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人間、30年も生きているとそれなりに様々な経験を積んでくるものだ。そのため、このぐらいの歳になれば度肝を抜かれるような出来事には、余程のことがないかぎり出くわさないだろうと思うのは当然といえよう……。 しかし、今のマイクロトフは目の前の光景に言葉をなくし、呆然と突っ立っていた。驚きのあまり瞬きを忘れ、口も半開きの状態になっている顔はさぞかし間が抜けたものになっているだろう。頭の片隅でちらりとそんなことを思うが、それを直さなくては、というふうに思うまでの余裕は今のマイクロトフにはまったく存在しなかった。 そんなめずらしい姿を目の当たりにしたカミューは、意味もなく自慢したいような衝動に駆られる。この原因に自分が関わっているわけではないというのに、くすぐったいような嬉しさが込み上がってきた。 「すごいだろ」 「ああ……」 返ってくるのは生返事で、明らかに目の前の景色に心をすべて奪われているのがわかる。いつものカミューであれば、そんなに自分以外のものに気を取られるなんて、と嫉妬のひとつもするところだが、今のカミューにはそんな思考は浮かばなかった。 目の前に広がるは果てしない水平線。 耳にはザザン、ザザン……と波が寄せる音が絶え間なく届く。 そう。2人は海を目の前にしていた。 デュナン統一戦争終結後、マチルダに戻った2人は騎士団の再建に取り組んだ。3年の年月をかけ騎士団を復興させた2人は、用意されていた騎士団長の椅子を固辞し、旅に出ていた。周りに泣きつかれ、必ず戻るという期限付きの旅ではあったが。 もし、デュナン戦争にあのようなかたちで参加していなかったなら、マイクロトフなどはなんのためらいもなく、白騎士団長の椅子についていたであろう。マイクロトフにとってマチルダは生まれた土地であり、育った土地である。マチルダしか知らずとも何の不安もなく、堂々と誇り高く役目を果たしたはずだ。 だが、マイクロトフとカミューは騎士団を離反する、というかたちで都市同盟に参入し、剣を振るった。都市同盟軍には様々な人種がおり、戦士がいた。彼らと過ごした日々がマイクロトフに新しい世界をおしえたのである。 騎士団にこの身を捧げるのは惜しくない。いや、むしろ望むところである。しかし、視野が狭いまま地位の頂点に立つのは怖いと思うようになった。 そんなマイクロトフはカミューと相談し、こうしてしばらく世界を見て回ることにしたのである。 手始めに、カミューの生まれ育ったグラスランドに向かうことにした。その途中、海を見たことがないというマイクロトフのため、とある港町に寄っていた。 十数年前、マチルダ騎士団の入団試験を受けるため、グラスランドからマチルダに向かう途中、やはりこの町で海を見ていたカミューは宿に着くと、先輩面してマイクロトフを誘った。海の近くまでくると目を閉じさせ、手を引いて海岸沿いまで案内するほどのもったいぶりようである。 しかし、目を開けたマイクロトフの反応を見て、充分満足したのだから大成功だった。 デュナン湖も広大な湖だったが、比べるべくもない。独特の潮の香り、絶え間なく押し寄せる白い波。初めてなのにどこか懐かしい感覚にとらわれたマイクロトフは、砂漠とは違う一面の砂を踏みしめ、引き寄せられるように波打ち際まで歩いていく。 「風邪引くよ」 そのまま海に入っていきそうな様子にカミューは苦笑して声をかけた。 今日はあいにくの空模様だった。空はどんよりと曇り、強い風が吹き荒れている。季節は秋の終わりから冬に移る合間で、この地方は雪が降るような寒冷な気候ではないが、それでも吹く風は身を切るように冷たかった。だが、雪国育ちのマイクロトフにはあまりこたえていないようである。 「そんなやわじゃない」 歩みを止めないマイクロトフから返ってきたのは、心ここにあらずといったふうな、どこか浮ついた返答だった。マイクロトフとて、こんな寒い中、水に濡れたりしたらどうなるかは充分わかっている。だが、それでも初めて見た海に触れてみたい、という誘惑には逆らいがたいものがあった。手だけだ、と言い訳めいたことを思いつつ、いったん波が引くと砂が濡れていないギリギリのラインにしゃがんで、そっと手を伸ばしてみる。引いた波が再び押し寄せてくると手に水が触れた。ひやりと冷たいが、それ以上でもそれ以下でもない。それはそうである。海水だからといって何が違うというのか。 考えてみれば当たり前のことだが、なんとなく期待はずれだったような気持ちを抱えつつ、マイクロトフは立ち上がった。今更ながら子供じみたことをした自分が恥ずかしくなってくる。 と、 「冷たい!」 足元を襲った突然の刺激にマイクロトフは思わず悲鳴のような声を上げた。さっきまで波が届かなかった場所、つまりマイクロトフが立っているところにまで一際大きな波が押し寄せ、マイクロトフの足を履物ごと濡らしたのである。 「だ、大丈夫かい?」 海に慣れていない2人は、波が一定のものではないということも、天気が荒れていれば海も荒れるということもいまいちわかっていなかった。 「ああ、くそ。濡れてしまった」 せっかく濡れないように気をつけて手だけ伸ばしたというのに。マイクロトフが忌々しげに唇を噛んでいる間にも次々と波が押し寄せ、マイクロトフの足を更に濡らしていく。こうなったら、とマイクロトフは開き直って濡れた靴を脱いだ。 「マ、マイクロトフ?」 突然の奇行にぎょっと目を見開くカミューを尻目に、マイクロトフはスボンの裾をまくりあげ、ずんずんと海に入っていった。カミューは慌てて波打ち際まで走り寄る。 「な、何やってるんだよ。本当に風邪引くぞ」 「うるさい」 マイクロトフは舌を出すと片足を上げてボールを蹴るように波を弾いた。大きな水しぶきが上がり、カミューの顔を濡らす。 「うわっ! つめたっ!」 思わず閉じた目を開けると、マイクロトフが波を軽く蹴りながら意地悪く笑っていた。カミューはその表情を見て、彼がめずらしくハメをはずす気になっていることを知る。いきなりの悪戯に茫然としていたカミューだったが、我に返ると、自分もそれに乗じることにした。にやりと笑みを浮かべ、靴を脱ぎ捨てるとマイクロトフに向かって突進する。逃げようとするマイクロトフに向かって手で海水を薙ぎ払い、素早く水しぶきを浴びせた。 「やったな!」 見事に上半身がびしょぬれになったマイクロトフが笑いながら反撃に出る。こうなるとあとは子供のような応酬のし合いとなった。身に染みるような冷たさをもろともせず、濡れるのもかまわずに走り回って水をかけあう。この寒空では海にくる酔狂者など他にいるはずもなく、海岸には2人の姿しかなかったのは幸いだったかもしれない。他の者が見たら、冬の海で笑いながら水をかけ合っているなど、気でも触れたのかと思われただろう。 「隙あり!」 カミューが一瞬の隙をついてマイクロトフの腰に体当たりするように抱きついた。バランスを崩したマイクロトフがたまらず尻餅をつく……しっかりカミューを巻き添えにして。もうすでに全身がびしょぬれ状態で、いまさら転んだところでどうというわけでもなかったため、座り込んだ2人は顔を見合わせて笑った。ひとしきり笑い終わるとカミューがマイクロトフの両頬を挟んでそっと引き寄せ、柔らかく口付ける。 「冷たい」 「しょっぱい」 それぞれ当たり前な感想を口にし、それにまた笑い合った。マイクロトフも手を伸ばしてカミューの頬を包むと、互いに距離を縮め、座った体勢のまま何度か口付けを交わす。唇は冷たかったが口腔の中は熱い。自然と口付けは深くなり、それだけで身体の冷たさを忘れるほどの熱を生み出していった。 しかし、それも2人同時に発した豪快なくしゃみで中断する。それにもう一度笑い合うと、ようやく立ち上がった。 「いいかげんにしないと本当に風邪を引くな」 「もう遅いような気もするけど……」 気が付けば手はしびれるほどにかじかみ、身体の芯から震えが走る。自ら取った行動とはいえ、今更ながら正気では考えられない沙汰だった。それでも、悪戯を成功させたときような達成感を味わっているのだからどうしようもない。 2人は満足げな笑みを浮かべて海を後にした。 海に向かうときの何倍も凍えながら足早に宿に戻ると、宿のおばさんが2人の格好に目を丸くした。カミューが「突然雨に降られまして」と涼しい顔で答えると、ずっと閉め切った屋内にいたため真実を知る由もないおばさんは「そりゃ災難だったねぇ」とすぐに風呂の準備をしてくれた。風呂が沸くまでこっちにおいで、と暖炉の前を譲られ、温めたブランデーまでサービスしてもらう。 ブランデーが入ったカップを両手で包むように持ちながら、こういうときは顔がいいのは得だね、と悪戯っぽく笑うカミューに、人の好意をなんだと思っている、とマイクロトフが軽く小突いた。 「荒れている海も迫力があったけど、穏やかな日の海もいいよ。空の色が海面に映って、一面真っ青になるんだ」 カミューがこの町を訪れたのは春めいた頃で、天気が良かった。空の青さしか知らなかったカミューは、見渡すかぎりの青い絨毯に声をなくすほど感動したものだ。カミューの言葉にその景色を想像したのか、マイクロトフが遠くを見るように目を細める。 「そうか。それは見てみたいものだな」 「天気が良くなるまでここに滞在すればいいさ。急ぐ旅でもない」 「……そうだな」 2人は顔を見合わせて穏やかに笑った。 |