|
「甘い匂いがする」 執務室に入ってくるなり言われたセリフに、カミューは書面の文章を目で追いながら応えた。 「ああ、さっきレイが蜂蜜入りのホットミルクを淹れてくれたんだ」 その口調が少々早口なのは余裕がない証拠である。副団長を愛称で呼んだのも、親愛の証、というよりは本当に口を開く時間すらもったいないというくらい急いでいるためであった。そうでなければ、愛しい人が自分の元を訪ねてくれたというのに顔も上げずに応答するはずがない。 カミューがここまで切羽詰っているのには理由がある。前日まで体調を崩してしまい、2、3日まともに執務に就けなかったのだ。そして、休んだ時期が悪かった。今は月末であり、ただでさえ今月中に決裁しなくてはいけない書類が山積みとなるのに、一番忙しい時期を数日休んでしまったために徹夜寸前まで追い込まれていた。 マイクロトフも事情はわかっているため気に留めたふうもなく、つかつかと机のほうに歩み寄っていく。 「おまえ、そういうのを飲むのか?」 カミューは普段、あまり甘いものを口にしない。マイクロトフの問いにカミューは書類にサインしながら、ふと苦笑を浮かべた。 「いや、疲れたときには甘いものがいいってね」 「ふうん」 応えたマイクロトフの声は何の感情を読めない固いものだった。しかし、普段のカミューならまだしも、今のカミューにはそんなことに気付く余裕もない。苦笑を浮かべたまま言葉を続ける。 「ついでにカリカリするのは、カルシウム不足だと言われたよ」 「それで牛乳か」 「そう。まあ、親切半分、嫌味半分ってところだね……」 副団長は気の利く部下だが、多少意地が悪いところもある。甘いものならコーヒーに砂糖をたっぷり入れるとか紅茶にブランデーを入れるなど、他にもいろいろと方法はあるだろうに、わざわざ幼子にするようにホットミルクを淹れたのはつまらない書類ミスをぐちぐちと責めていた自分への仕返しに違いない。 そんなことを考えていると、ふと目の前が翳ってカミューはペンを止めた。顔を上げるとなぜか息が触れるほど傍にマイクロトフの顔がある。 「マイ……?」 名前を呼びかけた唇がそっと塞がれた。唇に触れる柔らかい感触にカミューは信じられない思いで目を見開いたが、目の前には漆黒の睫毛に隠れた瞳があるだけで、マイクロトフの心理を察することができない。 呆気にとられていると、するり、とマイクロトフの舌が忍び込んできた。口内をまさぐられる動きを酷く敏感に、しかし、どこか他人事のように感じながら享受していると最後に緩く舌を絡め取られ、離れていく。 「甘い」 苦いものでも口にしたかのように顔を顰めるマイクロトフにカミューは放心状態のまま口を開いた。 「……マイクロトフも飲みたかったの?」 我ながらあまりにも間の抜けた問いだと思ったが、何が何やらさっぱりわからないこの状況ではそんなことを聞くのが精一杯だった。 「……カルシウム不足だ」 その口調はどこか不本意そうで、自分から仕掛けておいてなんだよ、とカミューは呆然としながらも腑に落ちないものを感じたが、マイクロトフにそれ以上答える気はないようでおもむろに、くるり、と背中を向けるとドアに向かった。そして、「邪魔したな」とぶっきらぼうに言い捨てて執務室を出ていく。後には呆然とその背中を見送ったカミューだけが残された。 ドアを閉めたマイクロトフはそのドアに寄りかかって大きなため息を吐いた。 「ダメだな……」 片手で覆った顔は真っ赤である。 マイクロトフがこんな奇行に及んだのにはわけがあった。 まだ本調子ではないというのに執務に就かざるを得なかったカミューに配慮した赤騎士団の副団長に、執務に励めるよう力づけてほしい、と依頼されたのだ。もちろん、マイクロトフもカミューの不調は心配していたし、様子を見に行くつもりだったのだが、いざ、行ってみると、カミューは副団長のことをあたりまえのように愛称で呼ぶし、副団長は何やら気の利いたことをしているしでなんとなくおもしろくなくなって、ついあんな行動に出てしまった。 思い返すのも恥ずかしすぎる行為に今更ながら顔が熱い。 「……逆効果もいいところだったな」 あの口達者な男がぽかんと口を開けていた様を思い出し、マイクロトフは渋い顔になった。あれでは当分仕事がはかどりそうにない。しかし、やる気を出させようとして赴いておいて、ついキスしてしまった自分にも呆れるが、あそこまで呆けるカミューもあまりにも失礼ではないか。 何はどうあれ、作戦は見事に失敗してしまったのだ。マイクロトフは仕方なく、2杯目のホットミルクを淹れるために厨房に向かった。 |