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それは、些細な『賭け』からはじまった……。 カミューはマイクロトフが嫌いだった。 嫌い、といっても彼に何かをされた、というわけではない。それどころかろくに話をしたこともない。ただ、彼の存在が許せなかった。 恵まれた家柄、勤勉な態度、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい真面目な性格……何をとっても自分にはないものばかりで、気に入らなかった。 だから遊び仲間のあいだで、「ゲーム」の対象に彼の名前が挙がったとき、真っ先にのった。ずたずたに傷つけてやりたかった……。 ゲームの内容は 『1ヶ月のあいだにマイクロトフとキスできるか』 という賭け。 男同士でキスなんて気持ち悪いだけだが、堅物のヤツにはお似合いのお題だ。成功したときはさぞかし笑えるだろう……。 午前の訓練を終えたマイクロトフは、昼食の前に自分が世話をしている騎士の馬の様子を見に行こうと厩舎に向かっていた。 いまは緑深い季節。周りの木々は厳しい冬を越し、新しい命が芽吹いている。もう一ヶ月もすれば初夏の陽気がやってくるだろう。 マチルダ騎士団に入団して三ヶ月がたった。ようやく厳しい訓練と従騎士としての役目を両立できるようになってきたところだ。 まだ成長期前の身体は160センチを過ぎたばかり。しかし、がっしりとした骨格をみれば、将来見事な体躯となるであろうことは疑うべくもない。意志の強そうな顔つきが十五歳とは思えない落ち着きをみせていた。 マイクロトフは背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見て歩いていたが、ふと視界の隅で何かが動いた気がしてそちらに目をやった。馬の飼い葉などが置いてある小屋の影に数人の人影が見える。 それが、自分と同じ従騎士の連中で、一人の人間を囲んでいることがわかると、マイクロトフは思わず足を止めた。 どうみても穏やかな雰囲気ではなかった。 どんな事情があろうとも、一人対多勢は許せない。 厳格な家で、幼い頃から騎士の心得と教育を徹底的に叩き込まれて育ったマイクロトフはためらうことなくその輪のほうに歩いていった。 「何をしているんだ?」 背後からかかった凛とした声に、一人を取り囲んでいた連中は一斉に振り返った。 「……マイクロトフか」 「おまえには関係ないだろ。あっちにいってろ」 苦々しげな顔をして口々に文句を言われてもマイクロトフはまったくひるまない。一人一人の目を真っ直ぐ捉えながら、 「一人によってたかって何をしているんだ。こういう行為は騎士を目指すものとして恥ずかしくないのか」 と、きっぱり言い切った。連中は顔を見合わせ、忌々しげに舌打ちをすると、「行こうぜ」と囲んでいた一人を置いて立ち去った。その態度が少し芝居じみていたことなど、「良く言えば純粋、悪く言えば鈍感」と評されるマイクロトフが気づくわけもなく、ひとつため息をつくと、残された一人に目をやる。と、その人物を見て思わず眉間に皺が寄ってしまった。 「大丈夫か? ……カミュー」 「ありがとう。助かったよ。ええと、マイクロトフだっけ?」 にこにこと、自分のさっきまでの状況など忘れたかのように微笑むその瞳はこの土地の人間にはありえない、琥珀色。遥か西方にあるグラスランドという国の出身だという。黒髪、黒い瞳、白い肌が特徴のマチルダの中で、目立ちに目立つ大地のような亜麻色の髪と琥珀色の瞳、健康的に焼けた小麦色の肌。どこにいても目立つ存在の彼は、最初は余所者ということで周りに敬遠されていた。しかし、持ち前の話術と付き合いのうまさで、あっというまに人の輪の中心人物になっていた。 しかし、マイクロトフはカミューが苦手だった。苦手、といってもろくに話をしたことがあるわけではない。生来の口下手なため人と話すのが苦手で、人付き合いもあまり得意でない自分とはタイプが違いすぎるため、極力近づかなかったのだ。 あまり素行がいいとはいえない噂もちらほら聞いた。特に交友関係が派手なようで、彼女をとっかえひっかえしているとか、一度に複数の女の子と付き合っているとか。そういう噂話に疎い自分の耳にも入ってくるくらいだから、おそらく事実なのだろう。 それに。 カミューは人の輪の中心でいつも笑っていた。それは一見、人当たりのいい笑み。が、マイクロトフには本当に笑っているようには見えなかった。たとえるなら、仮面を被っているようで。その仮面の隙間からのぞいた琥珀色の瞳が、冷たく周りを観察しているように思えた……。 マイクロトフはカミューが自分の名前を知っていたことに少々驚きつつも小さく頷くと、カミューはやれやれといったふうに肩をすくめてみせた。 「まいったよ。新しい彼女がロディの恋人だったなんてさ」 と、先程の連中の一人の名前を挙げる。 「あ。でも、言っておくけど、彼女の方からせまってきたんだからね。あんまり目くじらを立てられても困るんだよなぁ」 マイクロトフはカミューの言葉にため息をついた。やっぱり噂どおりの女たらしぶり。真面目なマイクロトフにはそんな真似をするカミューが理解できない。これも彼を苦手とする理由の一つだった。 「え? なに、いまのため息。ひょっとして俺、軽蔑されちゃった?」 ひょいっと顔を覗き込まれてマイクロトフは驚いて咄嗟に身を引く。こういう馴れ馴れしい態度には慣れてなくて、どう対応したらいいのかわからなかった。 「あ……。やっぱりかなり嫌われてる?」 マイクロトフの嫌いそうなタイプだもんね、俺って……とつぶやくカミューに、マイクロトフは苦虫をつぶしたような顔になる。 「べつに嫌ってはいない……」 明らかにいやいやといったふうに応えるマイクロトフに、カミューは気付かないふりをしてパッと顔を輝かせた。 「本当に? じゃあ、友達になってよ」 「……なっ……」 いきなりの申し出にマイクロトフは絶句する。嫌ってはいないが、苦手なのだ。しかし、カミューはマイクロトフのそんな心境などおかまいなしで話し続ける。 「俺、今回のことでちょっと反省したよ。少し真面目になる。で、お手本がほしいんだ。だから、マイクロトフと一緒にいさせてよ」 「……俺と一緒にいても楽しくないと思うが……」 マイクロトフは顔を顰めて嫌そうに答えた。 真面目のお手本、と言われててっきり喜ぶか照れるかすると思っていたカミューは予想外の反応に内心、おや、と思う。しかし、これくらいのことで引くわけにはいかない。 「なんで? そんなの試してみないとわからないじゃないか。俺は、たぶん、お互いに新しい発見ばかりで楽しいと思うよ」 「………………」 黙り込んだマイクロトフにカミューはさらにたたみかけた。 「一緒にいるのがどうしても嫌になったら、迷惑だと言ってくれればそれでおしまいにするから。約束するよ」 ね? とカミューに懇願されて、マイクロトフは渋々頷く。もともと頼み事されるとうまく断れない性格だった。 すると、カミューは嬉しそうに笑う。 「ありがとう。これからよろしく、マイクロトフ」 その笑顔に、マイクロトフもつられて少し笑った。 そのあと、二人で昼食を摂りに行って、マイクロトフは早くも後悔した。食堂に入ったとたん、ざわめきが起こったのだ。中にいたほぼ全員がこちらを注目しているのが、人目をあまり気にしないマイクロトフでもさすがにわかる。マイクロトフは気まずくて視線を落とした。一方、カミューはまったく気にしたふうはなく、「あ、あそこがあいてるよ」と食堂の一角を指差し、ずんずん歩いていく。マイクロトフは慌てて後をついていった。席に向かう途中、マイクロトフはうつむいていたため気付かなかったが、先程カミューを囲んでいた連中が座っているテーブルを通り過ぎるときに、カミューは含みのある笑みを浮かべ、彼らにウィンクしていった……。 カミューは確かに目立つ存在だったが、マイクロトフもまた、自覚がないだけで目立つ存在だった。 自主的に朝練をしたり、自由時間にも勉強をしていたりと、生真面目すぎるほどの態度。堅物、という言葉がぴったりな、融通のきかない実直な性格。それらは遊びたい盛りの同年代の中では完全に浮いていた。最初は「かっこつけやがって」とやっかむ者がほとんどだった。しかし、それがマイクロトフの地だということがわかり理解されたのと、何より、態度だけでなく実力も備わっていたため、そういう類はすぐおさまった。尊敬し、慕う連中と、煙たがる連中とにわかれたが。カミューは煙たがる連中のグループの中にいた。 「マイクロトフは毎朝、朝練しているの?」 カミューの問いに、マイクロトフはちょっと食事の手をやすめて首を傾げた。 「……そう、だな。よっぽどのことがないかぎりは……」 てっきり自慢げに「ああ、そうだ! カミューもしたほうがいいぞ」とでも言ってくると思っていたカミューは、歯切れの悪い言い方をされて、少し拍子抜けする。 「よっぽどのことって? 例えば?」 重ねて問うと、マイクロトフは聞いてほしくない、というふうな顔をした。しかし、何かおもしろい答えが聞けるかと、カミューはわざと気付かないふりをする。すると、マイクロトフは渋々といったふうに口を開いた。 「……その日の授業で習う範囲でよくわからないところがあるときは教科書を読んだり……」 鼻で笑い飛ばしたくなるような模範的な答え。 カミューは、つまらないヤツ、と内心思いつつ、 「ふうん。どこまでも真面目なんだね。マイクロトフは」 と、感心したふうを装ってみせる。マイクロトフはちょっと赤面して、「そんなんじゃない……」とうつむいた。それは、褒められたのを謙遜する、というよりは、無防備なほど幼いしぐさで頼りなく、カミューは今度は心の底から「へえ……」と思った。 こんな顔もするんだな。 普段のマイクロトフは仏頂面といってもいいほど気難しそうな顔をしている。真面目な性格がそのまま顔に出ている感じだ。それが周りからみればとっつきにくい原因のひとつとなっているのだが。カミューはいつも遠目から見て「こいつは何が楽しくて生きているんだろう」などとかなり馬鹿にしていた。しかし、こうしてみると、けっこう考えていることがすぐ顔に出るタイプらしい。 「そんなんじゃないってどういうこと?」 我ながらしつこいかな、と思いつつ、カミューが質問を重ねると、マイクロトフは困ったように眉間に皺を寄せて、視線を泳がせはじめた。そんなあやふやな態度があまりにも彼らしくなくて、カミューは好奇心を刺激される。 「言いにくいこと? 誰にも言わないよ。約束する」 テーブル越しに少し身を乗り出して小声で言うと、マイクロトフは黙ってしまった。 やはり、さっき友達になろうと言ったばかりなのに、いきなり深いところに突っ込んでもだめか。 カミューがあきらめかけたとき、マイクロトフはぎゅっと目を瞑ると小声で答えた。 「……他に……何をしたらいいのかわからないんだ……」 「は?」 一瞬、彼が何を言ったのか理解できなくて、カミューはマイクロトフの顔を茫然と見つめる。マイクロトフは途方に暮れたような表情を浮かべていたが、カミューの視線から逃れるようにうつむいてしまった。その様子から、いま彼が言ったことが冗談や嘘ではないことは容易にわかる。わかるのだが……。カミューはマイクロトフの言葉を心の中で反芻してみた。 ホカニ、ナニヲシタライイノカ、ワカラナイ……? それって……。 カミューはとまどったように眉を寄せる。 「自分がしたいことをすればいいじゃないか。友達とカードゲームをしたり……」 「わからないんだ……。そういうのはやったことがない」 「え?」 よっぽどのことでは驚かない、と自負していたカミューはあんぐりと口を開けた。カードの遊びなど、十歳にも満たない子供たちだってあたりまえのようにやっているのに。 「やったことがないの? 本当に?」 カミューが重ねて問うと、マイクロトフはうつむいたままかすかに頷いた。心なしか目が潤んでいるように見える。 「家で……そういうのは一切許されなかった……」 「そういうのって……、カードゲームとか?」 「騎士になるための教育しかさせない家だった。だから、そういう遊びは不要だと……」 「なんだよ、それ!」 思わずカミューは声を荒げた。 そんな閉鎖的な家があるなんて信じられない。勉強以外することを知らないなんて……。 そこまで考えてカミューはぞっとした。 そんな家で育てば、こんなおもしろみのない、子供らしくない子供になってあたりまえだ。 自分だったら気が狂ってしまう。 「カミュー?」 声を荒げたかと思ったらそのまま黙り込んでしまったカミューに、マイクロトフはそっと声をかけた。きっと自分のことを気味悪がっているのだろう、と心の中でため息をつく。 こういう反応をされることがわかっていたから、この話は誰にもしたことがなかった。それなのに、どうして知り合って間もないカミューに話してしまったんだろう……。 後悔の念に苛まされていると、カミューが突然立ち上がった。その顔は無表情で、マイクロトフは咄嗟に、何を言われても傷つかないように心の準備をする。 「行こう」 「え?」 予想外の言葉に、一瞬、反応が遅れた。どこへ、と問う前にぐい、と腕を引っ張られる。見た目はけっこう華奢な部類に入るのに、意外なほどの力強さに驚きながらマイクロトフは立ち上がった。 「カミュー、どこに行くんだ?」 「どこに行こうか」 マイクロトフの問いにカミューはこともなげに答えた。からかわれてる、と思ったマイクロトフはムッとして立ち止まる。自然、腕を引いていたカミューの足も止まった。 「カミュー、用がないのなら……」 「部屋に戻って勉強でもする?」 くるりと振り返ったカミューは、マイクロトフが思わず息を呑むくらいに真剣な顔をしていた。 「自分でもそういう暮らしはおかしいと思っているなら、直そうとか思わないわけ?」 「えっ?」 カミューの言葉にマイクロトフは動揺した。確かに自分の育った環境が異常だということはわかっている。しかし、そう思っていることはカミューに言っていない……。 異国人、というハンデを乗り越えるため、常に人の顔色を窺い、慎重に生きてきたカミューにとって、マイクロトフのように考えていることがすぐ顔に出るタイプの思考は手に取るようにわかった。 真っ直ぐマイクロトフの目を見て言う。 「あんな顔をしといて、気にしてない、とか言わないよね?」 「え?」 あんな顔ってどんな顔だ? と、マイクロトフは思わず顔に手をやった。その様子に、真剣だったカミューは状況も忘れて思わず吹き出してしまう。 「ほんと、わかりやすいよね、マイクロトフって」 笑いに声を震わせて言われたセリフは、前に友人に言われたのと同じ内容。そのときも笑われたのはわかったが、何を言っているのかはわからなかった。 マイクロトフはムッと眉をひそめる。。 「なんだ? それは……」 「もしかして、自覚ない? 全部顔に出てるよ」 「!!」 一気に赤面したマイクロトフにカミューは爆笑した。 あの、堅物だと言われていたマイクロトフが実は子供並みに感情を隠すのがヘタだなんて。 こいつは……思っていたより楽しい『一ヶ月』になりそうだ。 久々に『本当に』笑っている自分に気付かず、カミューが笑い転げていると、業を煮やしたマイクロトフが怒鳴った。……顔は赤いまま。 「カミュー! いつまで笑っているんだっ」 「ごめん、ごめん。じゃあ、いこうか」 笑いすぎて滲んだ涙を人差し指で拭いながら、カミューはようやく笑いをおさめた。マイクロトフはムッとしたまま口を開く。 「だからどこに行くんだと聞いている」 「遊びに、だよ。夕方からの訓練に間に合うように帰ってくればいいだろ?」 カミューがにっこり笑うと、マイクロトフは、きょとん、とした顔になり、次いで、嬉しそうに笑った。 奇妙な友情関係がはじまった。 マイクロトフとカミューはよく二人で行動するようになった。 いつもカミューがマイクロトフをみつけると傍にくる、というパターンだったが、一週間もすると、マイクロトフも無意識のうちにカミューの姿を目で探すようになっていた。ただ、マイクロトフの場合はカミューをみつけてもカミューが人の輪にいることが多かったので、声をかけたりしなかったが。 カミューは自分とひとつしか歳が違わないのが信じられないほどいろんなことを知っていた。役に立つことからほんの些細なことまで。いろんな知識にあふれていた。 カミューの話は多岐にわたっていておもしろく、すぐ惹き込まれた。自分の生きてきた世界がいかに狭く、乏しいものだったかを改めて実感する。 いままで自分の周りにいた友人たちは自分に合わせるような話題ばかりを口にし、自分の意見にみんな頷いてばかりいた。中には、自分を勝手に理想像に仕立て上げ、憧れに近い思いを抱えている、はっきりいって友人とは呼べないような者もいた。それに比べてカミューは違う意見なら違う、と反論するし、授業や訓練に関係ない話題もいろいろ振ってきた。そして、ことあるごとに自分をからかってくる。確かに自分はカミューのような要領のいい人間からするとからかいがいがあるのだろうが、反応に困るため多少辟易しないでもない。しかし、自分をそんなふうに扱ってくれるのは親しい友のようで嬉しかったし、なにより、カミューが心底楽しそうな表情を見せるので、そんなに嫌ではなくなった。 最近は仮面のような冷たい笑みを浮かべることも少なくなってきたと思う。 そして、話してみて、カミューが意外と真面目だったことも知った。雑学のみならず、授業で習う知識も豊富だった。彼と、騎士像についてとか、課題に出された戦略シミュレーションの予想などを話し合うのは楽しかった。 このあいだ、訓練中に初めて剣の手合わせをした。正直、あんなに強いと思わなかった。小さい頃から剣の稽古を受け、毎朝鍛錬してきた自分と互角だった。何度攻めても流れるような剣さばきでかわされる。けっきょくは時間切れで決着つかずだったが、自分のほうがはるかに練習量が多いはずなのに、勝てない、というのは少し悔しかった。が、同時に、強い相手と出会えて嬉しかった。幼い頃から剣の手ほどきを受けてきた自分は同年代の中では実力が完全に抜きん出ていた。それが、互角の腕を持つ相手に会えたのだ。 負けたくない、と純粋に思った。 ずっと競い合っていきたい。争うのではなく、磨き合いたい。より高みを目指すために……二人で。 この思いを言葉にしたことがあった。カミューは一瞬、驚いたように目を見開いたが、ゆっくり微笑んで、「そうだね」と言ってくれた。 いつのまにかカミューと一緒にいるのが、楽しくなっていた……。 マイクロトフは想像以上に単純だった。 なんの話をしてもおもしろそうに聞き入り、いろいろと質問してくる。本当に世界の狭いヤツだったが、思ったより好奇心は旺盛だった。 打ち解けてくると、彼は仮面が剥がれたかのようにいろんな表情をみせるようになった。いつもみせていた堅苦しい顔は自分を真面目にみせるためではなく、単にこういう素の表情を引き出す人間が周りにいなかっただけらしい。 新しい遊びを教えてやれば、けっこうムキになって子供のように飽きることなく繰り返す。そんな姿は歳相応に無邪気で、思っていたほどがちがちの石頭ではなかったことを知った。 仲良くなるために、たまには彼の好きそうな固い話題を振ってやった。案の定、マイクロトフは目を輝かせて語り出す。意見を求められれば、彼の喜びそうな返答をしてやった。生真面目な彼がほしい答えなど、簡単にわかる。するとマイクロトフは嬉しそうに笑う……。 彼は自分たちの年頃ではいちばん興味がありそうな女の子の話題や色恋の話題を苦手としていた。理由を問うと、恥ずかしそうに、「女の子とあまり一緒にいたことがないから……」と答えた。彼の生い立ちを思い出し、納得した。朴念仁、というより、単に免疫がないだけなのだ。 意外だったのが、冗談半分、賭けの下準備半分で「男同士でも恋愛って成立すると思うかい?」と話を振ったときだ。てっきり、「そんな非常識なことはありえない!」と怒るだろうと思っていたのに、彼は少し考えたあと、神妙に頷いてみせたのだ。お堅いマイクロトフがそんな人の道に外れたようなことを肯定するとは思わなかった。彼は真剣な表情で「人を好きになるというのは形から入るものじゃないと思う。異性だから、とか、かわいいから、という前置きはいらない。魂が惹かれたら、と俺は思っている。その相手がたまたま男だった、ということもありえないとはいえない」……よくわからないけどな、と最後は彼らしく赤面させて、照れくさそうに。なぜだか少し胸が痛んだ。 彼はおもしろいくらい素直だった。人を疑う、とか人の悪意というものをまったく知らない。自分がマイクロトフに近づいたことにも裏がある、などとは考えてもいないようだ。素直な性格はからかいがいがあり、ちょくちょくからかっては笑っていた。最初は怒ってばかりいたマイクロトフもだんだん慣れてくると怒ったあとに笑顔をみせたりするようになった。 そして、ひとつ気付いた。それは彼といるのは楽だということ。裏表がない分、気を使う必要がないのだ。 彼と一緒にいることが苦痛ではなくなってきたある日、「二人で競い合って、より高みを目指したい」と言われた。とっさに反応ができないくらい驚いたが、とりあえず頷いてやると、綺麗に笑った……。 知れば知るほど、彼が本当に汚れの知らない、純粋な心を持っていることをいやがおうにも見せつけられる。自分はすでに失ってしまったもの。 壊したい、とカミューは思った。心のどこかで羨望している自分に気付かないふりをしながら……。 友情劇は続く。 「カミューは天才なのだな」 心の底から感心したように言うマイクロトフに、いつものように「そうかい?」と何食わぬ顔で受け流そうとしたカミューは、自分でも思いもかけない言葉を口にしていた。 「本当にそう思う?」 「え? あ、ああ。だって、今日の戦略シミュレーションの課題だってほとんど手をつけていなかったんだろう。それなのに、3日考え込んだ俺は引き分けるのが精一杯だった」 ほとんど手をつけていない……それは今朝、自分がマイクロトフに言ったセリフ。なんの疑いもせずに鵜呑みにしている……。いつもなら「相変わらず単純なヤツ」と、心の中でせせら笑うのに、今日は得体の知れない寂寥の思いが浮かぶだけだった。 カミューはそっとため息をつく。 「俺だって努力はしているんだよ。ただ、それは決して他のやつらに知られてはいけない……」 「……どうしてだ?」 「俺が『異国人』だから」 マイクロトフは少し目を見開いた。カミューの口から『異国人』という単語を聞くのは初めてだった。カミューが口にすると、妙に生々しい響きを帯びる。 マイクロトフは咄嗟に言葉が出てこず、ただ、じっとカミューを見つめた。 「生粋のマチルダ人であるマイクロトフですら、朝練を始めたときは周りが大騒ぎしただろう? いいカッコして、とか、わざとらしい、とか。『異国人』である俺が同じことをしたらもっと反発がくる」 「そんなことは……」 ない、と言おうとして、マイクロトフは、思い当たることがあったのを思い出す。 入団試験のとき、剣の実力をはかる実技テストの際に、カミューが圧勝した。それを見ていたマイクロトフは、すごい技量だ、と心底感心していたのだが、隣にいた友人は舌打ちして、 「なんだ? あいつ……。マチルダ人じゃないやつが騎士団に入ろうってのか?」 と、吐き捨てるように言ったのだ……。 「俺が騎士団に入団してから真っ先に覚えなければいけなかったのは、剣の技術でも騎士の心得でもない。処世術だった。 この国は思っていた以上に排他的なところだった。俺たち『異国人』をまったく受け入れてくれない。 俺は必死だったよ。どうすれば『異国人』の俺が周りに認めてもらえるのか……」 「カミュー」 いつのまにか熱っぽく語っていたカミューはマイクロトフの声に我に返った。ハッとしてマイクロトフを見ると、彼は困ったような、とまどったような顔をしている。 内心、しまった、と思ったカミューは慌ててとりつくろうとした。本心を口にするつもりなどかけらもなかったのに……。 しかし、マイクロトフの方が先に口を開く。 「その……、うまく言えないのだが……」 言葉を選んでいるふうのマイクロトフに、こいつに同情されるのだけはまっぴらだ、と、カミューは言葉を遮ろうとした。しかし、続けられた言葉に硬直する。 「『異国人』、と言わないでほしい」 「え?」 「その、……カミューが口にすると……痛いんだ……」 マイクロトフは胸のあたりを掴んで言った。 痛い……? 胸、が……? 「どう、して……?」 「うまく言えないが……。カミューがすごく遠く感じる。それが……」 つらいんだ、とうつむいてぽつりと言う。 「……同情しているの?」 へんに声が震えた。まるで泣くのをこらえているような……。 泣く? この俺が……? 動揺しているカミューに気付きもせず、マイクロトフは慌てて顔を上げた。 「違う! そんなんじゃない! ……カミューはいつも人の中心にいて笑っていた。そんなふうに感じていたなんて……思いもしなかったんだ……」 最後はつらそうに言葉を紡ぐ。その様子に今度はカミューが無意識にぎゅっと心臓のあたりを掴んだ。胸が痛い……。 「あいつらは……俺を友達だなんて思ってない。ものめずらしさが先立っているだけだ。俺がマイクロトフのように、なんでも優秀な、真面目な優等生だったら彼らは近づいてすらこない」 自分だって友達だなんて思っていない。ただ、孤立したままだといろいろと都合が悪いから、お互い利用しあっているだけだ。 そう続けようとした。が、またしてもマイクロトフの方が先に口を開く。 「俺は人の気持ちに鈍いから、他のやつらがカミューをどう思っているのかはわからない。 ……でも、俺はカミューのことを尊敬しているし、友人として誇りに思っている」 「……異国人の俺を……受け入れてくれるの?」 「異国人と言うなと言っている……。生まれた土地の違いがどれほどのものだというんだ? カミューはカミューだ」 嘘をつくことを知らない真摯な瞳に真正面から射抜かれて、カミューは言葉を失った。瞬きをした拍子に頬に何かが落ちる。それが自分の涙だと気付いたとき、カミューの中で何かが音を立てて崩れていった……。 「カミュー……」 また困ったような声を出すマイクロトフにカミューはちょっと笑った。涙で歪んでうまく笑えなかったけれど。 「ありがとう……。マイクロトフ」 「賭けをおりる?」 「いまさら何を言っているんだよ!」 賭けを計画した連中が口々に非難の声をあげる。しかし、いまのカミューにはどうでもいいことだった。 「悪いけど。集めた金は俺が返しにいってもいい。とにかく、賭けはなかったことにしてほしい」 きっぱり言い切ると、仲間たちは顔を見合わせた。いちばん気の短い少年が侮蔑するように口を開く。 「期限3日前にして自信がなくなったのかよ?」 「どう思ってくれてもかまわない。とにかく賭けはなしだ。俺の金は返さなくていいから」 とりつくしまのないカミューの態度に仲間たちはとまどいを隠せない。カミューがいつも浮かべている人当たりのいい笑みも、今日は完全に影をひそめていた。かわりに見せているのは真剣な顔。冗談を言っているのではないのだということを如実に語っていた。 「どうしたんだよ? 急に。最近はいい感じだったじゃないか」 「これはおまえの勝ちだなってもっぱらの噂だったのに……」 仲間たちが引き止めようとするが、カミューは迷うそぶりもみせずに、「じゃあ、そういうことだから」とその場から立ち去った。彼らが自分をどう思おうと、もう関係のないことだった。 カミューはマイクロトフがいるであろう場所を探して、足を運んでみる。しかし、そこにはマイクロトフの姿はなく、数人のグループが待ち構えていた。 「カミュー、ちょっと話があるんだけど……」 マイクロトフがいなかったため、踵を返そうとしたカミューは、呼び止められて足を止める。そのグループはマイクロトフの友人たちだった。マイクロトフを憧憬し、どうにか仲良くなろうとあれこれつきまとう姿は、友人というよりは取り巻きのようなものだったが。いままでの自分だったら歯牙にもかけない存在。 しかし、カミューは、これからマイクロトフの友人になるためには、彼らともうまく付き合っていかなくてはいけない、と思い、とりあえず、人当たりのいい笑みを浮かべた。 「なんだい?」 聞き返すと、彼らは顔を見合わせ、ひそひそと小声で話し合う。その様子に嫌な雰囲気を敏感に感じ取ったカミューは内心ため息をついた。 「ここで話しにくいことなら場所をかえようか」 彼らの様子でカミューは何を言われるのかだいたい見当がついた。ここ最近、自分はマイクロトフを頻繁に誘い、よく一緒にいた。彼らにしてみれば「盗られた」ということなのだろう。 友達顔をしていて、なかには恋心を抱いているやつも混ざっていることも知っている。 男しかいない騎士団の中ではそういう輩も少なくない。そして、マイクロトフの高潔な精神に陶酔する気持ちもわからないではない。 けれど。 カミューはそっと乾いた唇を舐めた。 俺は思ってしまったから。傍にいたいって。 ひとけのない場所に着いたとたん、カミューは囲まれた。そして、取り巻きの一人が口を開く。 「マイクロトフに近づかないでほしい」 あまりにも予想通りの言葉に、カミューはちょっと笑いそうになった。 友好的にいこうと思っていたが、どうやら向こうはその気は全然ないらしい。ならば……。 「それはできない」 多人数に囲まれているというのに、カミューは平然と答えた。 「マイクロトフ本人に言われたらそうするけど、君たちに言われる筋合いはないよ」 挑発的ともとれるカミューの態度に、いちばん前にいた少年がいきり立つ。 「! おまえみたいなヤツがマイクロトフに近づいていいわけがない!」 「へえ。どうして?」 こいつはマイクロトフに恋愛感情を抱いているヤツだ、とカミューは冷静に見分けながら問い返した。ある意味、自分より彼の傍にいる資格がないくせに。 だいたい、彼らは気付いているのだろうか? マイクロトフが彼らから尊敬に近い眼差しを受けることに苦痛を感じていることを。マイクロトフは確かに剣の腕は立つし、頭も良く、真面目だ。同期の中ではずば抜けている。しかし、彼もまだ十五歳の少年に過ぎないのだ。そして、自分の世界が狭いという欠点をちゃんと知っている。同年代の、しかもほとんどが年上の人間から手放しに称賛されるのは、彼にとってはいたたまれない気持ち以外の何者でもないのだというのに。 「余所者のおまえが騎士団に入ること自体、間違っているんだ!」 「でも、騎士団は入団を認めてくれたよ」 カミューは隙なく答えながら記憶を辿っていた。この少年は前から何かにつけて自分に突っかかってきていた。いま、こうして改めて顔を見ると、どこかで会ったような気がするのだ。同期だから、というだけではなく、その前に……。 そして、思い出した。入団試験で剣の実技試験のときに、対戦した相手だ。結果は自分の圧勝。 それで目の敵にされていたわけか、と、カミューはようやく合点がいく。それならば……。 「実際、君より強いしね」 人の悪い笑みを浮かべ、痛烈にあてこすってやる。普段、人当たり良く振る舞っているカミューがこういう表情をすると、かなり好戦的にみえた。こんなふうに反撃されるとは思っていなかった少年は咄嗟に言葉が出てこなかったらしく、顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせる。慌てて他の少年が口を開いた。これだけの人数がいて、カミュー一人に言い負かされるわけにはいかない。 「か、賭けのことだって知っているんだぞ!」 今頃耳にしたのか、とカミューは内心肩をすくめる。本来であればもう三日後には終わっていたというのに。 「あれはもうやめた」 「嘘だ!」 「嘘じゃない」 きっぱりと即答してくるカミューに少年たちは一瞬顔を見合わせた。が、一人が気をとりなおして怒鳴ってくる。 「し、信じられるか! マイクロトフと、キ、キスできるか、なんて下世話な賭けをするヤツの言うことなんか!」 「賭けをしたのは事実だ。だけど、信じられない、と言われても」 信じてもらうよりない、と言葉を続けようとしたカミューの耳に、ぱき、と小枝を踏んだようなかすかな音が聞こえた。反射的に音がしたほうに目をやると、そこには信じられない姿があった……。 「マイクロトフ!」 カミューは思わぬ状況に目を見開いた。その視線の先でマイクロトフは、一瞬顔を歪めると踵を返して走り去っていった。 まさか、仕組まれたのか? と彼らを見ると彼らも茫然としている。どうやら本当に偶然だったらしい。 カミューは小さく舌打ちすると、マイクロトフのあとを追いかけた。 「マイクロトフ! 待ってくれ!」 走りながら呼び止めようと叫んでも、マイクロトフの足は止まらない。これで何度目だろうか。叫びながら走るのはかなりきついが、やめようとは思わなかった。マイクロトフは振り返る様子も見せない。 いま、彼はどんな表情をしているんだろう、とカミューは不安になった。やっと自分を見てくれる『友』をみつけたのに。こんなことで失ってしまうのか。 カミューはひとつ頭を振った。 あきらめない! こんなことで失いたくない! ひたすら追いかける。 ついにマイクロトフの先が行き止まりとなった。さすがに足が止まる。カミューも一旦、足を止めて、自分を落ち着けるためにゆっくりと歩み寄った。マイクロトフは顔を伏せてカミューを見ようとしない。 「マイクロトフ……」 「くるな!」 顔を背けたまま拒絶の言葉を吐き出され、カミューは胸が痛むのを感じた。 いつのまにか、嫌われることをこんなに恐れていたなんて……。 弱気になりそうな心を、拳をきつく握ることで耐える。 「マイクロトフ、話を聞いてほしい」 「なにも聞くことはない!」 「マイクロトフ……」 興奮してとりつくしまのないマイクロトフを宥めようと、カミューはそっと腕に手を伸ばした。このままだと話もできない。腕に触れたとたん、マイクロトフの身体はびくっと強張った。 「っ! 触るな!」 バッと腕を振り払われた拍子に見えたその顔は……。 「マイクロトフ、泣いて……?」 カミューが驚いて手を引くと、マイクロトフは見られたことで開き直ったのか、キッと顔を上げてカミューを涙に濡れたままの瞳で睨みつけた。 「俺みたいな鈍いヤツをからかって、さぞかし楽しかったろうな!」 「ちが……」 「お望みどおり俺はすっかりだまされていた! 俺は……俺は……」 マイクロトフは何かを言いかけたが、唇を噛むと下を向く。カミューはいまのうちだと必死に言葉を紡ごうとした。 「違うんだ、マイクロト……」 言いかけたカミューの唇に何かがぶつかってきて、言葉が止まる。それがマイクロトフの唇だと理解したときにはすでにマイクロトフは離れ、唇を手の甲でごしごしとこすっていた。 「これで賭けはおまえの勝ちだ! これで満足だろう!」 そう言い捨てると、マイクロトフはカミューの傍らをすり抜けて走り去っていった。 カミューは突然の出来事に茫然と突っ立っていた……。 とにかく会って謝らないと。 カミューはただそのことだけを考えてマイクロトフの姿を探し歩いた。 どんなに罵られてもいい。マイクロトフの気が済むまでいくらでも謝るからどうにか許してもらいたい、と以前の冷めきった自分からは考えられないことを思っている自分が少し滑稽だった。しかし、それは真剣な思い。 探し求めている姿を思い出して、カミューはちょっと挑戦的に笑った。 俺をここまで変えたのはおまえだからな、マイクロトフ……。責任はとってもらうぞ。 最初は傷つけてやりたいくらい憎かった。何もかも恵まれている彼が妬ましくて。しかし、近づいてみると、彼は何も知らない、不器用な少年だった。閉鎖的な家庭に育ち、世の中も人付き合いもろくに知らない、自分から見れば笑ってしまうほどの無知な少年。ただ、それだけに純粋だった。 初めて自分を、異国から来たという色眼鏡なしに見てくれた人。彼の態度には、人を欺くとか、人の顔色を窺って身の振りを変えるというものがまったくない。自分が常に装着していた、そういう仮面は必要ないのだとおしえてくれた。自分を偽る必要はないのだとおしえてくれた……。 もっと彼と話をしてみたい。もっと彼と一緒にいてみたい。自分が……変われるかもしれない。 カミューはぎゅ、と唇を噛んだ。 あきらめるつもりは毛頭なかった。 「マイクロトフを見なかったかい?」 カミューは通りかかった同僚に声をかけた。もうこれで何人目だろうか。しかし、なりふりなどかまっていられなかった。 「マイクロトフ? ああ、そういえば、さっき厩舎の方に向かっていったな」 「厩舎? ありがとう」 初めて手がかりを手に入れたカミューはすぐ厩舎に向かおうとした。が、 「あんまりしつこくすると嫌われるぞ」 という、相手のからかうような口調に思わず足を止める。振り返って相手を見ると、にやにやと捉えどころのない笑みを浮かべていた。 こいつは賭けのことを知っていて忠告のつもりなのか、それとも賭けのことは知らずに、普段からマイクロトフにつきまとっている自分をからかっているだけなのか……。 判断がつきかねて、カミューは曖昧に笑う。相手の意図がわからなければ答えるのも難しい。 「肝に命じておくよ」 そう答えたときには相手はすでに背中を向けて歩き始めていた。振り返らないまま片手を上げて、 「そうかい」 と気のない返事を返してよこす。 あいつは何が言いたかったんだ? カミューは後ろ姿を見送りながら、相手の真意が掴めずに困惑した。同じくらいの年頃なら考えていることは大抵わかるつもりだったのに。 なんとなく少し苦手だ、と思った。 彼が青騎士団・副団長に任命されるのはまだ数年先のことである……。 マイクロトフは厩舎で馬の世話をしていた。決められた時間ではなかったため、周りには誰もいない。それがわかっていたからここに来たのだが。 マイクロトフは馬にブラッシングしながら、腫れぼったくなっている瞳を何度も瞬きしていた。もう涙が零れないように……。 俺は馬鹿だ。俺みたいなつまらない人間をカミューが本気で相手にするはずがなかったのに。俺はいい気になってカミューと対等であると思い込んでいた……。 そんな自分がみじめで、悔しくて、新たに涙が出そうになる。マイクロトフはぎゅっと目をつぶった。 そのとき。 「マイクロトフ」 背後から今いちばん聞きたくない人物の声がした。マイクロトフはぎくり、と背中を強張らせたが、ぐっと唇を噛んでブラッシングを続ける。今、口を開くと何を言い出すのか自分でもわからなかった。だから、ずっと無視していようと心に決める。 「マイクロトフ、話を聞いてほしい」 「………………」 振り向くそぶりすら見せないマイクロトフに、カミューは内心ため息をついた。頑固な性格だということはここ一ヶ月の付き合いでいやというほどわかっている。 だが、ここであきらめるわけにはいかなかった。 「マイ……」 もう一度呼びかけようとしたカミューの声を、馬の突然の嘶きがかき消した。 マイクロトフたちは知る由もなかったが、どこからか入り込んできた蜂がマイクロトフがブラッシングしていた馬を刺したのだ。馬は突然の痛みに興奮し、立ち上がって前足をばたつかせた。暴れたせいで、目の前にいたマイクロトフを踏みつけるように覆い被さる格好となる。体重500キロを超える馬体に踏まれればただではすまない。 「う、わっ……」 「マイクロトフ!」 マイクロトフは迫りくる馬の蹄に咄嗟に動くことができなかった。恐怖に思わず目を閉じる。そのマイクロトフに馬より一瞬早く何かが覆い被さってきた。全身に暖かいぬくもりを感じた直後、興奮した馬の鳴き声とドスッという鈍い音、そして激しい衝撃。マイクロトフは自分を包んだぬくもりとともに床に叩きつけられ、頭と背中を強打した。あまりの衝撃に呼吸が一瞬止まる。 「う……」 「大……丈夫、か?」 マイクロトフが思わず呻き声を上げると頭上から自分より苦しそうな声がした。はっとして目を開けると視界いっぱいに苦しそうなカミューの顔があった。カミューに庇われたのだ、と瞬時に理解する。 「カミュー!」 庇われた自分がこれだけの衝撃を受けたのだから、あいだに挟まれたカミューは……。 マイクロトフは自分の痛みを忘れて上半身を起こした。 「カミュー! 大丈夫か?!」 「……えた……」 「え?」 声が小さくて聞き取れなかったマイクロトフはカミューの口元に耳を寄せる。カミューは苦しそうに眉を寄せながらもちょっと笑った。 「やっと……口きいて、くれた……。話、聞いてほし……」 「何を言っているんだ! いま人を呼んでくるから、待っていろ!」 急いで立ち上がろうとするマイクロトフの腕をカミューが掴む。まだ呼吸をするのも苦しいほど全身が痛いのに、なぜか腕だけは動かせた。離してはいけない、と必死に掴む。 「大丈夫、だから……話を……聞い、て……」 「カミュー……」 心底困ったような顔をするマイクロトフにカミューは笑いかけて、無理矢理上半身を起こした。身体のあちこちが悲鳴を上げたが、一切無視する。 息を吸い込むと喉のあたりがだいぶ楽になった。 「ほら。なんともないんだよ。こうでもしないとマイクロトフは話を聞いてくれないだろ?」 ほんとだまされやすいよね、マイクロトフは。と、くすくす笑ってみせる。マイクロトフは一瞬、きょとん、としていたが、すぐ我に返った。 「カ、カミュー、だましたのか?!」 「ごめん。頼むから話を聞いてほしい」 身体のあちこちに激痛が走っている。特に馬に蹴られた背中が痛かった。が、それを必死に隠して、カミューはマイクロトフの目をじっとみつめた。マイクロトフはだまされたという怒りよりも、たいしたことなかったという安堵のほうが大きく、毒気を抜かれた格好となってしまう。ひとつため息をつくと「ああ」と頷いた。カミューは「ありがとう」と微笑んでから真剣な表情に戻る。 「まずは賭けのことを謝りたい。賭けをしたのは本当だ。それでマイクロトフに近づいた。でも、信じてほしい。賭けは放棄したんだ」 「………………」 無言でみつめてくるマイクロトフに、カミューは嘘はひとかけらもないのだということをわかってもらうために、真正面からみつめ返した。自分の醜いところも正直に曝けだしてわかってもらうよりない。 「……正直言うとね、俺はマイクロトフが嫌いだったんだよ。真面目で真っ直ぐで……騎士にふさわしい、俺にはない綺麗な心と高潔な精神を持っていたから……。騎士の鑑のようなおまえが妬ましかったんだ」 「……俺は、そんなにできた人間じゃない」 誰かに同じことを言われたことを思い出し、マイクロトフは苦々しい表情になった。彼はいまだにそう思い込んでいて、自分の傍にいる。 「うん。近づいてみたら思っていたより子供っぽくて世の中知らなくて……。 ……って、え? あ……。『うん』、って、できた人間云々が違うってことじゃないよ。ええと、マイクロトフは確かによくできた人間だったけど、俺が思い込んでいたより、ずっと素直で純粋で……ああ、俺と近い歳の普通の人間なんだなって思ったんだ」 慌てて言い繕い、誤解させてないか、と窺うように自分を見てくるカミューに、マイクロトフはちょっと笑った。口達者なカミューでもこういうところもあるんだな、と。こういう姿はめったにみせないが、こういうときのカミューこそ、ようやく年相応にみえる。普段は自分や周りに合わせているだけで、内面は驚くほど大人びているのを、ここ一ヶ月で知った。 「マイクロトフは家柄もいいし、マチルダ騎士団に強い憧れと誇りを抱いていたから、きっと俺のような異国人が入団したことを他の奴等より強く嫌悪していたと思っていたんだ。それが……」 「カミュー、異国人と言うなと何度言わせる? おまえはグラスランドに生まれたことを恥じているのか? 違うだろう? このあいだ故郷の話をしてくれたカミューはとても誇らしげだった。ならば誰に何を言われようと堂々としていればいい」 カミューの言葉を遮って、真っ直ぐ目を見て言葉を紡ぐマイクロトフに、カミューは嬉しくて泣きそうになる。 以前の自分からは考えられない感情の起伏。自分でも冷めたほうだと思っていたのに、誰かに何かを言われただけでこんなに心を揺さぶられるなんて。自分の中にこんなに熱い部分があったなんて知らなかった。 カミューは心の中で一呼吸おいて、泣きそうな衝動をやりすごした。 「うん、……うん。マイクロトフがそうして俺を受け入れてくれたから、俺は変わろうと思ったんだよ。マイクロトフの隣にいてもマイクロトフが笑われないような、マイクロトフの隣に立つのにふさわしい人間になりたい」 カミューの言葉に、マイクロトフはわずかに顔を歪めた。一方的に立派な人間に思われるのは辛い。ましてやカミューのような多岐にわたって才能をみせる人間にそう思われるのは。 「……俺を買いかぶるな」 「買いかぶってるんじゃなくて。前にマイクロトフが言ってくれただろう? 二人で高みを目指したいって」 カミューの言葉にマイクロトフは目を見開いた。覚えていてくれただけでなく、受け止めてくれていたことに驚きを隠せない。そんな表情にカミューはわずかに笑う。 「いままでの俺だと置いていかれるのは明らかだからね」 だから変わる、変わりたいんだ、と言い切ったカミューの顔はいままで見たことがないくらい活き活きとしていて、マイクロトフは眩しいものを見るように目を細めた。彼の真意を疑う余地はかけらもみつからない。 マイクロトフの中で怒りと猜疑心が氷解していった。あとに残るのは、彼と一緒に歩んでいけるのだ、という自分でも驚くほどの安堵。 「……俺もカミューと並び立てる人間になりたい。育った環境のせいだから、と、なにもかもあきらめて狭い世界に閉じこもるのはもうやめる。 だからカミュー、これからもいろんなことを教えてほしい」 今度はカミューが目を見開く番だった。マイクロトフの澄んだ瞳を見つめて、彼の信用を得ることができたのを知る。心に喜びが満ちた。 「ロクなことを教えないよ?」 くすり、とカミューは笑いを漏らす。マイクロトフもつられて笑った。 「それでも。知らないより知ってる方がいいことがたくさんあるはずだ」 「なるほど。じゃあ、マイクロトフを耳年増にしてあげよう」 「っ! そういう話はいらん!」 からかうように言うと、一気に耳まで真っ赤になったマイクロトフにカミューは爆笑した。 マイクロトフは気付いているだろうか? 自分がこれだけ笑うのはマイクロトフの前だけだと。 「カ、カミュー! 前から言おうと思っていたが、そっ、その、女性とはもっと誠意を持ってだな……」 赤面した顔をうつむけて説教体勢に入るマイクロトフに、カミューは見えてないことをいいことに、にやり、と人の悪い笑みを浮かべた。 「やだなぁ、マイクロトフ。過去を忘れてやりなおそうとしている人間に、過去のあやまちを突きつけなくてもいいじゃないか」 「そ、そうか……すまない……」 素直に謝るマイクロトフに、カミューは更なる笑いを誘われる。 本当に世の中ってものをおしえてやらないと、どれだけ騙されることか……。 まあ、これからは俺が守るけど。 マイクロトフをからかってもいいのは俺だけだからな、とカミューはかなり自分勝手なことを考えていた。分厚い雲間からのぞいた日差しのように心が明るくなっていくのを感じる。 「とにかく。これからよろしく頼むよ、マイクロトフ」 カミューがにっこり笑って右手を差し出すと、マイクロトフも右手を出してしっかりと握った。 「ああ。こちらこそよろしく頼む、カミュー」 マイクロトフはふわり、と綺麗に笑う。 まだ数えるほどしかみせない自然な笑み。 綺麗だな、と思ったとたん、どくん、とカミューの心臓がいきなり跳ねた。 な、なんだ? いままで経験したことのない突然の身体の変化にカミューは動揺する。それは手を握ったままのマイクロトフにも伝わってしまった。 「カミュー?」 ただでさえ至近距離なのに、マイクロトフは更に顔を覗き込もうとしてくる。カミューは鼓動が速まるのを感じ、ますます動揺した。 な、なんだ……? こ、これってまるで……。 「どうかしたのか?」 心配そうに眉をひそめるマイクロトフからカミューは慌てて目をそらす。 「い、いや、なんでもない。そ、そうだ、マイクロトフ。とりあえず友情の証にひとつレクチャーしてやろう」 カミューはそう言うと、握ったままの右手をぐいっと引っ張り寄せた。 「わっ!」 突然の行動にマイクロトフはバランスを崩し、カミューの胸に飛び込むような格好になる。一方、カミューはといえば、頭は完全に混乱しているのになぜか口と身体が勝手に動いている、という状態だった。 「キスの仕方。さっきのは痛かったからな。あれでは女の子は口を切ってしまうぞ」 「なっ……!」 ぎょっとしたように目を見開いて何かを言おうとしたマイクロトフの唇を自分のそれで塞いだ。無防備に開かれたままの口から舌を侵入させて口内をまさぐる。あまりの出来事に硬直していたマイクロトフの舌に辿りつくと器用に絡めて強く吸った。 「んっ……!」 マイクロトフはくぐもった声を上げると、がくん、と地に膝をついてしまった。恐らくは初めて味わったであろう強烈な刺激に、腰が立たなくなってしまったらしい。 カミューはマイクロトフにあわせて自分も膝をつき、なおも夢中で唇を貪る。自分が何をしているか、なんて考える理性などかけらもなかった。 マイクロトフはというと状況を把握するどころではなく、完全にパニック状態に陥っていた。ただ、ずっと唇を塞がれたままで、呼吸が苦しくなってきたことを本能が告げる。振り払おうにも右手はカミューに握られたまま。苦しまぎれにかろうじて空いている左手でカミューの背中をどんっと叩くことがやっとだった。しかし、それは体勢が悪いままの一撃でたいした力が入らず、効果はほとんどないはずであった。 が、そこは運悪くカミューが馬に激しく蹴られたところだった。カミューはあまりの痛みに「うっ……」と呻き声を上げると、瞬時に我に返る。いままで我慢していた全身の痛みが一気に襲ってきた。あまりの激痛に気が遠くなる。 やばい……。マイクロトフにキスをするのが全然いやじゃないなんて、やばすぎる……。 俺はマイクロトフを……? 「カミュー?!」 慌てたようなマイクロトフの声を聞きながら思ったのはそんなこと。カミューは「まさか……」とつぶやくと同時に意識を手放した。 カミュー少年の最大の苦難はここから始まるのである……。 後日談。 医務室に運ばれたカミューは肋骨を2本折っていた。それがマイクロトフの一撃がとどめだったかは神のみぞ知る……。 終わり |