていたのだが……。 カミューはあれこれと考えを巡らせていたが、腕の中のマイクロトフの沈黙が怒っているのだ、ということに気付くと慌てて謝る体勢に入った。 「ご、ごめん。寝てるかと思って……」 「……寝てた」 むっつりとした返事にカミューはさらに慌てる。 「そ、そうだよね。ほんとごめん」 「……なぜ、そのことにおまえが謝る。おまえを待っていたのに寝てしまった俺が悪いだろう」 「え、えと……」 言葉に詰まるカミューにマイクロトフはひとつため息をつくとそっと身体を離した。顔をわずかに背け、独り言のように呟く。 「すまない。これでは起きていられなかった自分への苛立ちをやつあたりしているだけだな……」 マイクロトフは帰り際の後味の悪さが気になり、気付いたらカミューのマンションに向かっていた。カミューに会ってどうしたい、というわけではなかったが、来てしまったものはしょうがないと言い訳めいたことを考え、あまり使ったことのない合鍵で部屋の中に入った。そしてカミューを待っていたのだが、日中の疲れ、そして昨夜の疲れ(何が、というのはあえて伏せておく)がどっと押し寄せ、何度か睡魔は払いのけたもののついには眠りの淵に陥ったのであった。 「マイクロトフ……」 カミューが何か言おうとする前にマイクロトフはカミューの頭を引き寄せ、自分の肩口に押しつける。 「……おつかれさま」 2人はビール缶を1本ずつ空け、風呂に入るとベッドに並んで横になった。さすがに今夜はどうこうするつもりはない。……カミューは少しだけ未練があるようだったが。 「なんだかいつもより狭く感じるな……」 どことなく居心地の悪そうなマイクロトフに、カミューはにやっと笑うと、 「そりゃあ、いつもは……」 と、ぐいっと腕を引いて胸に抱き込む。 「うわっ」 「こうやって抱き合って寝ているから狭くないんだよ」 「は、離せ!」 「狭いからこのまま寝ようね」 カミューはそう言うとマイクロトフの額にキスをひとつ落とした。マイクロトフはじたばたともがいたが、カミューが離れないとわかるとあきらめたようにため息をつき、おとなしくなる。その様子にカミューは嬉しそうに目を細め、黒髪をゆっくりと撫ではじめた。 「ねえ、金曜日は泊まりにきてね」 「……何時になるかわからんぞ」 「うん。金曜日だから何時でもいいじゃないか」 「……………………」 マイクロトフからの返事はなかったが、薄く染まっていく頬が如実に語っている。カミューはマイクロトフの頬を両手で挟み、自分のほうに向けた。 「ねえ、やっぱり一緒に住もうよ」 「……けじめのない真似はできん」 変わらぬ返答。カミューは苦笑を漏らし、「ちぇー」と呟くと気を取り直してそっと顔を寄せる。意図がわかったのかマイクロトフは目を伏せた。 ゆっくりと唇が重なる……。 「おやすみ」 「……おやすみ」 目を閉じるマイクロトフを見つめていたカミューは、週末にその『けじめ』というやつを聞き出そうと心に決めつつ、自分も眠りにつくべく目を閉じた。 そして朝がまたやってくる。 おわり |