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カミューは悩んでいた。 「カミュー、この薬品の配合はどうするんだ?」 「ああ、それはね……」 質問にそつなく答えながらカミューは、ちらり、とすぐ傍にある顔を盗み見る。 彼の名はマイクロトフ。4月に入社したばかりの新入社員である。彼は去年の夏に大学の研修としてこの会社にやって来、今年入社した。カミューは彼を一目見たとたん恋に落ち、仲良くなるためにあれこれと世話を焼いた。その甲斐あってか短い期間で彼はカミューに打ち解け、親しくなったのだが。想いはカミューの予想を遥かに越えた速度で膨らみ続けてしまう。そして、彼の研修期間が終わり、労いの懇親会が開かれたときに、酒の勢いもあり、想いが暴走してしまった。酔いつぶれた彼を自分の部屋に連れ帰ったときは邪まな気持ちなど誓ってなかった。だが、抱えていた想いは簡単に溢れてしまったのだ……。 彼を傷つける、という最悪な別れ方をしてしまい、カミューは傷心を引きずったまま日々を送っていたのだが。 彼がこの会社に入社してきたのだ。カミューが居るこの会社に。 真面目な彼はカミューがした行為の意図が知りたくてここに来た、と言い、カミューは完全に順序が逆になった告白をした。そして、彼はそれを受け入れてくれた。 それで事件は一応収まり、2人は改めて付き合うことになったのだが……。 ひとつ、問題が残った。 マイクロトフがカミューに触れられるのを無意識に怖がるようになっていたのだ。恋人として触れるのはもちろん、日常のさりげない接触にも身体を強張らせる。 あんなことしてしまった自分が悪いのはわかるし、マイクロトフも必死に隠そうとしてくれているのもわかる。こればかりは時が解決してくれるのを待つしかない。だが、焦るな、と自分に言い聞かせてはいるものの、少々辛いのも否めない。強烈な一目惚れをし、無理矢理にでも欲しいと思った相手が自らの意思で恋人になってくれたのだ。嬉しくないはずがない。浮かれるままに彼に触れたいのに……。 「わかった。ありがとう」 わかりやすい説明にマイクロトフが礼を言うとカミューは「どういたしまして」と優しく微笑む。その笑みにわずかに頬を染めたマイクロトフに気を良くしながら「休憩しようか」と申し出た。時間的にもちょうどいい頃合だったのだ。 「だが、せっかく教えてもらったのだから、これだけは……」 「そう。じゃあ、この分だけはやってしまおうか」 「すまない……」 申し訳なさそうなマイクロトフにカミューは、謝ることじゃないよ、と、くしゃりと黒髪を撫ぜる。何気ないつもりだったが、一瞬、びくり、と身体を震わす彼に、しまった、と思ったがもう遅い。思わず硬直するカミューの前で、マイクロトフは気まずそうに一瞬目を逸らしたが、すぐなんでもないふうを装って、「じゃあ、行ってくる」と、実験室に向かった。 残されたカミューはそっと唇を噛んだ……。 やっぱりこのままではいけないと思う。 マイクロトフが自分に触れられるのを嫌がっているのならまだしも、向こうだって隠そうとするというのは拒絶したいわけではないのだろう。 だったら……。 数日後、カミューはマイクロトフを夕食に誘った。歓談しながら食事を摂り、酒を飲む。おいしい食事は酒を進ませ、酒が入ったことで会話が弾む。和やかな楽しい時間を過ごした。 しかし、それは店を出たときに一転した。カミューはすぐタクシーをつかまえ、マイクロトフを先に乗せ、自分も乗り込む。てっきり駅に向かうと思っていたマイクロトフは突然の行動にとまどったが、カミューはそれにかまわず運転手に行き先を告げ、車を走らせた。 目的地に着くとカミューが運転手に金を渡して車を降りる。そして、マイクロトフにも降りるように促した。 車を降りたマイクロトフは、ここがどこなのかわからなかった。きょろきょろと辺りを見回していると、カミューがマイクロトフの腕を掴み、「さ、行こう」と歩きはじめる。 「カ、カミュー……?」 マイクロトフがとまどったように名を呼んでも、カミューはそれに応えずに手を引いたままずんずんと歩き続けた。そして、とあるマンションの入り口に向かうと、ためらうことなく入っていく。マイクロトフは中に入ると、なんとなく見覚えがあるような気がした。だが、記憶を辿ってみても、なかなか答えに行き着かない。慣れた様子でマンションのセキュリティを解除するカミューの姿を見て、一気に記憶が甦った。 ここはカミューのマンション。 記憶がおぼろげなのはあたりまえだ。前に来た時は自分は泥酔していて、ほとんど覚えていなかったのだから。そして、あの部屋で……。 向かっている先がカミューの部屋だとわかるとマイクロトフは咄嗟に足を突っぱねた。歩みが止まってしまうとカミューが振り返る。その顔には感情が読み取れない、静かな表情が浮かんでいた。マイクロトフはカミューが自分の部屋に連れていこうとしたことと、その表情に得体の知れない恐怖が沸き起こり、首を緩く振る。 「いやだ……」 「マイクロトフ、怖いのはよくわかる。でも、ずっと避けていたら俺たちはいつまでたっても前に進めない」 それは表情同様、静かな声だったが、マイクロトフには威圧的に聞こえた。とまどったように目を伏せる。 「だ、だが……」 「マイクロトフ、おまえが誰よりも大事だよ。それをわかってほしい」 静かな、それでいてせつない声音で言われ、マイクロトフはますます顔を俯けてしまった。カミューは怯みそうになる心を叱咤し、さらに言い募る。 「俺だって過去をやり直せるなら、戻ってやり直したいよ。だけど、時は戻らない。……だったらそれを乗り越えて前に進むしかないじゃないか」 「カミュー……」 「俺は、おまえを信じてる。俺が触れたときに身体が強張ってしまうのを隠そうとしているのは、おまえだって乗り越えようとしてくれているんじゃないのか?」 カミューの言葉にマイクロトフは弾かれたように顔を上げたが、すがるようなカミューの表情に気まずそうにまた顔を伏せた。威圧的な態度でこられたのなら反発したかもしれない。だが、あの表情では、カミューとて自信があるわけではなく、いちかばちかの勝負に出たのだということが嫌がおうにもわかってしまう。 カミューに触れられるたびに身体が強張ってしまうことを気付かれないように気をつけていたつもりだったが、カミューの目を誤魔化すことができなかったようだ。そのことにマイクロトフは心苦しさを感じる。拙いとはいえ、恋人、という関係だというのに、そんな態度をされてはどんなに辛いことだったろうか、と思うといたたまれない気持ちでいっぱいになった。 「マイクロトフ……」 カミューは優しく名を呼ぶと、そっと両頬を包み込んでゆっくりと顔を持ち上げた。不安げに揺れている漆黒の瞳に穏やかな笑みを浮かべる。 「大丈夫だから。俺のことを信じて」 「カミューのことは……信じている……」 慣れない恋人という関係にとまどう自分にいつでも優しくしてくれた。 マイクロトフはカミューの誠実さを信頼しているのだ。……身体が意志とは関係なく過剰反応してしまうのは我ながら情けないが、少なくても心は信頼している。 マイクロトフはほんの少しの不安と、それ以上の信頼を込めてカミューの目を見つめ返した。優しい笑みと共にそっと寄せられた唇に、マイクロトフは静かに目を閉じた……。 マイクロトフはカミューの部屋に入り、すぐ異変に気付いた。前に来たときは相当酔っていたため、あまり覚えていない。だが、家具等の雰囲気が明らかに全く変わっていた。 家具を……買い替えたのか? それは並大抵の出費ではないだろう。 入り口に立ち尽くすマイクロトフにカミューはそれを問うこともせず、「さ、座って」とソファを促した。マイクロトフは遠慮がちに部屋を見渡してみるが、やはりすべてが違う。まるで違う部屋に入り込んだようだ。 俺の……ために……? 「おまえ……」 「ん?」 「馬鹿だな……」 俺のためにこんなこと。 「俺のためにやったんだよ。心機一転、みたいな感じで」 照れたように笑うカミューにマイクロトフは眉を寄せる。それは泣き出しそうなくらい頼りない表情だった。 「俺なんかのためにこんなことをするなんて……」 「おまえのためだったら、できることはなんでもやりたいよ」 カミューは真剣な眼差しでマイクロトフを見つめ、真摯なる想いを伝えた。マイクロトフはこんなふうに真正面から気持ちをぶつけられたのは初めてのことで、とまどいを隠せない。 「カミュー……」 「俺の想いを信じてほしい。もう二度とおまえを傷つけたりしないから」 カミューはそう言うとゆっくりとマイクロトフを抱きしめた。一瞬、ぴくり、とマイクロトフの身体が反応したが、カミューは気付かないふりをする。 「俺に挽回する機会を与えてよ。過去は消えないのはわかってる。でも、これから頑張るから。傷が少しでも小さくなるように努力するから……」 わずかに震えた声はマイクロトフの胸を締め付けた。だが、そんな心境とは裏腹に、相変わらず触れられただけで強張っている自分の身体に泣きたいような情けなさを感じる。深く呼吸を繰り返し、幾分気持ちが落ち着くとゆっくりと口を開いた。 「あれは……傷じゃない……」 「え?」 カミューはマイクロトフの言葉に弾かれたように顔を上げる。すると、驚くほど静かな色をたたえたマイクロトフの瞳にぶつかった。 「あれは……ちょっとしたフライングだ。おまえが肝心なことを言い忘れ、俺もそれを聞かなかった……それだけだ」 「マイクロトフ……」 琥珀色の瞳を見開いて自分を凝視する視線をマイクロトフは自分でも驚くほど穏やかな気持ちで受け止めていた。彼の誠実な想いは4月からの付き合いで充分すぎるほどわかっている。これ以上、自分の弱さが原因でカミューを苦しめるのは嫌だった。 「おまえが一人、我慢している関係なんておかしいだろう? そんなのは、嫌だ」 カミューの言うとおり、今のままでいいはずがなかった。なかなか進めなかった背中をカミューが押してくれたのだ。 「カミューの……望むことに応えたい……」 マイクロトフは己の中に、あきらめとは全く違う覚悟ができたことに気付くと、自然、笑みが浮かんだ。 これで、ようやく前に進める……。 「って、人が覚悟を決めたというのに……」 目が覚めたマイクロトフは憮然とつぶやいた。隣にはカミューの寝姿。……だが、二人とも服を着たままだった。 夕べ、カミューに導かれるままベッドに横たわったまではよかったが、カミューはそのままぎゅーっと抱きついてきただけで何もしないで寝てしまったのだ。いや、「おやすみ」と額にキスはされたが。 拍子抜けしたというか、カミューにまた我慢をさせてしまったのではないか、というような申し訳ない思いに駆られる。だが、正直ほっとしたのも事実で……。 「おはよー」 ひとり思考に沈んでいたところに声をかけられ、マイクロトフの心臓がどきっと跳ねた。 「あ、ああ、おはよう……」 「寝心地悪かった?」 「え?」 「あまり眠れなかったのかと思って」 カミューは言いながら身体を起こすとマイクロトフの前髪をかきあげ、目を覗き込もうとする。思わぬ至近距離にマイクロトフは慌てて身を引こうとしたが、下が柔らかいベッドだったため体勢を崩して仰向けに倒れてしまった。 「そ、そんなことはないぞ!!」 倒れ込みながらもぶんぶんと勢いよく頭を振るマイクロトフにカミューはくすっと笑みを浮かべると、覆い被さるように身体を倒して、 「朝から誘ってくれるなんて大胆だなー」 と、顔を寄せる。近づいてくる端正な顔にマイクロトフは心底慌ててしまった。昨夜は覚悟を決めたため心の準備をしていたが、今、いきなりこんなことになっても困る。 「なっ、ち、ちが……っ」 しかし、そんなマイクロトフを余所にカミューの顔はどんどん近づいてきた。マイクロトフが思わず、ぎゅっと目を閉じると……。 ちゅ、と、頬に柔らかい感触。目を開けると間近にある琥珀色の瞳は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。 「カ、カミュー!!」 瞬時に真っ赤になったマイクロトフを見てカミューは盛大に吹き出す。 「ごめんごめん。で、どうかな? 俺の誠意はわかってくれた?」 全てを欲しいと思っているのも事実だが、大事にしたいと思っているのも本心。 それがわかってほしくて昨日は何もしないで、ただ一緒に寝た。間近にある好きな人の体温に理性がぐらつきそうになったのは否定できないが、それでも、心身共に暖かい夜を過ごすことができた。 その想いはマイクロトフにも伝わっているだろうか。 マイクロトフは顔の赤みがとれないままわずかに頷いた。 マイクロトフも心地良い夜を過ごした。人の、カミューの体温を安心できる、と感じたのは初めてだったかもしれない……。 そう遠くないうちにカミューに身も心も委ねる日が来るだろう、と思う。だが、昨日まで根付いていた恐怖心はすっかり氷解してしまった。 カミューを信頼している。それだけは揺るがない。 「ああ。おまえの誠意はよくわかった。……これは、それに対する俺の返答だ」 マイクロトフはそう言うと、わずかに身体を起こしてカミューに軽く口付けた。目をまん丸に見開くカミューに、少し、してやったり、という気になる。いつも翻弄されてばかりでは癪ではないか。 「うわ……。おまえって……」 カミューはそう呟くとパタっとマイクロトフの肩のあたりに顔を押しつけた。 それきり動かなくなったカミューにマイクロトフはどうしたのだろう、と思う。 「カミュー?」 名を呼ぶとカミューはゆっくりと顔を上げた。その顔は見事なまでに真っ赤で。カミューはくしゃくしゃになった髪をかきあげながら、まいった、というふうにため息を吐いた。 「そんなに朝から濃厚なフルコースがお望みなら喜んで応えさせてもらうけどね」 「は?」 きょとん、とするマイクロトフにカミューは苦笑いし、人差し指で、ピン、と鼻をはじく。 「むやみにこんなことはしないこと。俺の理性は蜘蛛の糸より細くて脆いんだよ」 カミューのからかうような口調にマイクロトフは首を傾げたが、ようやく思いあたったのか一気に首筋まで真っ赤になった。 「なっ、そ、そういうつもりじゃ……っ」 自分の行為が挑発だったなどとは思うはずもないマイクロトフはしどろもどろになる。その様子にカミューの理性が今度こそぐらつきはじめ、慌てて身体を離した。そして、ベッドを降りるとマイクロトフに手を差し伸べる。 「さ、天気もいいみたいだし、遊びに行こうよ」 ゆっくり、歩き出そう。時間はいくらでもあるのだから……。 おわり |