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マイクロトフ、26歳。マチルダ市立病院に通う小児科の医師である。 彼には最近、悩みがあった。いや、悩みというほど深刻なものではないが、少々、頭の痛い問題が持ち上がっていた。 それは……。 「せんせー、ありがとうございました」 年端のいかない少年は少々舌足らずな声でそう言うと、ぺこりと頭を下げた。マイクロトフは少年の微笑ましいしぐさに目を細めて軽く頷く。 「ちゃんと毎日薬を飲むのだぞ」 「はーい!」 元気良く応えた少年が看護師に付き添われて診察室を出て行くのを見届けると、マイクロトフはひとつ大きく伸びをした。これでようやく午前中の診察が終わったのだ。座りっぱなしだった椅子から立ち上がろうと腰を浮かしかけたが、 「マイクロトフ先生、急患です」 と入れ違いに診察室に入ってきた別の看護師によってそれは遮られた。 急患、という単語は心臓によくない。だが、診察室に入ってきた看護師の表情には切羽詰ったものは見られず、しかもどこか面白がっているふうな色さえ浮かんでいることに気づくと、マイクロトフは何やら別の嫌な予感がした。 「…………通してくれ」 椅子に座りなおし低く応えると同時にガラリ、と診察室のドアが大きく開かれる。 「やあ、マイクロトフ、お疲れ様。 さ、もう大丈夫だよ」 場違いなほどにこやかに入ってきたのは幼い少女を腕に抱いた一人の青年。整った顔に女性だったら思わず見惚れてしまうくらいの甘い笑みを浮かべて少女を診察用の椅子に腰かけさせると、目線を合わせるように身を屈めた。少女はぐるりと診察室内を見回すと、少し不安そうな表情で青年を見上げる。 「わたし、いたいのはいや」 「んー? 痛くないよー。この先生は手当てがとっても上手だからね」 「ほんとう?」 「本当だよ。 ねー、マイクロトフ」 少女にあわせるようにゆっくりとした口調で話していた青年は、その甘ったるい笑みを浮かべたままマイクロトフに視線を向けた。 「……………カミュー」 マイクロトフはこめかみを押さえ、青年の名を呼ぶ。 …………これが最近のマイクロトフの頭痛の種であった。 「だめだよ、マイクロトフ。そんな怖い顔をしていたら、この小さいレディがおびえてしまうだろう? ほら、笑って笑って」 青年・カミューはマイクロトフの気難しい表情など気に留めることもなく、マイクロトフの頬に左手を伸ばしてむにっと引っ張る。マイクロトフの背後で看護師がぷっと吹き出す気配がした。 「やめんは」 頬を引っ張られたため発音が変になったが、意味はじゅうぶん通じる。カミューは悪びれた様子もなく手を放し、「ただでさえおまえは厳つい顔をしているんだから」と見本とばかりに笑みを深くした。 「余計なお世話だ。 ……で、どうしたのだ?」 「ほら、これ見てよ。こんなに赤くなっちゃって。かわいそうに」 マイクロトフは女の子に聞いたつもりだったのだが、隣から大の大人がしゃしゃり出てくる。マイクロトフはじろり、とカミューを一瞥したが、とりあえずは患部の確認が先だとカミューが指した女の子の膝に視線を向けた。転んですりむいたのか、すり傷のような痕に少し血がにじんでいる。 「転んだのか?」 「突き飛ばされたんだよ。大の大人にね。ひどい話だ」 またも本人に聞いたつもりが大の大人が口を挟んできた。こんな小さい少女を大人が突き飛ばしたとは穏やかな話ではないが、これ以上聞くと少女がその状況を思い出してしまい不安がるかもしれない。そう判断したマイクロトフはとりあえずそれ以上は追及しなかった。 改めて傷口を診てみる。正直、すりむいただけの傷で、一昔前であれば「舐めておけば治る」というレベルだったが、それを医者が口にするわけにはいかない。前にうっかり口にしたときはカミューに「放っておいたら破傷風になるかもしれないじゃないか!」と怒られたものだ。そのときは、なぜおまえが過保護な親かとばかりに怒る、と思ったものだが、今ではこの行動の裏にこの男の下心が十二分に含まれていることは知っている。だが、向こうが患者を連れてくるのであれば、自分が医者であるかぎりそれを拒む手立てもない。厄介な男に捕まったものだ、と己の不運を嘆くしかなかった。 マイクロトフはどこかあきらめたように小さく肩を落とし、背後を振り返る。すると、一緒に傷を確認していた看護士が手際よく消毒液と包帯を用意していた。 「いたい……?」 目に涙を浮かべんばかりに不安そうに聞いてくる幼女に、マイクロトフは真面目な表情を崩さないまま正直に応える。 「少し、な」 ふえ、と顔を歪ませる幼女にマイクロトフは白衣のポケットから飴を取り出した。手馴れた様子で包みを解き、幼女の口に飴を含ませる。ぱちくり、と大きな瞳を丸くする幼女にマイクロトフはわずかに目を細めた。 「すぐ終わる。少しの辛抱だ」 口の中の飴に気を取られている間に手早く傷口をきれいにし、包帯を巻けば終わりである。 「よし、終わったぞ。いい子だったな」 マイクロトフは大きな手で幼女の頭を優しく撫でた。幼女は状況がわかっていないのか、瞬きを何度か繰り返し、「おわったの?」と背後のカミューを見上げる。カミューがにっこり笑って頷くと、幼女はぱあっと表情を明るくした。痛いと思う間もなく治療が終わったのが嬉しいのだろう。 「だから言っただろう? この先生は手当てがとっても上手だって」 「うん! せんせい、ありがとう!」 「ああ」 満面の笑みを浮かべる幼女に場の雰囲気が和んだ。しかし、マイクロトフは少女の付き添いがカミューの他に見当たらないことに気付く。 「…………ところで、この子の保護者はどうしたのだ?」 「あ……」 マイクロトフの問いにカミューは、しまった、という表情を浮かべた。その反応にマイクロトフはまたかと思う。 「んー、そのうち誰かが連れてくるんじゃないかなー」 「おまえな……、そのうち未成年略取で捕まるぞ」 呆れた口調で言うとカミューはわざとらしい笑みを浮かべた。 「いやいや、俺は怪我をしてしまったかわいそうなこの子を少しでも早く診てもらおうと思って急いだわけだし」 「…………………………」 マイクロトフが冷たい視線を向けたところで、診察室のドアが開き、「保護者の方がお見えになりました」とタイミングよく声がかかる。女の子はドアの向こうに立っている女性を見つけると「ママー」と駆け寄り、勢いよく抱きついた。隣に立つ男は母親をここまで案内してきたようだ。カミューの同僚なのだろう。カミューは男にご苦労とばかりに軽く手を挙げる。 「やあ、おつかれさん。首尾はどうだ?」 「ああ、なんとかカタがつきそうだ。2時から会議だとよ」 「2時か。あんまり長くならないといいなぁ」 「キバさんが張り切っていたからな。覚悟しておいたほうがいいぜ」 2人は肩をすくめ合い、それじゃあ、と男は親子を連れて診察室を出て行った。幼女が「おにいさん、せんせい、バイバイ」と手を振るとカミューがひらひらと振り返す。そのすっかりなついていた様子に、マイクロトフは年端のいかない幼い子供が親が傍にいなくてもなんら不安も覚えずここまでついてきたことに、この男の妙な才能を感じていた。 「まったく、おまえは史上最強の誘拐犯にもなれそうだな」 ため息混じりに言うとカミューがすかさず顔を覗き込んでくる。 「なに? 攫ってほしい?」 「阿呆。こんなゴツイ男を攫ってどうする」 じろり、とマイクロトフは睨みつけるが、カミューはそんなことはおかまいなしに立ち上がらせるように腕を引いた。 「いやいや、それは期待に応えねば。さ、こんな激務から攫ってあげるから、昼食を食べにいこう」 誰が仕事を増やしたのだ、とマイクロトフは思ったが、正直、腹が減った。少し乱暴なしぐさで白衣を脱ぐとカミューと共に診察室を出た。背後で看護師たちがくすくす笑っていることにも気付かずに。 「おまえさあ、あんな小さい子が『痛い?』って聞いてきたら、適当にごまかせばいいのに」 「…………嘘は好かん」 「まったく……。まあ、おまえのそんなところも好きだけどね」 「…………………………」 「あれ、褒めているんだから、もっと嬉しそうにしていいんだよ?」 「メシがまずくなる」 「ひどいなぁ……」 『運が良かったよ。運命を感じる相手に出会うことができたのだから、ね』 『あの夜』以来、カミューは職権をこれでもかとばかりに利用して、こんなふうにちょくちょく押しかけてくるようになった。彼の駆けつけるところ事件あり。一見、ホストが似合うくらいの優男ふうで軽いノリをしているが、カミューは刑事なのだ。 事件に巻き込まれた子供の怪我人がいようものなら、カミューは救急車よりも早くマイクロトフの元に駆け込んでくる。はじめは辟易していたマイクロトフだったが、最近は少し慣れてきた。怪我人を診るのは自分の仕事だし、カミューがこうして連れていってくれるところは美味しい店ばかりだ。 そこまで考えてマイクロトフはハッと箸を止めた。つまんでいたカツがぽろり、と皿に落ちる。 「俺は餌付けされているのか?!」 「どうしたの? マイクロトフ」 カミューは味噌汁をすすりながら不思議そうに首をひねった。 おわり |