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_ 彼に名前を呼ばれたとき、不思議な感じがした。懐かしいような、初めてのような……。 青年は目を開けたとき、すべての記憶をなくしていた。かろうじてわかるのは、自分がベッドに寝ているらしい、ということだけ。頭には霞みがかかったように思考が定まらず、ベッドに寝ている理由も、ここがどこなのかもすらわからなかった。 どうして何もわからないのか。ぼんやりと考えをめぐらせていると、 「マイクロトフ!」 突然、声が上がった。青年は目を瞬かせ、声をしたほうに視線を向ける。すると、ベッドの傍らに亜麻色の髪の青年が跪いていた。亜麻色の髪の青年は立ち上がると青年の顔を覗き込んでくる。その顔立ちは綺麗に整っていたが、かなり憔悴しているようだった。しかし、琥珀色の瞳には安堵の色が浮かんでいる。 「ああ、よかった……! おまえは半年も意識が戻らなかったんだよ!」 亜麻色の髪の青年はそう言うとベッドに横たわっている青年にぎゅうっと抱きついた。しかし、彼が誰なのか思い出せなかった。 いや、彼の名前だけではない。自分の名前すら思い出せない。彼は自分のことを「マイクロトフ」と呼んだが、それが自分の名前なのだろうか……? 黙っている青年に亜麻色の髪の青年は訝しげに眉を寄せた。 「マイクロトフ?」 「それが……俺の名か?」 「えっ?!」 亜麻色の髪の青年は驚いたように目を見開いた。そして、青年の顔つきに嘘を言っているのではない、ということを悟るとわずかに目を伏せる。 「そう、か……。記憶をなくしてしまったんだね……」 悲しげな様子に青年は胸が締め付けられる思いがした。思わず眉を寄せると、亜麻色の髪の青年がそれに気付き、どこか無理をしたような笑みを浮かべる。そっと眉間に人差し指をあてると、 「ほら。いつも言っているだろう? 皺になるからやめろって」 と、優しく撫でられ、その感覚に青年はどこか懐かしいような気がした。無意識に口から言葉が零れ落ちる。 「カ、ミュー……」 「え?!」 驚く亜麻色の髪の青年に青年は不思議そうに瞬きした。 「いま、のは……?」 「私の名前だよ! 思い出したのかい?!」 「い、いや、口が勝手に……」 亜麻色の髪の青年・カミューはたまらず青年に抱きついた。自分の名前すら忘れたというのに自分の名前を覚えていたとは。無意識にとはいえ、いや、無意識だからこそ嬉しい。 「いいよ。これからゆっくりと思い出していけばいい。おまえの名前はさっきも言ったようにマイクロトフだよ」 「マイクロトフ……」 青年・マイクロトフは名前をつぶやいてみたが、自分の名前などそんなに口にすることがないせいか、まったくピンとこなかった。だが、これで、自分と目の前にいる青年の名前がわかった。胸に少し安堵が広がる。 とりあえず青年が傍に居てくれるのなら、いろいろなことをおしえてくれるだろう。 そう考えて、ふとマイクロトフの胸に疑問が浮かんだ。彼は随分親しげに接してくれるが、自分たちはどういう関係なのだろうか。 「俺は……、おまえのなんだ?」 首を傾げたマイクロトフにカミューは一瞬、間を置いてから含みのある笑みを浮かべると、言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。 「奴隷、だよ」 マイクロトフはベッドに半身を起こして本を読んでいた。それはこの世界のことが書かれた本。それにはカミューのように黒き羽根を持つ人間は絶対的な権力を持ち、自分のように白き羽根を持つ人間はそれに従うのだと書かれていた。白き羽根の人間は奴隷として黒き羽根の人間たちにいろいろと奉仕する世界だということを知る。 「やはり……俺は奴隷なのか」 カミューの言葉はにわかには信じられるものではなかったが、こうして本に書いてある以上、真実なのだろう。 「マイクロトフ、暖かいミルクを入れたよ」 カミューが手に湯気の立つカップを持って部屋に入ってきた。マイクロトフは、主人、という立場の者が奴隷に対してこんな真似をするのだろうか、と疑問を抱く。本には自分たち白き羽根の人間は家畜程度の価値しかない、と書かれていた。 「そ、その……」 「マイクロトフ?」 「ご、ご主人様……?」 これ以上、無礼があってはいけない、と思い、カミューを見上げながら敬称を口にしてみた。カミューは目をまん丸に見開いていて硬直する。そして、 「うわー。それってちょっと萌えるね。ぜひ、ベッドの上で言ってほしいなぁ」 と、言うと、思わず勃っちゃったじゃないか、と呟きながら、ミルクを傍らに置き、マイクロトフに背を向けるとズボンを何やらごそごそとやりはじめた。 ベッドの上で言ってほしい、って今、自分はベッドの上に居るのに、とマイクロトフがきょとん、としていると、カミューは振り返り、 「おまえはまだ病み上がりでできないんだから、そういう真似をしちゃダメだぞ☆」 と、ちょん、と額を突っつく。マイクロトフには何が何やらさっぱりわからない。 「あ、あの、ごしゅ……」 「ストップ。もう1回言ったら本当におさまりつかなくなっちゃうよ。前のように名前で呼んで?」 ね、と小首を傾げるカミューに、マイクロトフは恐る恐るといったふうに口を開いた。 「カミュー様?」 「違うよ。『様』はいらない」 「え? だ、だが、俺の主人なのだろう……?」 とまどったふうのマイクロトフにカミューは、くすり、と笑う。 「ごめん。意地悪を言っちゃった俺が悪いね。確かに立場的には俺とおまえは主人と奴隷だけど、本当は違うんだよ」 「え?」 わけがわからない、と、目を瞬かせるマイクロトフにカミューはそっと口付けた。久しぶりのぬくもりに心が踊るのを感じながらゆっくり唇を離すとマイクロトフは茫然と目を見開いている。カミューは柔らかく笑った。 「こういうことなんだ」 わかるかな、と、顔を覗き込むと、ようやく我に返ったマイクロトフの顔が瞬時に真っ赤に染まる。 「なっ、な……っ!」 口を手の甲で覆って絶句するマイクロトフをカミューはおもしろそうに見やった。記憶を失ってもからかい甲斐のある性格は変わっていないようだ。 その人を食ったような笑みにマイクロトフはさっき読んだ本の中に今のようなことを記した頁があったことを思い出す。 この世界で尊いもののひとつに『欲』が挙げられると書いてあった。そして、それは強ければ強いほど誉れ高きことだと。『欲』とは権力、食欲のほかに性欲も含まれていた。性欲を満たすために白き羽根の者を抱くことはあたりまえのことだと。 「お、俺は性の奴隷か……?」 「はいっ?」 すっとんきょうな声を上げたかと思うと、今度はカミューが赤くなってしまった。 「マイクロトフ……」 カミューは赤くなった顔を隠すかのようにうつむいて、はあ、と大きくため息をつくと、マイクロトフの両肩に、ぽん、と手を置いた。 「実はものすごーく俺のこと誘っていたりする?」 「え?」 わかってはいたが、期待したような反応が返ってこなかったことに苦笑しつつ、カミューは身体を離す。 「そんなわけないか。 さ、いい子だからミルクを飲んでもう少しおやすみ。早く良くなってくれないと」 カミューは優しい口調で言うと、傍らに置いていたカップをマイクロトフに手渡した。マイクロトフは子供扱いされてるような気がして少々恥ずかしいと思いつつ、おとなしくそれを受け取り、そっと口に運ぶ。 だが、 「あつっ!」 口に含んだミルクは想像以上の熱さだった。咄嗟に口をおさえるが、思わず吐き出したミルクが指の間から伝う。 カミューは慌てて、大丈夫か、と顔を覗き込もうとしたが、マイクロトフの指の間から白いミルクがぽたり、と流れ落ちるのを見ると、「うっ!」と、息を詰まらせた。その姿にちょっとあらぬ想像をしてしまったのだ。少々前屈みになって、くるり、と背中を向けると、 「この、小悪魔めー!」 と、叫びながら、ばたばたと逃げるように部屋から出ていってしまった。そして、数分後、やけにすっきりした顔で戻ってきたカミューは、「火傷とかしなかった?」とマイクロトフを優しく気遣ってみせるのだった……。 _ 次の日、目覚めたマイクロトフは昨日よりずっと体調が良くなっていることに気付いた。朝食を運んできたカミューにそのことを告げ、働きたい、と申し出る。カミューは最初、反対したが、マイクロトフは頑として譲らず、結局、無理をしないことと外に出ないことを条件に折れてくれた。 マイクロトフは家の中の掃除や畑仕事を少しずつはじめた。記憶が戻る気配はなかったが、身体が覚えているのか、すぐ慣れていく作業に、自分は間違いなくここでカミューと暮らしていたことを実感する。 そして、そんな自分を片時も離れないで見守ってくれているカミューに、自分たちは確かに普通の『主人と奴隷』の関係でないと思う。カミューはいつも優しく気遣ってくれる。自分が薪を何本割ることができたか、魚を何匹釣ったかなど、1日の成果をよく覚えていてくれた。それどころか、いろいろなことについて、こちらが覚えていないようなことまで事細かに覚えていてくれた。それだけ自分のことを大事に思っていてくれているということだと思う。友人、もしくは家族のように親しく接してくれる彼の傍はとても安心できた……。 こうして春が過ぎ、夏が来て、秋を巡り、冬が来た。 マイクロトフは暖炉の前に座り込んで燃える薪をぼんやりと眺めていた。 「今夜は冷えるね」 カミューの声に振り返ろうとするとそれより早く背後から、ふわり、と暖かいものに包まれる。それは1枚の毛布だった。カミューがそのまま隣に座り、2人でそれに包まる。カミューの体温が心地良かった。 言葉を交わさなくても心が暖まる。沈黙に身をまかせ、しばし、2人で薪を見つめていた。 ふと、カミューの腕がマイクロトフの肩を抱く。 「あの嵐の中、倒れているおまえを見たとき、心臓が止まりそうだった……」 わずかに震えた声にマイクロトフの胸が締めつけられるように痛む。マイクロトフは覚えていないが、半年前に突然カミューの家からいなくなり、探しに出たカミューが森の中で傷だらけになって倒れている自分を発見したらしい。 それから半年、目覚めることはなく、ようやく1年前に目覚めたときにはすべての記憶をなくしていた……。 自分が目覚めてからのカミューの主人らしからぬ献身ぶりを見ていると、自分が眠っている間、どれほどの心配をかけたか知れない。そう思うとマイクロトフはカミューに本当に申し訳なく思う。そして、目覚めた今でも記憶をなくし、カミューに辛い思いをさせているのだ……。 マイクロトフは少しせつなくなってカミューの肩にもたれかかった。 「どうして……」 「ん?」 「どうして俺はいなくなったりしたのだろうな……」 カミューの傍はこんなに心地良いのに。 そう呟くマイクロトフにカミューは一瞬目を見開いたが、すぐ嬉しそうに細めた。 「俺に……至らないところがあったのかもしれないね」 カミューのセリフにマイクロトフは驚いて顔を上げ、カミューを見る。 「そんなことはないぞ!」 ムキになって否定してくれるのが嬉しくてカミューはマイクロトフの鼻をちょん、と突ついた。 「真相はおまえの消えてしまった記憶の中だけど……、きっと何か事情があったんだよ」 宥めるような口調に、マイクロトフはもどかしい思いを抱える。どう考えても自分がカミューの元から逃げなくてはいけない理由など見当たらないのに。カミューはどう思っているのだろうか。自分がカミューを嫌になって逃げようとしたとは思っていないだろうか。そんなことありえないのに……。 マイクロトフは漆黒の瞳に真摯な色を浮かべてカミューを見つめた。 「カミュー、俺は……」 「ん?」 「おまえに、いらない、と言われるまで、もう二度といなくなったりしない……」 誓いの言葉のように重みのある口調で告げると、カミューは、ふわり、と綺麗に笑った。 「じゃあ、ずっと一緒だね。一生、離さないから……」 _ 次の日、目覚めたマイクロトフはカミューがいないことに気付いた。これまでも何度か外出することはあったが、どこに行くとも告げないで出かけたことはない。マイクロトフの胸にいいようのない不安が広がった。 マイクロトフは敷地内のあちこちを探して回った。しかし、どこにもカミューの姿はない。外に行ったに違いない、と思うが、カミューに『一人で外に出ては行けない』ときつく言われていたため外に出るのはためらわれる。前に勝手に外に出て大怪我をし、記憶まで失ってしまったのだから、それは当然の危惧といえよう。だが、すぐ戻ってくるだろうと思う反面、嫌な予感がして落ち着かなかった。1秒でも早く、カミューの無事な姿を見たくてたまらない。 マイクロトフは悩んだ末、思いきって外に探しに出ることにした。今度こそは何があっても必ずここに帰ってくることを心に誓って……。 外に出ると、周りの視線が自分に集中しているのがわかった。だが、そんなことを気にしている場合ではなく、マイクロトフはカミューの姿を求め、あちこちを駆け回る。 すると、 「おやぁ? 首輪をしていない奴隷がいますねぇ」 と、突然、マイクロトフの前に数人が立ち塞がった。その集団は揃いの黒い制服を着た黒き羽根の人間たち。記憶をなくしたマイクロトフはわからなかったが、それは『異端審問会』と呼ばれる組織の人間だった。『異端審問会』とは『7つの大罪』を犯していないかを取り調べる組織で、絶大な権力を持っていた。白き羽根の人間はその場でも処刑できるし、黒き羽根の人間でも即座に牢獄に連行できる。 道を塞がれたマイクロトフが足を止めると、先頭の男が口元に嫌味な笑みを浮かべ、見下すような視線でマイクロトフを見た。 「奴隷のくせに首輪をしていないとは『はぐれ奴隷』ですかね? 首輪をしていないのは重罪にあたります」 捕まえなさい、と後ろに控えている男たちに命令すると、男たちがゆっくりと前に歩み出る。マイクロトフは警戒するように1歩下がった。 そのとき。 「待て! マイクロトフに触るな!!」 男たちの背後から声が上がった。その声はまぎれもなく、マイクロトフが探していた人物のもの。マイクロトフは男たちの肩越しに亜麻色の髪を見つけた。 息を弾ませたカミューがマイクロトフのほうに近づこうとすると、異端審問会がその前に立ち塞がる。 「あれはあなたの奴隷ですか?」 顎で背後をしゃくる男をカミューは唇を噛んで睨みつけた。答える気配がないカミューに男が鼻で笑う。 「そんなふうに異端審問会に非協力的な態度をとると牢獄行きですよ?」 牢獄、という単語にマイクロトフの心臓が跳ねた。 「カミュー!!」 「カミュー?」 マイクロトフの叫びに男が眉を寄せる。そして、記憶に引っかかったのか会得がいったように何度も頷いた。 「ああ、あなたが噂の、丘の上に住む変わり者、ですか。ずいぶん白き羽根の者に執着だと聞きましたが……」 男は言いながら、ちらり、とマイクロトフを見やる。 「彼ですか。首輪もつけないで放し飼いにしているところを見ると、噂は本当のようですね。ですが、奴隷に首輪をつけないのは重罪。彼は連行しますよ」 「黙れ! 彼は奴隷なんかじゃない!!」 カミューは拳を握り締めて叫んだ。睨みつける琥珀色の瞳は、異端審問会という絶対権力を目の前にしているというのに脅えのかけらも見えない。だが、異端審問会も高圧的な態度を崩さなかった。 「白き羽根の者が奴隷じゃないとすればなんだというのです?」 せせら笑うように問われ、カミューはぐっと唇を噛む。わずかにうつむくと、絞り出すような声音で答えはじめた。 「彼は……彼は……」 言葉が続かず一呼吸おくと、思いきったように顔を上げる。 そして、 「俺は、マイクロトフを愛しているんだ!!」 と、叫んだ。 カミューの叫びにその場にいた全員が息を飲む。『愛』とは『7つの大罪』の中でも最も悪とされているものだった。口にしたのが白き羽根の者であったなら即座に処刑されていただろう。だが、幸か不幸か、カミューは黒き羽根の者だった。異端審問会の男は、やれやれ、といったふうに首を振った。 「どうやらあなたは感情を取り違えているようだ。たまにそういう輩がいるのですよ。奴隷に発情し、その執着を『愛』などという愚かな感情と錯覚してしまうのです。奴隷に発情するのは悪いことではありません。その欲求は望むままに満たされるべきでしょう。ですが、それを『愛』などという愚かな感情と間違えてはいけま……」 「錯覚じゃない! 間違いじゃない! 俺はマイクロトフを愛しているんだ!!」 異端審問会の言葉を遮りカミューが叫ぶ。 マイクロトフはただ茫然とカミューの顔を見つめていた。カミューが異端審問会の人間を前に、7つの大罪の中でも一番の重罪にあたる『愛』を叫んでいるなんて。しかもそれが自分に対してだなんて。夢でも見ているような気分だった。 愛している…… カミューの声が耳の奥にこだまする。ふと、懐かしいような、胸の底がじんわりと温かくなるような不思議な感覚がマイクロトフを包み込んだ。 俺は、前にも……? おぼつかない記憶が何かを訴える。マイクロトフはその声に耳を傾けようと必死になった。 だが、 「しかたがないですね。それほどまでに己の愚を認めるのでしたら、一緒に来てもらいましょうか」 男の声にハッと我に返ると、周りにいた黒き羽根の者たちがカミューを両脇から拘束するところだった。 「っ、放せ!!」 「カミュー!!」 「おおっと、こちらの白き羽根も牢獄にぶち込まないといけませんね。ゴルゴダの牢獄あたりがふさわしいでしょうか」 その地名にカミューの顔が青ざめる。 「マイクロトフ! 逃げるんだ!!」 だが、その声も虚しく、カミューが捕われたことに気を取られたマイクロトフも黒き羽根の者たちに拘束されてしまった。 「マイクロトフ!!」 「カミュー!!」 「うるせえ!!」 拘束していた男に激しく殴られ、マイクロトフが意識を手放す。 「マイクロトフ!!」 ぐったりとしたマイクロトフが引き摺られるように連れていかれる。カミューは声のかぎり彼の名を呼び続けたが、返事が返ることはなかった。 目を覚ましたマイクロトフは、そこが薄暗い牢獄であることを知る……。 GO TO 〜第2章〜! |